生体細胞本位制社会(バイオ・マーケット) .2
第一話:ストップ高の朝に
「……いえ、オプションは断ります。包皮だけでお願いします」
健太は、自分の声が震えているのがわかった。精巣まで差し出せば、自分は完全に別の次元の生き物になってしまう気がした。その本能的な恐怖が、家族への罪悪感をわずかに上回った。
「承知いたしました」
エージェントは表情一つ変えず、淡々とタブレットを操作した。
「オファーの拒否もまた、お客様の正当な権利です。約款に基づき、本日の償還は当初の担保品である包皮組織のみに限定されます。では、こちらに電子署名をお願いします」
健太は、差し出された光るパネルに震える指でサインをした。
心のどこかで、断ったことによる「罰」があるのではないかと怯えていたが、現実はもっと事務的だった。
エージェントにとって、健太の決断はポートフォリオの期待値が数パーセント変動しただけのことに過ぎない。
「手術準備、完了。執刀医を入れます」
自動ドアが開き、清潔な白衣を着た医師が入室してきた。
「健太君、リラックスして下さい。先ほど説明した通り、すぐに終わるりますから」
医師は世間話でもするような軽い調子で言いながら、サイズ測定装置を手にとった。
様々なサイズの穴が健太に差し込まれる...
「ん...18mmだね。18mmのクランプを準備して〜」
助手はワゴンから未開封のパッケージを取り出した。
パサリ、という乾いた音がして、中から半透明のプラスチック製の器具が現れる。
『生体資源回収用クランプ:18mm』
器具の表面には、無機質な数字が刻印されていた。健太の組織を最も効率的に、そして傷つけずに「収穫」するために最適化されたサイズだ。
医師は手慣れた手付きで消毒とナノマシーン麻酔薬を塗布する。
「少し冷たいよ」
その後医師は、マジックペンを手に持ち切除範囲を書き込んでいった。余分な皮膚が残らぬよう上下左右に引っ張りながら円周のラインを書き進める。
健太は刻々と処理が進む自分の性器を見つめていた。今の姿を目に焼き付けるかのように。
「はい、切除範囲はこの線を予定しています。今からクランプを挿入し準備を行います」
健太は想像よりも切除範囲が根本に近いことに驚きと躊躇いを感じながら見守る。
医師の手際が、あまりにも鮮やかだった。
健太の局部には慣れた手つきでプラスチックのクランプがセットされていく。カチカチ、という小さなラチェット音が静かな室内に響いた。それは、健太の肉体が「人間の一部」から、「商品」へと切り分けられる機械的なカウントダウンだった。
「よし、固定完了。これで血流を遮断し、安全に切除が行えます。」
「健太 様、最終確認です。任意償還に同意されますか?」
『......はい..』
医師は健太の目を見ることなく、メスを手にとった。
プラスチックの冷たい感触と、締め付けられる圧迫感。
健太は天井の無影灯を見つめながら、これが「包茎手術のようなもの」だと言ったスタッフの言葉を思い出していた。
確かに、切るだけだ。
だが、この18mmのプラスチックの輪が食い込んでいるのは、僕のプライドであり、僕の未来そのものだ。
処置は一瞬だった。
「はい、終わりましたよ。お疲れ様」
医師の声と同時に、慌ただしく片付けが始まった。痛みはまったくない。最新のナノ麻酔が神経を完璧にハックし、切除という肉体的な破壊を「無」へと変換していた。
健太が視線を下に向けると、そこには自分の体から切り離された「商品」があった。
プラスチッククランプの筒に、力なく張り付いている薄い桃色の組織。それはほんの数秒前まで、健太の体温を宿し、彼の成長と共にあった皮膚の一部だった。
医師は無造作にハサミを手に取ると、クランプの筒に張り付いた包皮を手際よく切り離していった。
ジョキ……、ジョキ……、という少し湿った音が室内に響く。
「……それが、僕の……」
「そう、君の『資産』だ。素晴らしい純度だよ」
医師は切り取った組織をピンセットで摘み上げ、即座に滅菌液で満たされた透明な回収ボックスへと放り込んだ。
液体の中でゆらゆらと漂うそれは、もはや健太という人間の一部ではなく、数万ドルの価値を持つ「生体材料」としての顔をしていた。
ボックスの蓋が閉じられると、瞬時にバーコードが印字されたラベルが貼り付けられる。
[Lot No: JP-7702-K / Grade: S / Size: 18mm / Status: Fresh]
「すぐにバイオ・バンクへ輸送します。今この瞬間の市場価格で、君の契約に基いた一時金が確定したよ」
処置が終わった後、健太は重い足取りでクリニックのトイレへ向かった。
歩くたびに、股の間でプラスチックが擦れる不自然な感触がある。それは痛みというよりは、自分の体の中に「異物」が永住権を得たような、得体の知れない違和感だった。
個室に入り、鍵をかける。健太は震える手で下着を下げ、そこにあるものを見つめた。
局部には、先ほど医師がセットした18mmのプラスチッククランプが、鈍い光を放ちながら鎮座していた。
クランプは包皮をタイトにぎゅっと挟み込み、血流を完全に遮断している。切り離された組織の断面は、この半透明のリングによって精密に圧着されていた。
「……これを、一週間も」
医師の説明では、このまま一週間過ごすことで傷口が自然に癒着し、クランプが脱落する頃には「完成」するのだという。
健太は今後、このプラスチッククランプやクランプが残した傷跡を見るたびに、自分が自分の肉体を切り売りしたという事実を突きつけられることになる。
健太は便座に座り、深くため息をついた。
クランプ越しに見える自分の亀頭は、血が通いが少し悪くなって、どこか別の生き物の素材のような色をしていた。
「僕の皮は、今頃どこにいるんだろう」
ハサミで切り取られ、回収ボックスに入れられたあの組織。
今この瞬間も、保冷車に揺られ、高度な培養施設へと運ばれているはずだ。それが誰かのシワを伸ばすクリームになるのか、あるいは難病を治療する点滴になるのか……。
スマホを取り出すと、家族のグループチャットが鳴り止まない。
父親からは「よくやった、健太」という言葉。
母親からは「今夜はご馳走にするわね」というスタンプ。
そして結衣からは「お兄ちゃん、かっこいい!」というメッセージ。
家族は救われた。
家を追われることもなく、妹の命の火が消えることもない。
この股間に嵌まった18mmのプラスチックは、健太にとっての「名誉の負傷」であり、家族にとっては「救済の証」なのだ。
けれど、健太の心には、冷たいクランプの感触だけがこびりついて離れない。
「包茎手術みたいなものだ」とスタッフは笑った。
けれど、自分は自分の意志で、自分の美しさのためにこれを選んだわけじゃない。
市場の数字が跳ね上がったから、AIが「今だ」と言ったから、自分を構成する部品を強制的に出荷させられただけだ。
健太はゆっくりとズボンを上げた。
一週間後、このプラスチックが外れるとき、自分は何を失い、何を得ているのだろうか。
トイレの鏡に映る自分の顔は、今朝家を出たときよりも、ずっと大人びて、そしてひどく疲れ果てているように見えた。
外の廊下からは、また別の少年の名前を呼ぶ、エージェントの事務的な声が聞こえてきた。