本人の意思にかかわらず、ただ男性器をつけて生まれてきたというだけで人を殺めなくてはならない恐ろしい現実がこの世界にはある。徴兵や強制的な動員によって戦場に狩りだされる兵士という存在だ。志願兵であったとしても同じ役割を期待されている点でその本質は変わらない。名誉と大義に憧れ勲章に踊らされるか、経済的な自立や家族を養うために兵士の道しかなかったならば、自覚しにくいだけ志願者のほうが悲惨かもしれない。
兵士は誰であっても、戦場で地面に倒れて冷たくなっていく自分の身体を感じながら、暗く遠のく意識が途絶えるまでの刹那に、自分は決して楽園やヴァルハラに召されるわけではないのだという裏切りに耐えなくてはいけない。本当は死にたくなかった、俺は生きたかったと。
ある兵士に誰かを守るための純粋な大義が一粒でもあったとして、その男に殺された敵兵士には同等の大義があるのだろうか。人の生命に尊厳があるならば、男だからというだけで必ず命をかける大義など存在しない。生まれ持った生殖器のみを理由に過酷すぎる義務を背負うなどあり得ない差別なのだ。争いのケリをつけるため、ペニスをつけて生まれてきた人間に、ペニスをつけた人間を殺してこいと命令する、それが戦争だ。一万年以上もの間、人類はこの最大級の男性差別に本気で取り組んだ経験がまだ無い。
不寛容で利己的な争いを望んだ罪が、ついには露払いにされる男の命でも拭いきれなくなったとき、その罰は老若男女を問わず全ての人を襲うことになる。非戦闘員の犠牲は最悪の結果かもしれない。しかし、男にとってみればそうやって全員の命が差し出されてはじめて平等に扱われるのだ。なんという皮肉だろうか。
苦しい訓練を耐えてつくり上げた屈強な肉体も、機関銃にかかればいとも簡単に鉛玉を撃ち込まれて内臓を破壊される。懸命に努力し学んできた頭脳も、大切な人たちとの思い出も、狙撃手のスコープに収まれば一瞬で撃ち抜かれ脳漿をぶちまけることになる。
砲撃や地雷、手榴弾の爆風に四肢を吹き飛ばされる。たとえ一命を取り留めたとしても、しばしば生殖器の破壊や脊椎損傷によって男性機能を奪われる。どれだけの帰還兵がその悩みを打ち明けることも出来ずに苦しんでいることだろう。
兵士は火炎放射器に皮膚と肺を丸焼きにされ、毒ガスに悶え苦しみ、戦艦や潜水艦が撃沈されたなら海中に放り出されて窒息する。あなたは男に生まれたという理由でそんな最後を迎えることがどれだけ酷いことか理解できているだろうか。男たちはおよそこの世にある痛みのなかでも最悪な方法で命を奪われるのだ。そして、そのとき同時に数えきれないほどのペニスと睾丸が彼らと運命を共にしている。
生存本能を弄ぶような仕打ちを受け続けたオスたちが、作戦行動外でも残虐な行為を敵地で繰り広げ問題になるのも当然だろう。何故なら、そもそも彼らの命が先ずもって蔑ろにされているのだから。
極限状態に置かれた彼らが敵の尊厳も冷静に守ることができるだろうか。殺せと命令されていた相手を少しの状況変化で今度は守れと言われるのだ。その矛盾に対し瞬時に頭を切り替えて良好な人格を保つ自信があなたにあるだろうか。兵士になった男にはそんな超人的な振舞いがごく当たり前のように求められる。
戦地に赴いた男は自分が戦争犯罪人として裁かれる責任も背負っているということだ。生存本能や意思に反して命をかけて戦わせられているのに、男たちは些細な命令違反はもちろん、行為の残虐さを後だしで評価され裁判によって犯罪者にされる。世界はいったいどこまでオスを苛めれば気が済むのだろうか。
戦争になれば腹いせや拷問、かつては奴隷にするために男性器が切り取られることが当然のように行われてきた。住民にまで被害が及ぶジェノサイドが起こった場合、男性だけを選別して処刑する例も後を絶たない。紛争地の井戸や埋められた穴からは、ときどき大量の切断された男性器が発見される。
戦争はこの世で最も暴力的で残虐な男に対する大量去勢だ。
日本語でペニスのことを男根と表現する。男性の生命と生殖を象徴する部位を「根」というのは確かに相応しく感じる。ある国の男性を根こそぎ戦争のために動員するというのは、まさに男の大切な根っこであるペニスを無理やり取り上げることだと想像すれば、戦争という名の去勢がよりリアルに感じられないだろうか。
実際に数にして考えてみよう。日本に徴兵制があった1940年代当時、正規軍として配備されていた男性は約225万人いた。さらに検査によって19歳から45歳のいつ召集されてもおかしくない男性が約350万人控えており順次戦地へ送られた。九死に一生を得て帰還しても再び三度と駆り出されることもあったのだ。
575万人という数に現実味を失うなら、彼らの股間にぶらさがっていたペニスと睾丸に思いをはせてもらいたい。そうすれば彼らのことを生きた人間として身近に感じることができるだろう。最終的に先の大戦で失われた日本兵は約230万人とされている。それは当時で言えば大阪府の全人口に近似であり、現在なら京都府の全人口とほぼ同数だ。
あまりにも滑稽に思えて誰も面と向かって考えないかもしれないが、愚直に計上してみてほしい。彼らがいわれのない男性差別によって尊厳もなく根こそぎ使い捨てにされたことを意識し、失われた男性器を敢えて俗っぽい呼称にして記述してみよう。
日本人男性230万本のチンポと460万個のキンタマが失われたのだ。
彼らは神社に合祀された掴みどころのない英霊なんかじゃない。ごく普通の何処にでもいる少年が成長して男になったのだ。空き地で野球をして漫画を読み、恋をしては恋に敗れ、セックスに憧れ自慰もした。あなたと何も変わりはしない、たった80年ほど昔に生きていた人だ。
興味があれば1945年の日本の人口ピラミッドを調べてみるとよいだろう。21歳から45歳までの男性が何かでえぐり取られたように陥没しているグラフを見ることができる。彼らは大正時代に生まれた男たちだった。彼らの実感として自分のペニスと睾丸の寿命は生まれて25年間しかなかったのだ。13歳で精通したとして使い物になったのは僅か12年間だ。そのうち本当に性交が可能だったのは片手で足りる年数だろう。
男児の無垢なチンチンのまま終われたほうがまだ良かったかもしれない。230万本のなかには成熟してしまった生殖器を切なく股の間に揺らしながらも、一度もそれを膣で温めてもらえず散った童貞のペニスが何本もあったはずだ。生殖に漕ぎつけた男たちであっても、心では泣きながらあまりに限られた時間のなかで必死に腰を振って種を残した。直接的にも間接的にも、そのおかげで私たちは今ここにいるのだ。
人類の歴史上、戦争がなかった時代など無い。2022年から始まった紛争でも北方の大国と豊かな農地をもつ東欧の小国が血みどろの戦いを繰り広げる。小国の大統領は大国と戦うために18歳から60歳の男性に対して国外に逃げることを禁止した。実質これは現役世代にあたる男性を全員徴兵したことに等しい。
現実味を持たせるためにその人数をできるだけ明確にしてみよう。かの国の人口は決して少なくはない。世界35位、全人口約4340万人はカナダよりも多いことをご存知だろうか。その内18歳から60歳の男性を推定すると約1200万人にも及ぶ。東京都の現人口は1400万人弱だ。
彼らは女性や子供、高齢者が国外に脱出するなかで、経済的な理由などで残らざるを得ない住民と自分たちのために、必要なライフラインを日々必死に支えている。空襲を受けるからと避難だけしていても国は回らない。その上で捻出できる戦闘員は国内に残った男性の4割弱と想定しても、最大で約430万人もの男に兵士として召集される可能性があるのだ。四国の人口をすべて合わせても320万人に及ばない。
遠く八千キロ以上離れているとはいえ、今この時代のとある国で430万本のペニスと860万個の睾丸が国によって使い捨てられることを前提に拘束されているのだ。それらがいつ失われることになるのか本人たちにも分かりはしない。
一方で、北の大国の男たちはどうだろう。国際社会に非難される独裁者に国を委ねなくては立ち行かない彼らは、ある意味もっと悲惨ではないだろうか。ペニスをぶらさげた大国の男たちは、ある日突然同じようにペニスをぶらさげた隣国の男たちを殺しにいかなくてはならない。あなたと同じオンラインゲームで遊んでいた少年の面影を残すような若者であってもだ。
徴兵を忌避した男は逮捕され不名誉な前科者としてその後の人生で大きな枷を引きずることになる。純粋に10年近く牢獄で人生を無駄に消費させられるかもしれない。かつての大戦ではアメリカですら徴兵検査を不合格になった男の自殺が珍しくなかった。戦いの使い物にならないというレッテルはそれほどまでに男を追い込む理由になるのだ。兵士になっても地獄、残っても地獄だ。そんな男性差別を受けるいわれがどこにあるだろう。
