永遠の獅子(エターナル・ライオン)
永遠の獅子(エターナル・ライオン)
プロローグ:王座を巡る策謀
劇場は、生き物だった。 灼熱の照明が降り注ぐ舞台から、ひんやりとした楽屋の通路、そして絨毯の敷かれた客席まで、そのすべてが呼吸していた。
観客のざわめきが波のように押し寄せ、やがて静寂に変わる瞬間。あの張り詰めた空気こそが、僕の「世界」だった。
僕が所属するのは、世界的に有名な仮面劇団『ローエンクロイツ』その名を冠する通り、白い十字架を象った仮面が劇団の象徴であり、古くから伝わる寓話劇を荘厳な音楽と舞踏で表現することで知られている。
特に看板演目である『永遠の獅子』は、劇団が創設された200年以上前から上演され続けてきた、まさに劇団の魂とも言える作品だ。
『永遠の獅子』──それは、偉大なる父王の死を乗り越え、幼き子がやがて王の座に就くまでの壮大な自然界のリレーを描いた物語だ。
僕、芸名「レオ」が演じるのは、そのリレーのまさにスタートライン。父王ライオンのたてがみに顔を埋め、未来の王国に想いを馳せる、純粋で無垢な幼き魂。演目自体が「生命のリレー」を謳う、希望に満ちた物語だった。そして、僕自身の芸名も、この演題からとられた『永遠の獅子(エターナル・ライオン)』という愛称で呼ばれることが多かった。
「レオ、出番だ」 演出助手の声が、低く響く。
全身を覆う毛皮の衣装は、幼き体に重くのしかかる、しかし同時に確かな存在感を与えてくれる。ずっしりと重い黄金の仮面を顔に装着する。冷たい金属が肌に触れ、視界がわずかに狭まる。
だが、その瞬間に僕の「私」は消え、ただ一人の「王位を継承する子ライオン」がそこに誕生するのだ。
舞台袖からの一歩は、いつも宇宙を渡るかのように感じられた。スポットライトが僕を捉え、客席のすべてが息を飲む。
この瞬間、僕はただの十歳の少年、木村 玲ではない。僕は、王位を継ぐ運命を背負った、誇り高き未来の王なのだ。
父王ムファルム役の神宮寺 蓮が、その巨大な腕で僕を抱え上げた。その肩の高さから見下ろす劇場は、まさに僕の王国だった。
客席の顔ぶれは、すべて僕の民。彼らの期待、感動、そして熱狂的な拍手が、僕の心臓を高鳴らせる。
「息子よ。いつか、お前がこの王国を統べるのだ」
父王の深く、威厳に満ちた声が響く。舞台上の僕の役は、ただ静かに頷き、瞳を輝かせるだけ。
その声の響きに、僕は未来の自分の姿を重ねる。レオとして、この舞台の中心に立ち続ける自分を。
だが、仮面の下で、僕は密かに震えていた。 王位を継ぐという父王の言葉は、僕にとって祝福であると同時に、残酷な「期限」を突きつけるものだったからだ。
劇中では、父から子へと命が受け継がれることが美徳とされる。しかし、僕の現実では、僕自身の成長が、この輝かしい「子ライオン」の役を奪うことを意味していた。 声変わり。体格の変化。
それは、僕がこの役を「引退」しなければならないという、死刑宣告だ。
楽屋の廊下で、僕の代わりを虎視眈々と狙っている子役はいくらでもいる。彼らの声は高く澄み渡り、身体はまだ幼い。彼らこそが、劇団が求める「生命のリレー」の次の走者なのだ。 僕は、この舞台を降りたくない。
この黄金の仮面を手放したくない。 いつしか、僕の心は劇中の「生命のリレー」という崇高なテーマに反逆し始めていた。「継承」など、愚かなことだ。僕は、この役のまま、この舞台の上で永遠に生き続けたい。
その夜、練習後の楽屋で、僕はサザ役に呼び止められた。
