獅子座の怪人 (ファントム・ライオン)
獅子座の怪人 (ファントム・ライオン)
前作 永遠の獅子(エターナル・ライオン)
プロローグ:悪魔の企画会議
「……劇団の歴史をなぞる、だと?」
劇団『ローエンクロイツ』の総支配人室。かつて神宮寺蓮から奪い取ったそのデスクで、瀬戸結弦は手元の分厚い決算書を忌々しげに放り出した。
伝統ある仮面劇のスタイルは今や時代遅れとなり、客席は連日、埋まることのない虚無を晒している。深刻な経営難。栄華を極めたはずの王国は、今や破産の危機に直面していた。
結弦の正面には、一人の美しい「少年」が座っていた。木村玲。
実年齢はすでに大人でありながら、あの夜の去勢によって時を止められた、劇団の「永遠の獅子」である。
「そうだよ、瀬戸くん」
玲は、大人びた酷薄さと、少年のあどけなさが同居する歪な声で微笑んだ。
「僕たちの劇団が生き残るための、これが最後の劇薬だ。タイトルは——『獅子座の怪人』」
玲が机の上に滑らせた企画書。そこには、どこか古典的名作を想起させながらも、あまりにも悪趣味で、あまりにも生々しいプロットが並んでいた。
新作オペラ『獅子座の怪人』
【あらすじ】
舞台は、栄華を誇る高貴な劇団。声変わりと成長によって主役(王座)を追われることを恐れる若き劇団員が、黄金のライオンの仮面を被った「怪人」と出会う。
怪人は少年に「永遠の美声」を約束する代わりに、ある凄惨な契約を迫る。……それは、男としての未来を捨てる『カストラート(去勢)』の手術だった。
結弦は企画書を持つ指先に、わずかな戦慄が走るのを感じた。
「玲……君は、正気か? これは僕たちが、あの地下倉庫で犯した……」
「そう。僕たちが木村玲を殺し、完璧な『レオ』を創り上げた、あの夜の完全な再現劇(メタシアター)さ」
玲は結弦の言葉を遮り、楽しげに目を細めた。
「今の観客は、ありきたりな愛の物語なんて求めていない。血の匂いのする、本物の狂気が見たいんだ。若き劇団員が美声のために自らを損なう悲劇。これなら間違いなく、世界中から客が押し寄せる」
結弦は冷や汗の浮かぶ首筋をなぞった。かつてザザ役として玲の未来を簒奪したはずの自分。しかし今、目の前にいる玲は、自らの傷口を最高のエンターテインメントとして切り売りしようとしている。その瞳に宿る狂気は、結弦の野心さえも飲み込むほどに深く、昏い。
「配役はどうする」結弦が喉を鳴らして問う。
「怪人役は、もちろん瀬戸くん。僕の未来を奪い、劇団の王座に就いたあなただ」
玲は身を乗り出し、デスクに手をついた。
「そして、怪人と契約する若き劇団員。その身代わり(影)として、舞台の裏から誰も真似できない本物の『カストラートの絶唱』を響かせるのは……僕だ。僕たち二人にしか、この地獄は演じられない」
結弦は、玲の提案に恐ろしさを覚えながらも、経営者としての冷徹な本能が「これで劇団は救われる」と確信していた。二人は、かつての罪を隠蔽するのではなく、極上のオペラとして舞台に晒し上げることで、再び富と名声を手に入れる道を選んだのだ。
「……面白い」
結弦は唇の端を吊り上げ、ザザの笑みを浮かべた。
「だが、玲。クライマックスの演出がまだ足りないな。観客の度肝を抜くような、決定的な『悲劇の象徴』が必要だ」
「それなら、もう考えてあるよ」
玲は懐から、かつて地下室に転がっていた本を取り出し、最後のページの余白に書かれた舞台演出のメモを結弦に見せた。
「舞台中央に吊るされた豪華なシャンデリア。そこに、鈍く光る巨大な『ギロチンの刃』を仕込む。契約が成立した瞬間、轟音と共にギロチンがステージへ振り下ろされるんだ」