街頭インタビューに応えた北の大国の若い男は、ポケットから召集令状を取り出してみせた。「これから酒をしこたま飲みに行くんだ」彼は自暴自棄な様子でそう言って取材カメラの前から去っていった。
北の大国はかつて欧州列強や新興の日本にすら大敗し何度も首都を焼かれた。当時最新の兵器を装備したナチスドイツに包囲された街で、兵士たちはまともに武器すら与えられず、退却しようものなら味方からも撃たれ軍法会議もなく処刑されたのだ。
彼らはイデオロギーの行き詰まりと政治腐敗によって国が崩壊する経験までした。ライフラインや医療すらまともに受けられない社会で、あなたは生きていく自信があるだろうか。力強い独裁者を支持する民意は、そんな亡国の恐怖を拭うためならペニスと睾丸をぶら下げた男たちを真っ先に使い捨てて構わないのだ。
ソーシャルメディアには大国の将校を倒した知らせが彼らの顔写真付きで晒される。仮想現実の出来事ではない。AIによる顔画像認識によって戦場で倒れた男たちはネット上のデータベースに照会されているのだ。
想像してほしい、あなたが先ほど気軽にソーシャルネットワークにアップした写真が同じように使われる日のことを。戦争となれば、デジタルの海に漂流する自分の肖像を守る権利すら男には無いのだ。
はたして大国の将校たちは一方的に断罪される存在なのだろうか。祖国を守るために戦った男たちは戦争が終われば大切に扱ってもらえるのだろうか。必ずしもそうではないことを歴史は証明している。そもそも男は使い捨てにして良いと考えられているから戦争の手段に採用されるのだから。
人類のなかには「せめて流れる血を一滴でも少なく」と考える識者もいるだろう。しかし、本当にこの世から戦争を減らし最悪の男性差別に本気で取り組むならば、こう言い換えたほうが良いかもしれない。
失われる男たちのペニスが一本でも少なくなるように。
失われる男たちの睾丸が一個でも少なくなるように。
これを陳腐だと思う者は、男であれ、女であれ、子供であれ、年寄りであれ、自分が無意識に男性差別主義者になっていると自覚するべきではないだろうか。子宮の出産能力に比べれば、ペニスや睾丸の射精能力など大切にする価値など無いと思っている証拠だ。
普段の暮らしからでも男たちは悟らなければならないのだ。若い男のためにきつい肉体労働のアルバイトが高い時給で用意されていることが、本当は男性差別であることを。本心の興味を押し殺し、将来の出世や給与には役立たない進学先を諦める理由が家族を養うことなら、それは男性差別であることを。家族と過ごす時間すら削ってはるか遠方で単身赴任をしたり、不健康なシフトや危険な現場で働くことが、男性差別であることを。
男が歳をとりやがて病気になって7年もの平均寿命差を女性につけられることは、人生で差別をうけてきた積み重ねの結果なのだ。しかも、それをまるでY染色体の脆弱さだけが原因であるかのように信じ込まされている。騙されてはいけない、もし脆弱ならばむしろ大事にされるのが当たり前の理屈なのだから。
とある小説家が「すべての男は消耗品である」と言い切ったように、世界の仕組みは男の人生を去勢するために準備されている。男は生まれたときから精神的にも物理的にも去勢に向けて生かされているのだ。あなたのペニスと睾丸を心から大事に思ってくれる人などこの世には存在しない。
男たちよ、あなたの体はあなたのものだ。家族のものでもなければ、国のものでもない。いかなる組織や思想の隷属でもない。どうか一秒でもはやくそのことに気付いてほしい。
日本に存在する6211万飛んで764本のペニスと1億2422万1528個の睾丸よ。惑わされるな、せめて君たちだけでも去勢される運命に抗ってくれ。
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-おまけ-
『ゴロボロジコの戦争映画案内』
(注)※ネタバレを含みます。
※未鑑賞の方はご注意ください。
※男性差別という視点で解説します。
①「プライベート・ライアン」
②「ハクソー・リッジ」
③「アイダよ、何処へ?」
④「アメリカン・スナイパー」
⑤「ファイト・クラブ」
⑥「フューリー」
⑦「ジョニーは戦場へ行った+芋虫≒キャタピラー」
⑧「スターリングラード」
⑨「TAKING CHANCE」←new
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①【プライベート・ライアン】
トム・ハンクス主演のノルマンディー上陸作戦を題材にした映画です。海上から進軍する欧米連合軍 VS 待ち構えるナチスドイツ軍による大規模な攻防戦から始まります。その冒頭20分の戦闘シーンが非常にリアルで凄惨であることが有名です。プライベートとは二等兵というような意味。
上陸船の扉が開いた瞬間から男たちは高台からの機関銃連射に晒され鉛玉の的になります。そこに男の命の尊厳など欠片もありません。大勢の男たちが紙のように身体を撃ち抜かれていきます。下船すらできずに堪らず飛び込んだ海のなかで息絶える男たちも大勢います。
上陸直前、死を覚悟せざるを得ない状況のなか数名が極度の緊張のために船上で嘔吐するシーンが印象的です。どれだけ男たちの体が戦いを拒絶しているかが窺い知れます。どうして俺はチンポが付いているだけでこんな目に合わないといけないのだろうと。
嘔吐の様子は派手な演出ではないですが、男という生き物が本当に使い捨てであることが凄惨な戦闘シーンよりもある意味よく表現されている描写です。彼らは別に罪人でもなんでもないんです。たまたま男性器を付けてその時代に生まれただけなのです。生存本能が必死に逃げろと言っているにもかかわらず、彼らにはそれが許されないのです。
そもそもこの映画の主人公たちが序盤以降に行動する目的が題名にもなっているライアン二等兵を救出しにいくことなのですが、その理由が全員徴兵された男三人兄弟の一人であるライアンがその時点で唯一の生き残りであるためなのです。三人息子の訃報が同時に家族に届くのを防ごうということです。ちょっと考えればおかしいと思えてきますね。それは本当に命の尊厳という点で意味のある作戦なのでしょうか。
男の命を軽んじる社会でも流石に三人息子が全員戦争で死ぬという分かりやすい悲劇を前にして、やっと何か取り繕いたくなったということです。しかし、それをまた誰かの息子の命を使って成し得ようとする。凄まじい矛盾を孕んでいます。男性差別という視点でみれば、結局のところ国のイメージ戦略のために男たちの命がさらに無駄に消費されるというお話に他なりません。
本作に詳しく登場はしませんが、ノルマンディー作戦では落下傘部隊による内陸への降下作戦も有名です。危険な降下訓練を乗り越えてきた男たちが、逃げ場のない輸送機のなかで飛び降りる前から高射砲の餌食になり絶望的な恐怖と不安のなかでハチの巣にされました。地上から高速で放たれる対航空機用の弾丸が身体の下から上へと貫かれる痛みと熱を想像して下さい。ペニスを持つ男ならそんな酷い目にあうのが当然なのでしょうか。
映画としての質はB級に属しますがジュリアス・エイヴァリーという監督が撮った「オーヴァーロード」という作品の冒頭でこの降下作戦の悲惨さがよく表現されています。実際に作戦に従軍した男性の証言によればそう都合よく陸地で部隊が再集合するなどできるわけもなく、孤立して大変な思いをされたそうです。オーヴァーロードでもパラシュートが木に引っかかったところを狙い撃ちされたのであろう男たちが大勢ぶら下がっている描写があります。
中盤以降は改造人間が登場して一気にB級さが加速しますが、男性の身体を使った人体実験というのは男を差別するという意味では大きなテーマになりうると思います。もしかしたら学生の頃に皆さんも触れたであろう遠藤周作の小説「海と毒薬」は有名ですね。生きたまま米軍捕虜の男が九州大学病院で解剖された実話です。
男の体というのは医術や薬の技術を進歩させるためにも使い捨てにされてきた歴史があると思います。神風特攻隊に使われたというメタンフェタミン、別名ヒロポン。戦闘機のコクピットというのも狭く辛い環境です。飛行機自体も張りぼてのように軽く、しかし硬い金属の檻の中で男たちは長時間座り続けなくてはいけません。特攻などまさに男の使い捨てそのものなわけですが、それに加えて容赦なく覚せい剤まで投与されていたとすれば、やはりペニスをぶら下げている生き物に尊厳などないことがわかります。
ナチスドイツやベトナム戦争時のアメリカではアンフェタミンが男たちに投与されました。薬物による脳の破壊は不可逆的です。代謝されて薬が抜ければそれで元通りというわけにはいきません。それは本当に凄まじい身体症状と苦しみをもたらすことをあなたは想像できるでしょうか。離脱の苦しみは見た目では分かりずらく、自分の責任でもないのに戦後になって周囲からヤク中と罵りを受けた男もいたでしょう。