彼の名は瀬戸 結弦。僕と同い年だが、既に身長は僕を上回り、声変わりも始まりかけている。彼は悪役のザザ役だ、物語では父王ムファルムを暗殺しレオを追放することで王位を手に入れる。もちろん根は悪役ではないと信じている。
「玲(レオ)、元気ないみたいだね」 結弦(サザ)は、優しげな笑みを浮かべた。だが、その瞳の奥には、どこか冷たい光が宿っているように見えた。
「君の歌声、少し掠れ始めたんじゃないか?あの『永遠の獅子』の声が、失われてしまうのは惜しいな」
彼の言葉は、僕の最も触れてほしくない部分を突いてきた。
僕は視線を逸らしたが、結弦は構わず続けた。
「でも、方法がないわけじゃない。君がもし、本当にこの役を愛しているなら……『カストラート』について調べてみるといい。かつては、少年の美しい声を永遠に保つために、そういう選択をする者もいたらしい。まあ、古い話だけどね」
結弦 は、僕の肩を軽く叩くと、意味ありげな笑みを残して去っていった。
結弦 (ザザ)の言葉は、僕の心を深く抉った。
同時に、それは僕にとっての「希望」にもなり得た。 その夜、寝室のベッドに横たわりながら、僕は必死に考えた。どうすれば、この成長という名の残酷な運命から逃れられるのだろう?どうすれば、永遠の子ライオンでいられるのだろう?
その問いの答えを、僕は劇場の片隅にある古い資料室で見つけることになる。埃っぽい書棚の奥に眠っていた、一冊の薄い本。
『西洋音楽史:カストラートの栄光と悲劇』
僕は、ページをめくりながら、息を呑んだ。 少年の美しい声を永遠に保つために、身体を犠牲にした歌手たち。彼らは「生命のリレー」を、自らの手で断ち切ったのだ。
「これだ……」 僕の乾いた喉から、かすれた声が漏れる。仮面劇の舞台で、生命のリレーを演じながら。僕は、その裏側で、自分自身の生命のリレーを永遠に止めることを決意した。
結弦(ザザ)は、僕がこの「レオ」という役を永遠に演じ続けることを切望している。なぜなら、僕が子ライオンの地位に留まり続ける限り、僕は決して「ムファルム」になり得ないからだ。
彼が真に狙っているのは、僕という存在ではない。神宮寺 蓮(ムファルム)さんが引退した後に残される、あの絶対的な「王座」だ。 もし僕が正常に成長すれば、劇団の次代を担う第一候補は間違いなく僕になるだろう。
結弦 くんはそれを恐れている。だからこそ、彼は僕の後釜を狙う若き候補生たちを排除すると同時に、僕自身を「永遠の獅子」という名の檻に閉じ込めたのだ。
僕を少年の姿で舞台に縛り付け、僕から「未来」を剥奪すること。それこそが、彼が名実ともに劇団の王へと登り詰めるための、最も冷酷で完璧な簒奪の計画だった。
だが、そんなザザの思惑すらも、僕にとっては都合の良い道標に過ぎない。 僕の魂は、仮面の下で叫び続けている。 この舞台こそが、僕の王国なのだ。そして、僕はその王国で、永遠の王として君臨するのだ。
たとえ、それが仮面の内側と外側で、全く異なる僕を生きることを意味するとしても。 僕の誇り高き子ライオンは、この王位を守るために、何でもするだろう。
深夜の劇団寮。木村 玲(レオ)は、胸元に一冊の古びた本を強く抱きしめていた。
『西洋音楽史:カストラートの栄光と悲劇』
資料室の隅で見つけたその本は、今や玲にとって唯一の福音書となっていた。廊下を歩く玲の足取りは、死刑台へ向かう受刑者のようでもあり、聖地へ向かう巡礼者のようでもあった。