玲の指が、企画書に描かれたギロチンの図面を優しくなぞる。
「切り落とされるのは首じゃない。ステージに激しく飛び散り、転がるのは——赤黒く染まった、まるで『ライオンのたてがみ』のように千切られた、彼の一部。それと同時に、僕の天上の歌声が響き渡る。客席は悲鳴と、それ以上の熱狂に包まれるはずさ」
総支配人室に、ゾクッとするような静寂が訪れた。
窓の外から差し込む月光が、机の上の企画書を冷たく照らし出している。
「いいだろう、レオ」
結弦は静かに立ち上がり、玲に右手を差し出した。
「経営難の我が王国を救うためだ。最高の地獄の幕を開けよう」
「ありがとう、ザザ」
少年の手が増悪と歓喜に震えながら、結弦の手を握り返した。
こうして、劇団『ローエンクロイツ』の命運を賭けた、呪われた新作オペラ『獅子座の怪人』の幕が、静かに上がろうとしていた。
第一章:シナリオの中の真実
『獅子座の怪人』の制作発表は、演劇界に大きな衝撃を与えた。
劇団『ローエンクロイツ』が放つ、退廃的でセンセーショナルな新作オペラ。だが、その華やかな話題性の裏で、劇団の稽古場はかつてないほどの異常な緊張感に包まれていた。
舞台セットの組み上げと並行し、連日過酷な稽古が続けられる。
ステージ中央に鎮座するのは、玲(レオ)のアイデア通り、豪華なシャンデリアと不気味に連動した巨大なギロチンのギミックだ。刃が落ちるたび、鈍い金属音がガランと稽古場に響き渡り、そのたびに劇団員たちはビクリと身体を強張らせた。
彼らが怯えているのは、仕掛けの危うさにではない。
演出として提出されたその物語が、フィクションなどではなく、この劇団で実際に起きた「本物の事件」であることを、古参の劇団員たちは誰もが知っているからだ。
「……悪趣味にも程がある」
休憩中、舞台袖で台本を丸めた一人の団員が、忌々しげに吐き捨てた。
「若き天才が美声のために身体を損なう? 誰もが数年前の木村玲の『異変』を思い出すに決まっている。あの時、神宮寺さんが急に引退した理由だって……」
「静かに。誰に聞かれるか分からないわよ」
ベテランの女優がそれを遮り、稽古場の中央へ視線を向けた。
そこでは、演出を兼ねる総支配人の瀬戸結弦(ザザ)が、冷徹な眼差しで若いアンサンブルたちに指示を出していた。その傍らには、数年前と全く変わらない「少年の姿」のまま、虚ろな笑みを浮かべて佇む木村玲(レオ)がいる。
「ねえ、本当に結弦さんが玲くんを……?」
「確証はない。でも、あの二人の空気を見てごらんなさいよ……」
団員たちの視線は冷ややかで、そして怯えていた。
彼らにとって、この新作は劇団を救う救世主であると同時に、触れてはならないタブーを白日の下に晒す「告発状」のように見えていた。結弦が玲を精神的に追い詰めて演じさせているのか、それとも玲が結弦への復讐のためにこの悪魔的な舞台を仕組んだのか——誰もその核心には踏み込めない。ただ、劇団を包む空気だけが、確実に狂気へと染まっていく。
「どうした、お前たち。歌のキレが悪いぞ。これは悲劇だ。もっと魂を削り、恐怖と悦楽を表現しろ!」
結弦の鋭い声が稽古場に響く。
その声に応えるように、舞台のスピーカーから、玲の「カストラートの歌声」がテストのために流された。
鳥のさえずりのように高く、清らかで、しかしどこか血の匂いがする、この世のものとは思えないほど美しい絶唱。
その声が響いた瞬間、稽古場の全員の背筋に冷たいものが走った。それは、玲が大人になる権利と引き換えに手に入れた、呪われた果実そのものだったからだ。団員たちは、自分たちが今、一人の少年の人生を文字通り「生贄」に捧げた舞台を作り上げているのだと、いや応なしに理解させられる。