男性器のせいで戦争に駆り出された男たちは、戦闘薬を投与されてまでも戦わされるのです。男を実験材料にして生み出された様々な医療技術の恩恵をうけ、長い寿命を享受しているのは先進国の女性だけであるというのに。間違いなくこれは男性差別の顕著な例でしょう。
②【ハクソー・リッジ】
良心的兵役拒否者という言葉があります。その言葉が意味する内容には時代により変遷がありますが、アメリカの小さな町に住む映画の主人公は家族で信仰する宗教の「なんじ殺すことなかれ」という不殺の精神を貫いたうえで、男である自分の存在を戦争のなかで見出そうと必死に努力します。実在した人物をモデルにしたお話しです。
そもそも何故、男に生まれただけで不殺と生々しい殺し合いが繰り広げられる前線での従軍という矛盾に悩まなくてはいけないのでしょうか。女性ならば銃後を守りますと社会奉仕する方法で戦時でも容易に不殺で貢献できる道を選ぶことができるのに。看護など戦場の後方支援に参加しても彼女たちに人を殺す義務はありません。
武器を持てない主人公は当然新兵訓練の段階から同僚や上官による壮絶なイジメにあいます。男社会にとって戦わない男は排斥されるのです。まだ訓練中にもかかわらず主人公はついに軍法会議にまでかけられます。
映画で描かれる良心的兵役拒否者に対する扱いは除隊さえすれば良いからさっさと軍隊から出ていけという印象を受けます。しかし、大戦中にアメリカにおいては二万人以上の男が軍から逃亡をはかり、49人が軍法の正式な手続きのうえで銃殺になっているそうです。ひとたびペニスをつけて生まれてしまえば、死ぬのは嫌だという当たり前の理由で逃げ出すだけで民主主義の法治国家から死を宣告されたのです。
主人公は武器を持たない衛生兵として「のこぎり山」という意味の沖縄にあるハクソー・リッジの激戦で八面六臂の大活躍をします。訓練ではさんざん彼のことを排斥した同僚や上司たちも献身的な主人公の救助活動に存在を認めざるを得なくなるのです。しかし、逆に言えば、戦わない男は最低限の武装もせずに命を曝け出したうえで必死になって矛盾に抗わなければ、人間として認めてもらえないということでもあります。主人公の苦しみはただペニスと睾丸を持って生まれてきたという選びようのない理由のために起こったのです。
主人公のお父さんの生き様も注目すべき点です。冒頭からいつも機嫌の悪そうなDV気味の親父として彼は表現されます。お父さんが昼間から酔っ払ってむかうのは、かつて自分が従軍した戦争でむごたらしく死んでいった幼なじみたちのお墓です。彼は志願しようとする息子たちを諫めます。女にもてるかっこいい軍服、さも正しく聞こえる大義やプロパガンダ、そんなものに何の価値があるのかと。
まだ少年の頃の主人公にお母さんが言います「お父さんが嫌いなのは自分なのよ。戦争に行く前のお父さんをあなたに見せてあげたかった」と。戦争を通じて使い捨てられ人格すら喪失する男の悲哀をお母さんが理解してくれているのは数少ない救いです。
成人した主人公は今だに暴力的な父を許せません。主人公はついに拳銃まで取り出してそれを父親に向けます。戦争で心が壊れてしまった父はいっそ息子に撃ち殺されることを望みます。主人公は「父を心のなかで撃った」と後に振り返るように、そのときの経験が戦場でも不殺を貫く確固たる誓へと繋がっていきます。
そこには戦争で使い捨てにされた男がPTSDになること、そしてそれが父子の愛情を歪めてしまうことが描かれています。父親という男親の存在の脆さをよく表現していると感じます。
男親の息子に対する愛情というものはもっと掛け替えのないものとして大事にされなくてはいけないはずです。しかし、男を使い捨てにする差別社会では父親から我が子との幸せな時間を奪うのです。男らしさという屁理屈であれこれ理由をつけて、ペニスをつけて生まれた者にそんな家庭的でやわな幸福は与えられないとでも言うように。
戦闘は沖縄戦なので敵軍は日本兵です。塹壕のなかから褌一丁で飛び出してきては撃ち殺され、火炎放射器で焼かれる日本男児たちには命の尊厳など当然ありません。日本軍の上官は塹壕のなかで切腹します。大戦もいよいよ終盤になっているというのに男たちは生き残ることも許されません。失われた230万本のチンポと460万個のキンタマたちを象徴する姿と言えるでしょう。
日本の男たちが玉砕させられていく姿としては、HBO制作の戦争ドラマ「THE PACIFIC」にもよく描かれています。ペリリュー島でのアメリカ軍と日本軍の激しい戦闘の後、日本の男たちは生きながらにナイフを口に入れられて金歯を抜かれたり、脳漿が吹き飛んだ頭蓋のなかに石を投げ込まれて遊ばれるというような残酷な描写があります。
戦争ではよく兵士による女性レイプなどが取りざたされますが、平時であれ戦時であれ暴力や殺人の被害者はどう考えても男性のほうが多いに決まっています。どうしてそんな当たり前のことがおざなりにされるのでしょうか。
ハクソー・リッジの監督は俳優としても有名なメル・ギブソンです。彼は戦争をテーマにした映画をよく撮っていますね。13世紀のスコットランドを描いた「ブレイブ・ハート」や主演のみですがアメリカ南北戦争を扱った「パトリオット」も戦争で男がどのように扱われるかを鑑賞できる映画だと思います。
パトリオットには大ヒットしたバットマンのジョーカー役で狂気じみた演技を披露し、映画公開前に夭折したヒース・レジャーのかなり若いお姿も拝見できます。余談になりますが、ヒースも離婚に際して娘さんの親権を得られず家族の幸せを取り上げられたあたりから薬物依存に陥った可能性があります。
戦争とは別に「離婚」というテーマも男性差別を多分に含むものだと思います。圧倒的に男は親権を剥奪されがちです。家や財産を強制的にとりあげられたうえに、養育する義務も背負います。愛する子供ならまだしも女性がこっそりコンドームに穴をあけて出来た赤ちゃんにも責任は生じます。ペニスは本当にそんな罪深い存在のでしょうか。オスは生殖の呪いに騙されているとしか思えません。
選びようもなくペニスを持って生まれ、どうしようもなくペニスを挿入して射精したい性衝動を与えられ、家族を養うために働き続ける責任を背負わされるのに、その家族の幸せからは精神的にも物理的にも引き離され、戦争になれば真っ先に使い捨てにされるのです。
戦争と不殺の矛盾が大きなテーマになっているハクソー・リッジですが、何のプレッシャーもなければ普通は誰も殺したくないに決まってますよね。それなのに何故か戦争になれば当たり前のように殺してこいと言われるのが男なのです。それを本気でおかしいとは誰も言ってくれません。
③【アイダよ、何処へ?】
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるスレブレニツァの虐殺をテーマにした映画です。1992年に起きた事件をモデルに作られています。主人公は平和維持のために派遣されている国連軍の基地で通訳として働くアイダという主婦です。いわゆる戦争映画とは毛色が違いますが、このスレブレニツァの虐殺は住民から男性だけを選別して行われたのが特筆すべき点です。純粋な戦闘とはまた異なる男性差別の側面が描かれています。
オランダから派遣されている国連軍がとにかく弱腰のために難民も国連軍も性差別主義者を絵に描いたようなセルビア軍の幹部の言いなりにされてしまいます。国連軍基地に逃げ込んできた難民たちには性別による容赦ない選別が行われてしまうのです。
用意された避難用のバスにはセルビア軍によって女性と子供しか乗せないように仕向けられます。ペニスと睾丸をぶらさげた男たちは別の列に並ぶように家族から引き離された後、処刑されるのです。中には母親が息子に拙い女装をさせてなんとか逃れさせようとする場面もあります。だって男性器さえついてなければ助かるのですから。しかし、愚かなことに国連軍の兵士がそれを見つけてバラシてしまいます。
チクってしまったオランダ軍の若い兵士の姿には、男が男の権利を守るというあたりまえの人権意識が欠けていることが露呈しています。悪気がないと思える分、それはとてもタチが悪いことなのです。
主人公のアイダも息子二人と夫を助けようと奮闘しますが、男たちは結局どこかへ連れ去られてしまいます。父と息子二人が最後にうっすらと涙を浮かべながら、他の男たちと一緒に押し込まれた小さな体育館で見つめ合う姿があまりに切ないのです。
男として生まれたばかりに、股間にペニスと睾丸があるばかりに、父と息子たちは命を奪われるのですから。そのとき体育館のすぐ側ではセルビア人の子供とその家族はごく普通の日常生活を送っているのです。
