日本の密教や禅宗では、僧侶が修行のために去勢する習慣があった。この習慣は摩羅を切るという意味で「羅切」と呼ばれた。摩羅は仏教で修行を邪魔する物のことで、転じて男性自身を表すようになった。江戸時代の「俳風柳多留」の中には「禅坊主、羅切してから無一物」という川柳も残っている。
三光宗の大本山である東嶽山正福寺(京都府)には、去勢手術のために使われた堂塔である「一心堂」(通称「羅切堂」)が残っている。いずれも江戸時代中期に再建された建築であり、伝統的な「羅切堂」の構造をよく保っているが、明治3年(1870年)以降は、本来の目的に使用されていなかったため、内部には本来なかった仏具や経典が運び込まれ、床などは一部改造もなされていた。
このたび、東都大学文学部日本史教室では、三光宗と正福寺の全面的協力を得て、この「羅切堂」を、江戸時代末期の姿に復元する作業を行った。これには正福寺に残された文書(正福寺文書)に残された絵図面や目録が大いに参考になり、ほぼ目的を達成できたと考えている。
復元された「羅切堂」は、渡り廊下で繋がった3つの建物、すなわち「大雄殿」、「多宝殿」、「衆園殿」に分かれている。大雄殿は、手術の準備室で、脱いだ衣を置く棚、羅切志願僧の陰毛を剃った場所、羅切前の水浴の設備などがある。
多宝殿は手術室である。護摩壇の前に、大の字の形をした台があって、羅切される僧は、ここに股を開いて仰向けに半臥の姿勢で身を横たえた。脚が護摩壇の方向を向くように配置された台には、紐を通した穴も残っていて、被手術者が暴れないように手足を縛りつけたこともわかる。
台は4組あり、長さが 120㎝の一番小さい手術台は、明らかに少年用である。往時は「まだ淫欲を知らない童(わらべ)のうちに羅切した方がよい」と、まだ10歳にならない少年に羅切を施したこともあったという。
事実、女性禁制の寺院内で、羅切した稚児を男色の受け身役にするなど、本来の趣旨からの逸脱が著しかった。ただ、稚児の女性化が目的ではなく、当時の手術が大量の出血で危険であったため、できるだけ性器が成長する前に羅切しようとしたのが、少年時に去勢させた理由とも言われている。
正福寺文書によると、羅切は、睾丸などの内生殖器はそのままにして、性交器すなわち陰茎だけを切り取って性行為を不可能にするやり方と、男性生殖器の全てを取り除いてしまう方法があった。
この2つの方法は、時代によって流行り廃りがあり、「女犯」の可能性を無くす目的が強調された時代は、性交器だけの切断が、「煩悩」を取り除くことが重んじられた時代は、完全去勢が主流であった。
また、少年僧は完全去勢、成人僧は性交器切断とされていた時期もあった。
さて、素っ裸になった羅切志願者は、両手両足を台に縛り付けられる。次に切断する部分を、布で根元からがんじがらめに縛りあげられる。準備が完了すると、手術する僧侶が屶のような刃物を無造作に生殖器に当て、そのまま切り落とす。
もちろん麻酔などはない。夥しい血が流れるが縫合処置もされず、傷口が自然に塞がるのを待つだけである。尿道の確保のために、そこに栓を詰めたことが記録されている。
羅切された一物は、天日で乾燥させてから、正福寺の「金堂」に保存された。これらは明治の廃仏毀釈運動が荒れ狂った一時期、三光宗の財政が困窮したため、ある民間の薬商人に売却され、女性の不妊症の妙薬として売り出されてしまったので、かなり散失している。
衆園殿は手術からの回復のための病室である。中には、人の字の形をしていて、仰向けに寝る寝台が作られている。羅切後は、最低2ヶ月は寝たきりとなるため、開いた股間の下の部分には、傷口からでる血や膿、排泄物などを受けとめる囲炉裏のようなものが設けられていて、手術後に身動きできない僧に対する配慮がなされている。
こういった寝台は35組あり、文書によると時には一度に30人以上の僧が、傷が治るまでの2~3ヶ月をここで過ごしていた。当時、羅切がいかに頻繁に行われていたかが分かる。
羅切は、当時としては高度な技術が必要で、地方の寺院で行うことは許されず、大本山で一括して執行されていた。また、他宗派の羅切希望僧の手術にも応じていた。(もっとも他宗派には、1662年(寛文2年)33歳のときに羅切した「了翁道覚」のように、自分で生殖器を切断する僧侶もいた。)
羅切の傷が癒えて、歩けるようになった僧侶は、またここから全国の自分の寺に帰って行ったのである。
文書に残された羅切僧の数は、戦国時代から江戸時代末期までの三百年余りの期間に約2万人とされている。これは誇張という説もあるが、多宝殿の4つの手術台に残された血痕のDNA鑑定によっても、少なくとも百人以上が、ここで羅切されたことが証明されている。
托鉢などの場合、羅切した僧侶は、一般の僧侶より畏敬の念で扱われ、実入りも良かったようである。1212年頃成立の「宇治拾遺物語」のなかに、修行のために陰茎を羅切したように見せ掛けて寺を訪れ、前陰部を見せているときに勃起してしまって見破られる「偽羅切僧」の物語があり(巻一・第六・「中納言師時が法師の男根をあらためた事」)、僧侶が修行のために男根を切除する「羅切」という習慣がそのころからあったこと、この頃は睾丸は残して陰茎を切除していたことがわかる。
【文学部教授・藤堂康義】
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投稿:2007.05.14更新:2021.11.06
東嶽山正福寺「羅切堂」の考察~東都大学文学部紀要86号
著者 Castrato 様 / アクセス 22859 / ♥ 42