結弦は、スピーカーから流れる玲の声に恍惚とした表情を浮かべながら、手元の演出ノートに目を落とした。
「素晴らしいよ、玲。これなら観客は間違いなく、恐怖と美の絶頂を味わうことができる」
結弦の背後から、足音もなく近づいた玲が、その肩にそっと手を置いた。
「ねえ、瀬戸くん。ギロチンの刃、本番ではもっと鋭く磨いておいてね」
玲は、団員たちの怯える視線を一身に浴びながら、無邪気な子供のように微笑んだ。
「あのシャンデリアによって落とされる『僕のたてがみ』が、本物みたいに生々しく見えないと、観客に嘘だとバレてしまうから」
その言葉に、周囲の劇団員たちは息を呑み、静かに顔を背けた。
誰もが知っている。これから幕が上がるのは、ただのオペラではない。自分たちが演じさせられているのは、瀬戸結弦と木村玲という二人の怪物が繰り広げる、本物の狂気の儀式なのだと。
第二章:赤黒い残骸
稽古場の隅、薄暗い機材置き場には、美術スタッフが作り上げた「それ」が置かれていた。
玲は、誰もいなくなった静寂の中で、一人その前に佇んでいた。
台の上に置かれているのは、クライマックスのギロチン演出で使われる特殊造形物だ。赤黒い粘液に塗れ、千切られたライオンのたてがみのように激しく縮れた、肉と毛皮の塊。美術スタッフが試行錯誤の末にシリコンとアクリル絵の具で再現した「玲の一部」だった。
「……よくできているね」
玲は指先で、その冷たい作り物の表面をそっとなぞった。
ねっとりとした偽物の血が指先に付着する。その奇妙な生々しさが、玲の意識を数年前の「あの夜」の記憶へと、一瞬で引きずり戻した。
思い出すのは、冷たいコンクリートの匂いが立ち込める劇団の地下倉庫だ。
結弦に手渡された、カストラートの歴史が書かれた古い本。それを読んだとき、僕の心にあったのは恐怖ではなく、むしろ歪んだ歓喜だった。
あの日、僕は自ら望んでその檻に入った。
「永遠の獅子」として舞台に縛り付けられること。それはザザの狡猾な罠であると同時に、僕がこの劇団で永遠に主役であり続けるための、唯一の戴冠式でもあった。
薄暗いランプの光の下、刃物が鈍く光った瞬間の、肌を刺すような寒気。
麻酔の感覚が遠のく中で聞いた、結弦の荒い息遣い。
そして、すべてが終わったあと、僕の身体から文字通り「剥奪」され、白布の上に転がっていた、生々しい赤黒い塊——。
あの夜、僕は確かに男としての未来を殺された。僕のたてがみは、結弦の手によって無残に切り落とされたのだ。
「玲くん、そこにいたのか」
背後から声をかけられ、玲はハッと我に返った。
振り返ると、いつの間にか近づいていた結弦が、玲の指先に付いた偽物の血を見つめていた。その瞳には、かつての加害者としての後ろめたさと、それ以上の執着が混ざり合っている。
「美術の出来栄えを確認していたんだ」
玲は指先の血を、自身の白い稽古着の裾でゆっくりと拭った。
「すごく本物によく似ているよ、瀬戸くん。あの日、床に転がっていた僕の一部と、全く同じ色をしている」
結弦の喉が、引きつったように小さく鳴った。
玲はそんな結弦の動揺を楽しむように、くすくすと少年の声で笑いながら、再び作り物の塊へと視線を戻した。
「観客はこれを観て、ただの派手な特効だと喜ぶんだ。僕たちの本当の血が流れているとも知らずにね。……ねえ、本当に素敵な舞台になりそうだと思わない?」
玲の瞳には、過去の痛みを抱えながらも、それを極上の悲劇として消費しようとする、狂おしいほどの歓喜が満ちていた。