ラストで描かれる紛争後の様子では、殺し合った民族同士が小学校の参観日で当たり前のように同じ空間に座り笑顔で観覧しています。未来は子供たちに託されました。しかし、まだあどけなく小さなおちんちんをつけた男児たちが同様の男性差別を受け続ける限り、歴史はただ繰り返すだけと思わされるのです。
男が男を大事にしないという独特の感覚。自分自身に対しても、他者に対してもです。男たちはなぜそのような特殊な性質を剝き出しにするのでしょう。男という性を自分たちで大事にしなければいったい誰が守ってくれると思っているのでしょう。女性は自分と子供を守ることで精一杯です。ペニスと睾丸たちよ、女性に幻想を抱いてはいけません。勘違いしてはいけないのです。
④【アメリカン・スナイパー】
全米でなんと3億ドル、日本円にして約280億ぐらいを稼ぎ戦争映画史上で最高額といわれる興行収入を出した映画です。2000年代初頭イラクの核兵器開発疑惑は世の中を常にきな臭く燻り続け、その最中アメリカのワールドトレードセンターへハイジャックされた旅客機が突っ込み倒壊するというあまりに悲劇的なテロ事件も起きました。男の命を派遣し続けたところで呪いは拭いきれなかった事例のひとつです。
映画はイラク戦争に実際に従軍した狙撃手の人生を再現しています。「米軍史上最多、160人を射殺したひとりの優しい父親」というキャッチコピーからして矛盾に満ちていますね。優しい父親、つまり主人公は本来なら優しい男性のはずなのに彼は敵国で160人を殺す義務を負いました。なぜでしょうか、それは彼にペニスと睾丸がついていたからです。
主人公は将来妻になる美しい女性との遊園地デートでみごとな射的の腕前を披露します。ゲットしてもらったクマの縫いぐるみを嬉しそうに抱きながら彼女は聞きます「あなたは何になりたかったの?」と。俺はカウボーイになりたかったんだと主人公は答えます。それなのに彼のペニスが選んだのは海兵隊のスナイパーでした。
ペニスが主人公にそのような人生を選択させた背景にはマッチョで厳格な父親の教育が影響しています。彼は小さい頃から父親に連れられて狩猟を嗜んでいました。子供の頃からライフルを撃っていたのです。
ある日、いじめっ子と喧嘩をして帰って来た主人公兄弟に父親が説きます。人間には「羊、狼、番犬」の三種類があると。世の中に悪者などいないと信じて敵があらわれても自分を守ることもできない腑抜け者が羊、暴力で弱者を餌食にするのが狼、群れを守るために力を駆使するのが番犬だと。
父親は続けます、ちんちんと金玉が付いているくせに羊になるなら俺はお前たちを育てない。当然、弱者を食い物にするような腐れチンポ野郎の狼など許さない。だが大切な家族はお前のペニスと睾丸にかけて必ず守れ、男なら番犬になれと。番犬には悪をやっつける義務がある、そういう男になるつもりがない息子を俺は父親として愛さないというメッセージです。
主人公は従軍する以前は大好きなロデオ競技に打ち込む青年でした。しかし、夢ばかり追いかける彼の気を引くためなら浮気も辞さない恋人が間男とお楽しみのところを目撃してしまいます。彼女は言います「カウボーイですって?ただの牧場使用人のくせに!」と。おまけにセックスも下手だと罵られます。
その後、大使館爆破事件をきっかけに海兵隊に志願したことが描かれますが、本来なら彼はやはり少年の頃からの夢であるロデオカウボーイでいればよかったのです。従軍した本当のきっかけは彼女が発した「使用人」扱いであり、さらにそのバックグラウンドにあるのが父親による「羊」は認めないという洗脳です。ダメ押しのセックスでも役に立たないは男にとって殺し文句ですね。
女性に認められるためには使用人のペニスでは経済的に十分ではなく、大前提として羊のような腰抜けちんちんも狼のような腐れチンポも当然認めてはもらえず、じゃあ俺はどうすれば愛されるのだろうと考えたときに彼は立派ないちもつを持つ番犬になるしかないのです。
彼のスナイパーとしての初仕事は悲惨でした。ライフルのサイトスコープが母子のように見えるヒジャブを着た女性と二次性徴に達する直前ぐらいの少年を捉えます。部隊と車輛に近づく二人からはいかにも怪しい雰囲気を感じ取りますが撃ってもし一般人なら軍法で裁かれ刑務所行きです。
女性は少年に対戦車手榴弾を手渡します。黒が確定です。立派な番犬のいちもつをぶら下げた主人公は、まだ金玉に毛も生えていない少年を殺さなくてはいけませんでした。将来一人前のペニスに成長したかもしれないイラク人の少年はおそらく母親とおぼしき女性から爆弾を手渡されて使い捨てにされました。それを番犬にされたアメリカ人の男性が撃ったのです。
主人公も少年も男性器を持って生まれたためにそのような運命を背負ったのです。爆弾を拾った母親らしき女性も主人公によって狙撃されます。戦争が長引き、戦場が自国の市街地や町で起こるようになれば、もう男のペニスだけでは争いの罪は拭えません。誰であっても平等に命を失います。
物語の中盤で主人公はバズーカを拾ったまた別の少年をあわや狙撃しなくてはいけない場面に遭遇します。幸い男の子が武器を投げ捨てたので彼は渾身の溜息をついて安堵するのですが、力が一気に抜けるように息を吐くときの彼の表情は映画のなかでも印象に残りやすいシーンです。
大人のペニスをぶらさげた男がまだ無垢で幼いちんちんしか持たない少年を殺さなくてはいけない。それは男性差別の縮図に見えます。敵を殺すように教え込まれたイラク人の少年たち。主人公はかつての自分と重なるはずです。少年はそうしなくては存在を認めてもらえない、愛してもらえないのです。
やがてPTSDを発症した主人公は精神科医に聞かれます「軍の公式記録によればあなたは160人を射殺したそうですね。正直、そんな経験はしなければよかったと思いませんか?」と。「いいえドクター、俺は悪者から仲間を守る番犬です。だから俺は神にも許されるし、後悔があるなら守れなかった仲間のことだ」と主人公は言い張ります。しかし、それが本心でないことぐらい精神科医でなくとも分かります。
退役した彼はドクターの勧めもあり救えなかった仲間への後悔を癒すために傷痍軍人たちのピアサポートに取り組みます。そこで彼が手段として選ぶのがかつて父親から教わった射撃体験であることもまた皮肉です。彼は男を守り育てる方法としてそのようなやり方しかできないんですね。立場を変えれば帰還兵の男たちも弾を撃つことを肯定してもらわないと重い口を開き本心を喋らないのです。
番犬のペニスに用意された物語の結末はやはり悲惨でした。いつものようにPTSDに苦しむ帰還兵のサポートに出かけた主人公はその元兵士に撃ち殺されて人生を終えます。映画は彼の棺を見送る市民が雨の中大勢立ち並ぶ実際の様子が映し出されて幕を閉じていきます。彼は英雄になりました。
現実の世界で、主人公のモデルになった男性の父親は涙ぐみながらその後メディアのインタビューで語っています。私は退役した後の息子の方がずっと心配だった。息子は良く訓練された兵士だが、良い民間人になる訓練は受けていなかったからと。父親は議会が息子の死後に名誉勲章を授ける法案を拒否しました。息子は英雄になることなんて望んでなかったと。
犯人の元兵士も主人公のモデルになった男性とほぼ同様にペニスによって軍人を選ばざるを得ない人生でした。彼もまた戦場からの電話で父親に「僕がもし子どもを殺したらどう思う?」と話し苦悩しています。
被災地派遣の任務では食べ物をせがむ現地の子どもに自分の軍用レーションを規則のために渡せなかったことをずっとその後も悔やみ続けました。彼もまた優しい男性だったのです。工事で釘を打つネイルガンの音にも飛び上がるほど怯え、いつ起こるかもわからないパニック発作に苦しみ続けた彼は、殺人を犯し終身刑になりました。
全米の死刑囚の1割は退役軍人だという報告もあります。ちんちんは生まれたときから差別され、ペニスになれば兵士にされ、使い捨てられて心を病み犯罪を犯せば腐れチンポの扱いを受け、ときに死刑の宣告まで受けるのです。
さて、未亡人になった主人公の妻はその後実際にどんな人生を送っているでしょうか。少なくとも彼女は当時のオバマ大統領の銃規制には反対しています。彼女は搾取者とさえ批判も受けました。もしご興味があれば調べてみて下さい。
男の子のおちんちんを番犬や英雄に育てることが本当に彼らを幸せにするのかを考えなくてはいけません。散っていったイラクの少年たちのちんちんに思いを馳せて下さい。ペニスと睾丸を持って生まれた男の子たちに番犬をあたりまえに期待することが男性差別でなければ何なのでしょうか。あなたが主人公なら、あなたがイラクの少年なら、こう思ったかもしれません。俺は、僕は、チンポなんかつけて生まれたくなかったと。