玲が辿り着いたのは、瀬戸 結弦(ザザ)の部屋だった。 ノックをし、扉が開かれる。部屋の中は、玲の部屋とは対照的な、暗く重厚な空気が漂っていた。
壁には劇中でムファルムの玉座を狙う悪役、ザザのポスターが威圧的に貼られ、机の上には鋭い眼光を放つザザの仮面が、主人の帰りを待つ獣のように置かれている。
結弦 は、玲の手にある本のタイトルに目を留めると、満足げに唇の端を吊り上げた。
「……決心がついたんだね、玲」
「結弦 くん。僕は……木村 玲を殺しに来た」
玲の声は震えていたが、その瞳には狂気にも似た光が宿っていた。
「僕が大人になれば、この王国(舞台)は僕を捨てる。僕がムファルム(王)になる必要なんてない。僕は永遠に、あの光の中で父上の肩に乗る『レオ』でいたいんだ」
結弦 は、玲の震える肩にそっと手を置いた。その手つきは、劇中で甥を唆すザザそのものだった。
「賢い選択だよ。君は、自分の命を『芸術』という名の檻に閉じ込めることを選んだんだ。……準備はできている。すべて、僕に任せておけばいい」
結弦 は玲を促し、寮の最下層にある地下倉庫へと案内した。
そこは、使い古された舞台装置や朽ち果てた衣装が眠る、劇団の「墓場」だ。埃の舞う冷たい空気の中に、場違いな消毒液の匂いが漂っている。作業台の上には、結弦 が密かに揃えた医療器具と、数種類の薬品、そして鋭利なメスが、不気味な輝きを放っていた。
「さあ、横になるんだ、レオ。ここから先は、もう戻れないリレーの終わりだ」
玲は言われるがまま、冷たい作業台の上に体を横たえた。結弦 の手によって吸入麻酔が施される。玲の意識は急速に遠のき、視界が歪んでいく。天井の裸電球が、まるで舞台のスポットライトのように、玲を最後の主役として照らし出していた。
「……ぼくは……レオに……」 「ああ。君は完璧なレオになるんだ」
玲の意識が深い闇に落ちたのを確認すると、結弦 の顔から「優しい友人」の仮面が剥がれ落ちた。彼は無機質な手つきで処置を開始した。暗い倉庫に、肉を割く湿った音と、結弦 が鼻ずさむ劇中歌の旋律だけが響く。
数時間が経過した。 玲が意識を浮上させたとき、下腹部に焼けるような熱さと、身体の芯が削ぎ落とされたような奇妙な軽さを感じた。
「起きたかい、レオ。……おめでとう。戴冠式は成功だ」
結弦 の声は、かつてないほど歓喜に満ちていた。玲は力なく視線を落とし、作業台の下に目をやった。
そこには、床に落ちた小さな「肉の塊」があった。つい先刻まで、木村 玲を男へと成長させるはずだった、生命のリレーの核。
結弦 は、玲の視線に気づくと、わざとらしくその塊——玲のDNAが凝縮された肉片に靴の踵を乗せた。
「これが君を苦しめていた元凶だ。木村 玲という人間の、醜い未練の欠片だよ」
グチャリ、と鈍い音が地下倉庫の静寂に響き渡る。結弦 は執拗に足を動かし、それを床の汚れの一部になるまで踏み潰した。
「見てごらん。君の『未来』は、いま完全に完成した。これで君は、誰の役にも成り代われない、永遠の子ライオンだ」
踏み潰される肉片を見つめながら、玲の瞳から一筋の涙がこぼれた。それは悲しみなのか、それとも、もう二度と「大人」にならなくて済むという解放感なのか。 漏れ出た声は、鳥のさえずりのように高く、しかし血の匂いのする、この世のものとは思えないほど美しい、悲劇の歌声だった。
結弦 はそれを見て、暗闇の中で静かに独りごちた。 「さあ、リレーは終わった。これからは僕の時代だ、レオ」