生体細胞本位制社会(バイオ・マーケット) .3
第二話:健太の葛藤と再計算(リ・シミュレーション)
健太はスマホの画面を指でなぞっていた。
グループチャットに添付された写真の中の結衣は、太陽のような笑顔を浮かべている。しかし、その後ろで並んで立つ両親の顔を見た瞬間、健太の指が止まった。
二人は無理に口角を上げているが、その瞳の奥には、濁った澱のような不安と、自分たちの無力さに打ちひしがれた疲弊が張り付いている。
「……包皮(これ)だけじゃ、足りないんだ」
健太は悟った。今回の償還で得られる一時金は、あくまで「今」を繋ぐためのカンフル剤に過ぎない。市場が冷え込み、ワイド保険のランクが下がれば、再び家族は経済的崖っぷちに立たされる。父の工場の不振も、結衣の次段階の治療費も、その場しのぎの端金では根本的な解決にはならないのだ。
両親がずっと隠し、押し殺してきた絶望の重さを、健太は初めて正確に理解した。
迷いはなかった。股間で揺れるプラスチッククランプの違和感が、今はむしろ、自分の肉体が持つ「確実な価値」を証明しているように感じられた。
廊下を歩く健太の前に、ちょうど別の部屋へ向かおうとしていた先ほどのエージェントが通りかかる。
「健太様? 何か忘れ物でしょうか」
健太は足を止め、エージェントの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「さっきの……オプションBの提案、まだ有効ですか」
エージェントは足を止めたが、その表情は先ほどよりも硬く、どこか暗い影を落としていた。彼は手元のホログラム端末を複雑な手つきで操作し、健太を見ることなく口を開いた。
「健太様……先ほども申し上げた通り、プレミアム・オファーは『収穫』の決断を下すその瞬間にのみ有効な、一度限りの特別ご案内なのです」
エージェントの瞳が、無機質なチャートを映し出す。
「それに、見てください。先ほどまでストップ高だった市場が、大口の利益確定売りによって急変しました。現在はピークからマイナス1.2%の下落に転じています。加えて、一度終了した手術室の再セットアップ費用、追加の麻酔代、そして滅菌処理コスト……これらを再度差し引くと、先ほど提示したような『家族全員の終身保障』という条件は、もはや成立しません」
健太の心臓が冷たくなる。市場という怪物は、少年の決心が固まるのを待ってはくれなかった。18mmのプラスチッククランプを嵌め、皮を数センチ切り取った「中途半端な償還」こそが、健太の市場価値を一時的に下げてしまったのだ。
「そんな……。でも、家族には、もっとお金が必要なんです。今のままじゃ足りないんだ」
健太の悲痛な訴えに、エージェントはわずかに眉を寄せた。彼はマニュアルに徹するサイボーグではない。この歪なシステムの中で、数多くの「手遅れになった少年たち」を見てきた人間としての、微かな憐れみがその瞳に宿った。
「……本来、再契約の交渉は不可能です。しかし、健太様」
エージェントは端末を閉じ、周囲に誰もいないことを確認してから声を潜めた。
「貴方の組織の品質が極めて高いことは、私も、そして運用AI『リブラ』も理解しています。健太様のご事情と、この特殊な相場状況を鑑み、例外的な処置として再度AIに再計算(リ・シミュレーション)を要請してみましょう。ただし、期待はしないでください」
エージェントは健太を廊下のベンチに座らせた。
「ここでお待ちください。リブラが、貴方の『残りの価値』をどう見積もるか……会社の上層部へ通すためのロジックを今から構築します」
エージェントは足早に、査定室の奥へと消えていった。
静まり返った廊下で、健太は独り、股間の違和感に耐えていた。18mmのプラスチッククランプが、歩くたびに自分の未熟さを嘲笑うように当たる。
今、この建物の奥深くで、健太という少年残りすべてに、冷徹なAIが「格付け」を行っている。
一秒ごとに変動するマーケットの赤い数字が、彼の値段を決めようとしていた。
ベンチに座る健太にとって、その時間は永遠とも、あるいは瞬きの一瞬とも感じられた。
(本当にこれでいいのか?)
心臓の鼓動が、股間のプラスチッククランプの圧迫感と同期して激しく打ち鳴らされる。
もし今、エージェントが「不可能だ」と言って戻ってくれば、自分は「普通の少年」として、このクランプを外す一週間後を迎えられる。だがそれは、写真の中で必死に不安を隠していた両親を、そして結衣を、底なしの泥沼に突き落とすことと同じだ。
(僕が、僕でなくなれば、みんなが助かる。でも、僕は……)
自分の存在を丸ごと一括売却するという、生命としての根源的な恐怖。一方で、自分という「商品」が市場に拒絶されることへの、奇妙な焦燥感。
「自分」という個人の尊厳と、「家族の救済」という重い天秤が、健太の頭の中で激しく揺れ動いていた。
そんな健太の葛藤を断ち切るように、自動ドアがスライドし、エージェントが姿を現した。
時計の針は、彼が去ってからわずか10分も経過していなかった。AIの「格付け」は、人間の人生を左右する決断であっても、一瞬で処理されるデータに過ぎないのだ。
エージェントの表情は、先ほどよりもさらに冷徹な、ビジネスマンのそれに変わっていた。
「お待たせしました、健太様。リブラより最終的な回答が出ました。条件は極めて厳格です」
エージェントはホログラムの契約画面を健太の目の前に突きつけた。
「条件は一つ。『全生殖臓器、幹細胞源の全提供(フル・デリバリー)』です。もはや部分的なオプションの選択権はありません。すべてを差し出すか、あるいは今のまま帰るか。二つに一つです」
健太が息を呑む間もなく、エージェントはさらに過酷な付帯条件を告げる。
「そして、市場のボラティリティが激しいため、このオファーの有効期限は今から5分間です。さらに、今回は『市場価値連動型切除約定取引(マーケット・トリガー・ハーベスト)』が必須条件となります」
「……なんですか、それは」
「同意いただいた後、貴方を専用の自動手術ユニットへ収容します。そこで機械が切除の準備をすべて完了させた状態で待機し、リブラが市場価格の推移を監視します。そして、価格が最も跳ね上がった『コンマ一秒の瞬間』に、AIが自動的に切除を実行する取引方法です。
貴方の体の一部が、文字通り市場で最も高く売れる瞬間に『商品』となるための、究極の合理化です」
エージェントは冷たく健太を見つめた。
「貴方の意思でメスを入れるのではありません。市場が、貴方を切り取るのです。……さあ、残り時間は4分30秒です。どうされますか?」
健太の目の前で、5分からのカウントダウンが刻まれ始めた。
窓の外、遠くに見える巨大なホログラムチャートが、獲物を狙う蛇のように鎌首をもたげて揺れている。