⑤【ファイト・クラブ】
戦争映画とは違うけれど「男の内なる戦い」と言っても良い作品。独特な味付けの小説が原作にある映画でよくもまあちゃんと再現できているなと感心してしまう。ストーリーが単純な戦争映画じゃないのでネタバレは極力避けることにする。
イケメンでセクシーなブラットピット演じるタイラーという人物を中心に夜な夜なバーの地下で繰り広げられる男たちの殴り合いの私闘。酷い流血表現があるため、おそらくちゃんとこの映画を観ていない人が抱くイメージと実際の内容には相当の違いがありそうな一本だ。実際にきちんと観たら「こんな映画だったんだ!?」と思うだろう。誤解されやすいが男が暴力を礼賛する映画ではないし、ブラピは主人公じゃない。
戦争映画が暴力描写を使って正反対の反戦メッセージを伝えるように、この映画も男達の生々しい暴力を使って他害行為の無意味さや、生きることの大切さを伝えていると受け取ることができる。
男性器を奪われることを作者が表現したいことのメタファーにしているのであろう場面も多い。「睾丸の去勢」については実行に至るシーンはないが具体的な方法は宣言されて2回ほど出て来る。その方法とはゴムバンドで睾丸だけを縛りあげてから刃物で切り取るというものだ。
主人公が惹かれた女性の部屋を訪れたときに彼女が使うのであろう立派な男性器のディルドが置いてあるのを見つける描写もある。彼女は「心配しないで。それはあなたの恐怖ではない」と声をかけるのだ。モノとして女性の目的のために切り取られ部品になってしまったペニスはどんなことを意味するのだろうか。
印象的なのは主人公が睾丸がんの自助グループに入り浸るシーン。不眠に悩む主人公は主治医から薬に甘えないように言われ、食い下がる主人公に医師は「もっと苦しい地獄を見てこい」と睾丸がんの自助グループを教えられるのだ。
そこでは男性たちが互いに抱き合って泣き崩れる様子が描写される。睾丸を切り取られた大の男たちが「俺たちはまだ男だ、俺たちはまだ男だ」と言って嗚咽し合うのだ。病気が原因で別れた妻に再婚相手の種ではじめての子供が出来たことを報告して泣き崩れる男、ジムで鍛え上げた巨漢の男は睾丸摘出のあとの女性ホルモン治療で巨乳になってしまう。
資本主義が発達した近代以降、女性たちは解放されていくなかで、それまで特権階級だった白人男性は取り残されもはや奪われ続ける立場になっているのに「被害者」とは認識してもらえないでいる。
睾丸を奪う方法にこだわる去勢シーン、睾丸がんの自助グループで泣き叫ぶ男達、女性の部屋にある彼女たちが男の代わりにセルフプレジャーとして貪る巨大なペニスのディルドなどは全て「男が剥奪されていく恐怖」だ。つまり、簡単には被害者になり切れない男性へ、去勢恐怖を使ってある種後押しをしているように感じる。君たちは十分被害者だし、人生の不能者になっていると。
虚勢を張って強がる男に去勢という男にとって最悪の痛みを突き付けることによって自己破壊を促し、その痛みによって普段は目を逸らしている自分自身と向き合わせるのだ。
なので、ファイトクラブで繰り広げられる暴力の性質は基本的に徹底して「自傷」行為なのだ。男たちは相手を打ちのめすのではなく、自分たちが傷つくことに生きる悦びを実感している。ファイトクラブの私闘で唯一主人公が他害目的で殴るシーンは意味のない虚しい行為としてちゃんと描写されるので確かめてほしい。
資本主義は確かに一定の物質的欲求を満たしてくれた。成功者との差はあれ一般的な白人男性であればそれなりに充実した生活は送れる。しかし、発達した社会で男性の原始的な欲求は抑え込まれて自他ともにコントロールされすぎた為に本当の「痛み」、つまり本当の「生きる」実感を無くしてしまったのだ。
睾丸を奪い取る去勢という手段も、そのような痛みのうちの一つにすぎない。タマを失う痛みを想像すればお前はもっとちゃんと生きることができるだろうと。ブラピ演じる人物はファイトクラブの男達に傷つき痛みを味わうことを「宿題」にすることで次第に彼らを支配していく。
戦争まではいかないけれど、物語の展開として集団化、組織化され外に向くことになった暴力がいかに危険で悲惨な結末になるか、後半からは破滅への怒涛の疾走がはじまる。このあたりはお話しの肝になる仕掛が見事にターニングポイントになっている。残念ながら、ファイトクラブは自傷行為では留まらなかったのだ。
主人公、ブラピ、そしてハリーポッターでデスイーターのベラトリックスを演じたあの女優さんが毒婦感モリモリで魅力ある女性として出演し、この主演3人のパーソナリティが物語のなかで昇華していく様はまさに「へえ~、こんな映画だったんだ!?」と私が思った最大の部分だ。ブラピのビジュアルイメージがあまりに先行しすぎているのが不味いのかもしれない。
暴力推奨映画だとさんざん言われて当時もまともに上映できなかったり、しぶしぶカット再編されたり、興行収入が思わしくなくて映画会社の重役のクビが飛んだりと踏んだり蹴ったりだった作品だけれど、その後の評価はとても良い映画です。観てない方には是非ともオススメします。
黒人やその他移民に比べれば特権を持っていた白人男性たちですら奪われ、差別され、使い捨てられたという近代から現代にかけての男という生き物の不遇をちゃんと表現できている映画だと思います。作品が後になってやっと理解されたように、男性差別も理解されるには相当の時間がかかるのかもしれませんね。
サブリミナル効果でほんの一瞬映し出される無修正の長いペニスは抑圧され去勢された男たちの精一杯の自己表現、「叫び」だとも思えるのです。
⑥【フューリー】
ウクライナへの戦車供与が話題になる2023年現在の世界。前のファイト・クラブからブラピ繋がりでもうひと作品ご紹介です。戦車の供与が泥沼化した戦争のゲームチェンジャーだなんだと報道されていますが、戦車で人を殺し、戦車のなかで死ぬということがどんなことかちゃんと知っておくべきでしょう。アメリカやヨーロッパが与える鉄の車は確実に戦場で兵士たちの命をペニスもろとも破壊するのでしょう。
「フューリー」はブラッド・ピット主演で迫力のある戦車戦が繰り広げられるエンタメよりの作品ですが、男という性の宿命もよく表現されています。ナチスドイツが最後の抵抗を試みるヨーロッパ戦線の局面が舞台です。単なるアクション映画には留まらず、キャッチーさと戦争のリアルさがうまく共存出来ている作品だと思います。冒頭では車内で座席に座ったまま頭部を破壊されて絶命している副操縦士の手を、隣に座る人懐っこいメキシコ系の操縦士が愛おしそうに握って離さない場面が印象的です。
この作品には男性差別と戦争という視点で外すことができないテーマがとても分かりやすく表現されているのが特徴です。それは…
「ペニスと睾丸を持って生まれた男は人を殺さなくてはならない生き物である」
…ということです。ブラピ演じる歴戦の戦車長とそのクルーたちが、戦死した副操縦士の代わりにやってきたピュアなおチンチンの新兵にそんな男の宿命をこれでもかと教え散っていく物語です。男を仕立てることが大きなテーマになんですね。そういう意味でプロパガンダ映画の危険性を孕んでいます。
戦車というのは部隊の男たちにとれば「家」であり「死に場所」です。家族や恋人の写真、敵兵から取り上げた勲章などの戦利品がトロフィーのように飾られたりします。トイレが付くような戦車の登場などつい最近です。隊員たちは場合によっては空いた薬莢や工具入れにむかい、他のクルーの前でペニスを出してオシッコをしなければなりません。そんな意味でも便利なペニスが付いる男を戦争に使うのでしょうね。外部性器の排泄機能は戦争では意外と重要なポイントなのです。
新入りの若いおチンチンに任せられた初仕事は戦車内で頭部を破壊されて亡くなった前任者の肉片も残る血みどろの座席を拭き掃除させれられることでした。若いおチンチンをぶら下げた新兵は、銃火器の使い方を教わりながら進軍する道すがら、林の中に潜伏するナチスの少年兵を発見します。自分よりもさらに幼いおチンチンをつけた少年たちをです。
当然、新兵の彼は躊躇してしまいます。そしてその結果、他の戦車の兵士たちは対戦車弾によって車輛のなかで火あぶりにされ、苦しさのあまり拳銃で自害する衝撃的な場面を目にすることになります。ドイツの少年兵たちもあっと言う間に蹂躙されます。敵であれ味方であれペニスを付けた生き物がどんな扱いを受けるのか新兵は思い知らされるのです。
「人を殺したくない」と言い張るへなちょこチンポの新兵をブラピ演じる隊長は実地で強制的に教育します。無理やり拳銃を握らせ捕虜のドイツ兵を射殺させるのです。
男は使い捨ての道具である、人間じゃない、モノだと。男という生き物にはそのように切り替えられるスイッチが脳にある。逆にスイッチを入れなければとても弱い生き物なのだと。それを憶えろと。でなければ死ぬのだと。ブラピ演じる隊長も無理矢理人殺しスイッチを入れているだけで、本当は弱い男という生き物なのに、そんな姿は見せまいとする描写もあります。
余談ですがイギリスのヘンリー王子が従軍中にタリバン兵25人を殺害し「人間と思ったら殺せない。彼らはチェス盤から排除された駒だ」と考えるよう訓練されたと告白して話題になりました。王族ですら戦争になれば男性には必ず求められる考え方なのです。第二王子である彼の自叙伝の題名は「スペア」。自分は王家存続のため飼い殺しにされた予備ペニスだと自嘲しているようなものです。
その後、葛藤はしながらも新任の副操縦士は新兵のへなちょこチンポから立派な戦士のペニスに順調に仕上がっていく姿が描かれます。このあたりがエンタメ映画の悪いところというか、男の子が見たら自分もこうなりたいとか単純に思ってしまうかもしれません。本当は男性差別を含む危険なプロパガンダになり得るのです。深い考慮なく青年たちを志願にかりたててしまいます。
ブラピが主砲を白リン弾に切り替えろというシーンがあります。これは、戦車が主砲を対物から対人に切り替えることを意味します。ウクライナ紛争でも鉄工所に籠城する部隊に対してこの白リン弾が使われたのではないかと報道されたことがありました。
白リンは空気にふれるだけで燃えてしまうので、簡単に鎮火できません。映画ではこの弾で建物から炙りだされたナチスドイツの兵士たちが全身から白い煙をあげ、化学火傷でもだえ苦しんで倒れていく姿が描写されます。
衣服についた炎の粒子は付着して振り払うことは困難で、容易には治療できない苦痛を伴う火傷を負わせるのです。兵士になる男を殺すために人類はわざわざそんな兵器を開発し戦車に装備させました。恐ろしい男性差別です。
最後の大団円となる戦闘で主人公たちの戦車は孤立無援、絶体絶命のピンチのなか隊員は次々に倒れていきます。冒頭のメキシコ系操縦士が投げ込まれた手榴弾を自分の体で覆って車内の仲間の身代わりになるシーンには沁みます。彼の男性器を含む下腹部は当然粉々になったでしょう。
エンタメの域を出ない本作は戦争に対する男のロマンを脱し切れてはいません。しかし、戦車戦で男がどのようにして死ぬのかを良く知ることはできます。ウクライナに対する戦車供与を考えるとき、ゲームのように安易に捉えて語るのではなく、そこで男たちがどう戦い、どう死んでいくのかをきちんと理解しておくことは男性差別を考えるうえでとても大切なことだと思います。
⑦【ジョニーは戦場へ行った+芋虫≒キャタピラー】
ややこしいのですが二つの映画とひとつの小説は繋がっているという解説になります。「ジョニーは戦場へ行った」は70年代ベトナム戦争真っ最中に発表された強烈な反戦映画です。いわゆるハリウッドでの赤狩り(共産主義者探し)で追放されたダルトン・トランボの作品。彼は脚本家ですが65歳でこの映画を初監督しました。オードリーヘップバーンの「ローマの休日」。この脚本を追放中に偽名で書いたのが実はトランボです。
“Johnny Got His Gun 1971”で動画検索すれば字幕なし英語音声なら全編視聴できます。60年代制作の前衛作品なのでフランス映画を観るぐらいの気持ちで鑑賞してください。ドラッグでキメているようなクラクラするトリッピーな雰囲気が時代を反映しています。「時計仕掛けのオレンジ」と公開年が同じなのも妙に納得します。
第一次世界大戦に徴兵されたジョニーは塹壕のなかで砲撃を受けて目、鼻、口、耳を失い腐った両腕と両足も切断されてしまいます。ジョニーは意思疎通が全くできないので誤解され続けますが意識はしっかりあります。
ペニスも幸いなのか災いなのか股に残っています。誰にも理解されず脳内に閉ざされた世界で、触覚だけを頼りになんとか意思を伝えようと身体を藻掻きバタつかせます。しかし、単なる痙攣と思われ薬で鎮静させられることを繰り返すのです。
唯一優しい看護婦がシーツをめくったとき、彼女の狼狽する表情や態度からジョニーのペニスが勃起しているのであろうと分かるシーンがあります。ビクンビクンと痙攣のように身体をバタつかせるジョニー。彼女がジョニーのペニスを射精に導いたのであろうことも映像から十分想像できるのです。その様子に男という性のどうしようもない虚しさと切なさがこみ上げてきます。
オスの本能は他の部位が吹き飛ぼうと生殖器だけは必死に守ったのです。
三つの作品に共通するのは戦争に徴兵された男が手足や意思疎通能力を奪われても、ペニスと睾丸は無事であるという一般的な去勢とはある意味逆の状態に置かれてしまうことなのです。これは地獄です。
身体を著しくを失っているからこそ、ペニスは残された感覚器として敏感になり刺激を求めざるを得ません。しかし、三人の男たちは全員手も足もないのです。当然自分で息子を慰めることは不可能です。まだ若い男にとって身悶えするような劣情が沸き起こることでしょう。
「芋虫」は江戸川乱歩が昭和初期に書いた小説です。一方「キャタピラー」はベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞した映画です。キャタピラーは芋虫の意味なので乱歩の小説からは原作と言ってよいほど強い影響を受けていますが、ストーリーは別物であり表現したいテーマも違います。
奇跡の英雄となり両手足と聴覚、声帯を失って「黄色い肉のかたまり」になった見返りに国から金鵄勲章(きんしくんしょう)の名誉を授かった夫と、その世話をする妻という登場人物は両作品に出てきます。
ざっくりと大きな違いは「人間のエゴ」のみに注目している乱歩の芋虫と、あくまで「反戦」を訴えたいキャタピラーに分かれます。なのでキャタピラーはジョニーは戦場へ行ったと芋虫のハイブリッド、悪く言えば作品としては中途半端な仕上がりと言えなくもありません。
最初は戸惑い拒否し、やがて先の見えない介護に疲弊してくると、妻は肉の塊になった奇形の夫を「情欲をそそるもの」としか見なくなります。乱歩の小説がとにかく凄いのですが、妻が男をモノとして徹底的に思い込もうとするのです。夫はいわば生きたディルド、妻のオナニーの道具にさせられてしまうわけです。
「思い込もうとする」というのがポイントです。妻は夫の意識がそれなりに清明であると本当は分かっているのです。例えば、どうせ耳も聞こえないしと好き放題小馬鹿にしますし、夫が反抗して争いになりそうならレイプ紛いに騎乗位で犯してペニスの快楽刺激で黙らせます。男がそうやって身悶えする姿が妻は堪らないのです。
妻によって浴衣と褌を無理やり脱がされ裸にならざるを得ない夫の身体。それは手足のもげた人形のように、ギリシャ彫刻の胸像のように、布団に横わたっています。もう壊れる余地が無いほどに惨い姿なのに、残された胴体には消えずに残った傷痕が無数に刻まれています。にもかかわらず、奇跡的に内臓が強いせいか艶がある男の体に妻は自分でも理解できないほど加害欲求を伴った欲情が溢れて来るのです。
最初の頃、夫は勲章を授かった栄光にすがろうとしますが、それすら貞淑で立派にお世話をする妻であると周囲から承認されるための道具に使われてしまいます。命をかけた褒美の勲章は意味を失っていきます。英雄と持て囃した人々の熱も冷めます。
夫はそんな絶望をちゃんとごく普通に感じているのですが、妻は彼のことを元々本も読まないような田舎武士だ、爆弾でますます頭がやられてしまっていると思い込みを続けます。その一方で、絶望に打ちひしがれる夫を眺めるのが「嫌いじゃない自分」、己も弱いくせに弱い者いじめが「好きな自分」を妻は発見するのです。
戦争で無意味に損なわれた男の体には、勃起するペニスと睾丸しか意味を成すモノがなくなってしまいました。妻は実は不妊症なので睾丸にもさして意味は無く、ただ男性ホルモンを作って女を悦ばす勃起の補強装置でしかありません。五体を奪われペニスだけになった男の価値は、女にとって飽くなき「刺激物」になるぐらいしかないのです。
ラストスパートは小説「芋虫」の真骨頂。妻が結局何をしたかというと、唯一夫の澄んだ意識が明らかに見て取れる「目」に向き合わざるを得なくなった彼女は、狂ったふりをして夫を失明させるのです。
本来使い捨てである男の身体に人間の面影を残す目など不要なのです。
もちろん男はモノじゃありません。重要なのは男は喜怒哀楽を伴える立派な生き物なのに、それをモノとして使い捨てて良いという世界の仕組みなのです。妻がそれを再発見するのです。
我に返った妻は「ユルシテ、ユルシテ」と必死で夫の胸板に指文字を書きます。当然これは「使い捨てにすることを許して」という意味です。映画では妻が終戦の玉音放送を聞いている間に夫は芋虫のように這いずりながら水を張った田んぼへ向かいます。小説では常に確信犯のくせに取り乱したふりをして五体満足な人間をみて安心しようと飛び出した妻がいない間に、夫は草むらにぽっかり開いた古井戸の底へと堕ちていくのです。
「ユルス」そう口で書き残された夫のメッセージを妻は見つけます。なんとか読める乱れた筆跡は彼が男の無価値さを認めるまでの苦悶そのものを表現していたはずです。どうして俺はチンポを付けた男になんかに生まれたのだろうと。哀しくて悔しくて堪らなかったでしょう。
映画ではラストに正直一番ショッキングなBC級戦犯の実際の絞首刑シーンが流れます。それで反戦映画であることをダメ押しで印象付けようとしますが、乱歩の芋虫を読んでいればそれさえもまた違った意味に見えて来るでしょう。
お国のために戦ったはずの男たちは、お国のために絞首台にぶら下がることでケジメをつけさせられるのです。最後まで徹底的に使い捨てであることがわかるでしょう。死刑判決になったBC級戦犯だけで984本のペニス、1968個の睾丸が命とともに処刑台の露と消えました。
ジョニーに話を戻すと、看護婦は彼の胸板に“Merry Christmas”と指文字を書きます。3つの作品が互いにリンクする描写ですね。モールス信号を思い出したジョニーは終盤ついに意思疎通に成功します。そこで彼が望んだことは「俺を見せ物にしてお金を稼いでくれ(俺を生かすには金が掛かるだろう)」というメッセージだったのです。
肉の塊になっても男は「稼がなければ」価値のない生き物なのです。
男という生き物がどれだけ大事にされていないか良くわかりますね。温かく掛け替えのない子供を生み出す子宮がない男は、お金という冷たく代替可能な貨幣を射精し続けるしかないのです。恥を忍んでお願いした男のプライドすら実行は認められないと悟った彼は「殺してくれ」とモールス信号を送り続けるのでした。
あなたは才能だけで女、母性が支配するこの世界に復讐できる選ばれし男でしょうか。一時代を築けるほどの芸術やスポーツ、法律や建築、商売や政治の才能。つまり、複数の女性に選ばれるほどの価値があるかどうか。大半の男同様に、そんな才能は無いならば、この3つの作品の主人公たちはあなた自身のメタファーでもあるのです。
芋虫とキャタピラーに違いは細々とあれど、男性差別という意味で見逃せないのがキャタピラーでは夫が戦地でレイプをした描写が執拗に冒頭から挿入されることです。これは芋虫には無い描写です。映画の中盤、妻のエゴと狂気が高まると同時に夫は妻にレイプ紛いに犯されるされる自分と、戦地で犯した強姦の罪が立場逆転で入れ替わり苦しみます。
そもそも、命をないがしろにされている男たちが戦地で他者の命を尊ぶわけはないのです。戦争における男の役割は殺人マシンです。機械扱いされた男に人権を守れなど自己矛盾です。劣情は性欲となって暴れ出します。しかし、実際そう都合よく問屋は卸しません。敵兵である男を殺した呪いも、敵地で女を犯した呪いも、全て兵隊にされた男だけが引き受けなくてはなりません。それを戦犯として裁判で裁かれたのが前述の絞首刑になった984人分の男性器たちです。
村の二十歳にもならない若い男だろうと、くたびれかけたオジサンだろうと、体の弱い男だろうと次々徴兵されていく描写も映画のみにあります。その送り出しにはあの妻が必ずいるわけで、反戦映画にしたいようでいて、乱歩の書くエゴの凄まじい影響に抗おうと努力した結果、男性差別の実態をより明確にしています。妻からみればその兵隊たち全員が、夫と同じようにモノ化できることに気付いているのです。
世界のどこかで今日もまた、使い捨てにされるために男たちが出征しています。
⑧【スターリングラード】
2001年公開ジュードロウ主演の映画。第二次世界大戦時に実在した狙撃手をモデルに、スターリングラード攻防戦を描いた作品。エンタメ、ロマンス、戦闘、プロパガンダ度の低さと戦争映画としてのバランスが良い傑作。重すぎず軽すぎず過不足が少ない。まとまりすぎているのが欠点なぐらい。
恒例の男を大量に使い捨てるシーンに関しては冒頭からの20分、プライベートライアン並みにやらかしてくれる。チンポとキンタマをぶらさげた生き物に人権が無いことを、これでもかと「おそロシア」風に見せてくれる。「これは栄光ある赤軍兵士専用列車だ!」と男たちを持ち上げるアナウンスとは裏腹に、車輛に詰め込まれる若い兵士たちの扱いはどう見ても捨て駒だ。さっさと前線に運んでしまえと言わんばかりの雑な扱いをうける。
ガラガラガラガラ~、ガチャンっ!
巨大な南京錠で列車の各扉が施錠される。男たちの命はもう家畜以下だ。おチンチンたちは逃げられないように閉じ込められたのだ。前線に到着するや列車から引きずり降ろされる新兵のおチンチンたち。彼らは問答無用で即戦闘へ投入される。ライフルは二人に一挺、予備の銃弾も片手で持てる数発のみ。対岸のスターリングラードへ渡る船のなかで、誰のものとも知れない家族からの戦意高揚レターを朗読されつつ、戦闘機の機銃掃射でハチの巣にされていくおチンチンたち。川に飛び込み泳いで逃げようとする腰抜けは上官が射殺していく。そんな弱虫チンチンに価値は無いのだ。
丸腰のまま重装備のドイツ兵に向かって突撃命令。当然、紙のように次々撃ち抜かれていく。さらに退却すれば逃亡兵として銃殺されてしまう。まさに「おそロシア」だ。公開当時、退役軍人のおじいちゃんたちは「いくらんでもこんなに酷くない」と怒ったそうだ。
冒頭から続く男の大量使い捨ては、破壊された街の広場で巨大な噴水が若い兵士の亡骸で満たされているシーンで仕上げとなる。ちゃんと死んでいるか適当に機関銃を撃ち込まれるのもお約束だ。ソビエトの若者たちに付いているおチンチンの見積価格はあまりにも低かった。絶望的なまでに。
そこからは物語が主人公へバトンタッチされる。主人公補正がかかったジュードロウはすぐに活躍する。現実の彼も幾人もの奥さんと結婚し、たくさんの子供をつくった完全勝ち組のおチンチンなわけだが、映画でもデフォルトで強く、そのうえ人格者で女にもてる。非の打ち所がない。
彼はアメリカン・スナイパーの主人公や、ゴールデンカムイにてマタギ出身者である谷垣ニシパ同様に幼少より祖父から狩猟を習っている。悪夢の熊撃ち二瓶鉄造がいたら「勃起が止まらん」と言うだろうし、谷垣ニシパも「つまり勃起か」と言うに決まっている。すこし脱線したが、それぐらい手放しでスゴイのだ。
ジュードロウ演じる主人公はお人よし過ぎてチョット抜けてる。だがその愛嬌も含めて最強だ。旧ソ連の戦争を扱った映画の特徴として、ロマンス相手の女の人が一緒に前線で戦ってくれるという接待コースがある。スターリングラードもこの例にもれない。ピンチになれば女性が助けてくれるのだ。ただし、それは選ばれし男限定なわけだが。
ドイツ軍の悪役スナイパーもアニメのようにキャラが立っているし、ジュードロウを取り立ててくれた味方の将校も、恋敵になるうえに最後はカッコつけた退場をして良い味を出してくる。戦友たちは皆なんやかんやとプロットアーマー(脚本上の鎧)で硬く装備したジュードロウの身代わりになる。主人公には死亡フラグなど一切立たない。ある仲間などは捕虜になりソ連の軍服を脱がされ、ドイツの通信修理兵の恰好にされる。そんな姿でノコノコと出ていけば主人公たちの的になってしまう。脇役たちは選ばれし者ではない一般的な男たちの立場を表している。そんな男たちの命とキンタマの価値はあまりに低すぎて悲しくなるのだ。
スナイパーによる狙撃合戦は一見静かで地味だ。しかし、男たちが人生で頑張ってきたことが全て一瞬で吹き飛ばされるのだと考えれば、その一発の重みたるや凄まじい。
映画では女性兵も活躍している。実際に旧ソ連には有名な女性スナイパーであるリュドミラ・パウリチェンコがいたし、ウクライナ紛争でも戦死された女性のスナイパーが報道されていた。ミソジニーと言われるかもしれないが女性兵について男性差別視点で考察しておこう。
一般的に彼女たちは男のように徴兵で「人を殺す義務」なんてないのに志願してやって来る。片や徴兵された男たちは戦争で人を殺めるなんて考えられない人でも無理やり連れてこられるのだ。リュドミラの公式確認戦果は309名とのこと。男に生まれたという理由で殺し合う義務を背負わされた309本のチンポと618個のキンタマは、本来殺す義務もない女性スナイパーによって撃ち抜かれたのだ。
大祖国戦争を生き抜いた彼女も、夫を戦争で失ったのちはPTSDを患い、アルコール依存で若くして亡くなったそうだ。おチンチンたちの呪いは確実にあると思われる。もしも戦争になって徴兵されたら、あなたは誰を殺めることになら覚悟でき、誰に殺められるなら納得できるだろうか?
映画スターリングラードでは終盤に悲劇がおこる。スパイを頑張ってくれていた男の子が悪役に捕まり見せしめのように惨い処刑をされるのだ。正真正銘の本当に幼いおチンチンが主人公たちをおびき出すための罠に利用されるという哀れさ。怒りと悲しみは頂点に達し映画はクライマックスへと進んでいくのだが、結局ラストは「愛と青春の旅立ち」かと言いたくなるほどロマンスの神様に祝福されて着地する。最後までジュードロウは選ばれし勝者のペニスなのだ。その他大勢とは違って。
⑨【TAKING CHANCE】
邦題は、戦場のおくりびと。かの有名な日本映画「おくりびと」が2008年公開で、この「テイキング・チャンス」が2009年の公開なので配給会社は意識して日本向けに題名をつけた可能性はありそうだ。
英語の“TAKE”は文脈により豊かに意味を持つ単語だ。この場合は「何かを誰かのために持って帰る」という他動詞として使われているのだろう。チャンスとは(機会)のことではなく、戦場で亡くなった一等兵のファーストネームなのだ。直訳なら「チャンス君を連れて帰ること」になるだろうか。
イラク紛争で戦死したチャンス一等兵を故郷で待つ家族に送り届け、無事葬送するまで護衛として付き添うアメリカ軍将校の物語だ。そのようなエスコート業務がアメリカ軍の仕事として存在する。主人公の将校がラストで手記にしるす表題が「TAKING CHANCE」なのだが、字幕はそれを「チャンスを送る旅」と訳していた。
凄惨な戦闘シーンなどひとつも無い。しかし、この作品を鑑賞するとかなりショックを受けることだろう。戦闘で使い捨てられたペニスたちがどのようにして故郷に帰るのか、その具体的なプロセスが現実の手順に即してありありと描写されているからだ。ふだん我々の目にはふれないし、それ故意識すらしていない現実を突きつけられる。よくドラマやニュース等で見る戦死者の葬儀で礼服を纏った兵士が空砲を撃つ御馴染のシーン。うやうやしく国旗をたたみ遺族に手渡す。あそこに至るまでに失われたペニスたちにはどんな道のりがあるのか、鑑賞者はその実際を知ることになる。
とにかく作品で貫かれているのが戦場で失われた男の命、すなわちペニスと睾丸に対する「敬意」だ。戦地から軍用機で本土へ運ぶ輸送に携わる兵士、空港まで送り届ける運転手、涙を流しながら手続きを行う搭乗カウンターの女性、旅客機に積み下ろしする何人もの貨物係員、スチュワーデス、パイロット、たまたま乗り合わせた乗客たちまでもがその敬意が示す意味を理解している。戦場に散ったペニスと睾丸を持つ若い男に、血縁でもなんでもない偶然に出会った人たちが哀悼を捧げるのだ。
地元の空港から家族の待つ町へのロングドライブでは、追い越していく車が巨大なコンボイトラックを先頭に長い葬列を自発的につくりはじめる。全ての車がヘッドライトを付け、道先案内人のようにふるさとへとチャンス一等兵を導く。この風習はアメリカでは馴染みのある文化らしいが、もちろん普通なら縁のない他人がそんなことはしない。ワイオミング州の片田舎を走るその車列を空中から映す俯瞰映像は、この作品で最もエモーショナルな気持ちを呼び起こされるシーンかもしれない。
故郷に旅立つ前に専用の施設で男たちはケアされる。このあたりの描写が正直いちばんキツイだろう。幾つも並ぶ冷たいステンレス台の上で惨く傷つけられた男達の身体が洗われていく。身に着けていた品も綺麗に復元され、軍服や勲章までも本人に合わせて新たに裁縫部が仕立て上げるのだ。
確かに丁寧で敬意を込めた仕事が行われている。だが、だからこそ救われない気持ちになってくる。あまりにも用意周到に準備された仕組み。ペニスをつけて生まれた男という生き物を手順に則り正しく処置するシステムだ。あまりにも、それはあまりにも完成されすぎている。
主人公の将校はイラクで「砂漠の嵐作戦」に従軍後、ペンタゴンでの内勤に転向したノンキャリアだ。憧れを持って若干17歳から海兵隊に入った叩き上げの軍人だが、イラクから帰国後に妻子との幸せな生活を送るうちに迫りくる再派兵の恐怖から逃れたくなったのだ。結局、彼はデスクワークへ転属希望を出し受理される。それは「逃げ」だった。兵士になった男に許される行為ではなかったのだ。
自責の念から夜な夜な自宅でもパソコンにかぶりつき、ペンタゴンの戦死者リストに知人がいないか脅迫的に調べてしまう主人公。そして、同郷のチャンス一等兵を見つけてしまうのだ。
「失われたのは本来なら自分のペニスと睾丸のはずだったのだ。チャンス一等兵のペニスと睾丸は自分の身代わりだ」主人公はそう思わざるを得ない。
チャンス一等兵と主人公の旅路にすれ違う人々は一瞬で理解する。自分たちの日常生活の裏で使い捨てられる働き盛りのペニスがこの世にはあるということを。それがペニスを付けて生まれて来る意味であることを。
空港の待合ロビーで窓ガラスに額をつけて、旅客機の貨物室へ乗せられていくチャンスを見つめる金髪の少年は、言葉にはならなくても本能で理解したはずだ。男の子に生まれてしまったということがどういう意味を持つのかを。
乗り継ぎの空港で同じエスコート業務に付く下士官と出会う。あろうことか彼は戦死した兄弟に付き添っていたのだ。男の子の運命とはつまりそういうことなのだとダメ押しをされるようなイベントだ。実はチャンスに甘えて、胸を貸してもらい旅をしている逃げたペニスにしてみれば、あまりに生々しい現実だ。下士官に比べれば主人公もまた、少し世の中の仕組みがわかっただけの金髪の少年でしかない。
エスコート業務中、唯一と言ってよいぐらいに主人公が要求する敬意に激しく抗うのは、空港という施設管理上は仕方がないが手荷物検査の係員だ。大事な遺品を金属探知機やレントゲンには決して晒さないという硬い意思は恒例の別室検査へと発展してしまう。グローバリズムと拝金主義のステレオタイプのように居眠る高級そうなビジネスマンや、将校の軍服に思慮もなく安易な好感を抱く若い女、これらは使い捨てられる男達への無意識な軽蔑を含んでいる。しかし、それこそが本来の世界そのものなのだ。
この映画では男達が自分たちに課された運命を互いに気遣い慰め合う様子も印象的だ。ペニスの運命から逃げた主人公は、地元の退役軍人クラブの世話役らしき老兵に気持ちを吐露する。「戦場に行かないペニスは男ではない、チャンスこそが本物の兵士だったのに」と。そのように旅路の動機を話す主人公を老兵は諫める。「あなたは彼がチャンス一等兵であるという証人なのだよ。証人がいなければ彼の存在はこの世から消えて無かったことになってしまう」と。
戦場にはチャンスと名付けられた男の命と人生とペニスが確にあったのだ。そして故郷に帰って来たのは間違いなく彼のペニスだと証明されなくてはいけない。それには別のぺニスをつけた男の助けが必要なのだ。
詳しい描写は敢えてないが一等兵の姿は家族にも見せないことがあらかじめ決められている。配慮が必要な状態ということだ。証人は本当に必要なのだ。主人公は一度だけその姿を確認する。目にいっぱいの涙を浮かべながら。
地元の軍人クラブには戦死した一等兵と同じ部隊にいた同郷の若い軍曹もいる。直属の上司だった彼はそれこそ主人公よりもっと悩んでいるのだ。失われるべきペニスは自分だったはずなのにと。チャンスのペニスを守らなきゃいけないのは俺だったのにと。主人公はそんな若き軍曹に優しく「君が生きていて良かった」と語り掛ける。軍曹はそれを聞いてやっと「許された」と思うのだ。こうやって男たちはペニスを付けて生まれた運命を互いに慰め合い、生き残ることを許し合う。そこが戦場でさえなければ。
最後の見送りで、チャンス一等兵の父親は自分がかつて従軍したベトナム戦争の勲章を息子に捧げる。それは「俺もお前と一緒だ。同じ運命を背負った男という生き物だ」というメッセージだったのかもしれない。
そして、誰もいなくなった後にひとり居残る主人公。彼にすれば式が終わった瞬間にチャンスはやっとこの世界から旅立った。主人公はそのときまで旅を共にした一等兵は生きていたと思いたいのだ。出会う者全員に最大の敬意を求めるためのエスコート。それは男をモノ扱いする世界への主人公なりの復讐でもあったのだろう。証明などしなくても、俺たちは生きている人間なのだと。
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投稿:2022.12.27更新:2023.02.23
男を差別するということ+【おまけ映画解説①②③④⑤⑥⑦⑧new⑨】
著者 ゴロボロジコ様 / アクセス 3651 / ♥ 27