生体細胞本位制社会(バイオ・マーケット) .4
三章:運命の瞬間(マーケット・トリガー)
健太が震える指でホログラムに触れると、契約完了を告げる無機質な電子音が響いた。それは、健太という個人の所有権が、正式に「市場」へと譲渡された合図だった。
案内されたのは、先ほどの殺風景な処置室とは対極にある、静謐で豪華な特別室。しかし、中央に鎮座するリクライニングシートは、獲物を拘束するための台座にしか見えなかった。
「失礼します。装着を開始します」
執刀医が取り出したのは、白く輝く陶器のような質感を持つ、未来的なデバイスだった。ハンディ掃除機ほどのサイズがあり、その内部には健太の資産を根こそぎ、かつ傷つけることなく回収するための精密な空洞が設計されている。
「おや、このクランプは……」
医師の手が止まった。局部に残された18mmのプラスチッククランプ。それは部分償還後の止血を行うクランプ。
医師は助手へ的確に指示を飛ばす。
「外す手間が惜しいな。このまま大型ユニットで包み込む」
医師は即座に、用意されていた小型デバイスを脇に追いやり、奥の棚からより巨大で重厚な、白く輝く筐体を取り出した。
「32mmの大型装置に変更だ。それと、最長24時間の拘束になる。カテーテルを準備しろ」
助手が大型装置に標準装備されているカテーテルを取り出す。しかし、それは健太の体にはあまりに太すぎた。
「先生、この標準カテーテルでは健太様には負担が大きすぎます」
「……そうだな。組織を傷つけては元も子もない。カテーテルを12Frに落とせ。クランプの排尿口がら挿入するぞ」
医師は装置の巨大な開口部から指を入れ、先ほど取り付けられた18mmクランプの筒をガイド代わりにして器用に操った。クランプの筒越しに、細身の12Frカテーテルが奥の尿道口へと慎重に、かつ迷いなく挿入されていく。麻酔のおかげで痛みはないが、自分の体の深部へ異物が侵入していく生理的な「重み」だけが健太の腹部に伝わった。
最後に、装置は健太の両腿に頑丈なナイロンベルトで固定された。その白い陶器のような質感の筐体は、健太の股間を完全に飲み込み、外界から隔離する「檻」となった。
セットが完了すると、装置表面の通信LEDが、ネットワーク機器のように不規則に点滅し始めた。
「取引は今から24時間以内に行われます。約定のタイミングはAI『リブラ』が決定し、我々にも予測できません。時折、内部で機械が動くのはキャリブレーションです。驚かないでください」
医師たちが去り、静まり返った部屋で健太は独り、奇妙な感覚に包まれていた。下半身はナノ麻酔で完全に沈黙している。痛みも温度も触覚もない「無」の領域。
それから、6時間。
期待と恐怖に反して、装置に劇的な動きはなかった。
健太は時折、不安に駆られて腰をわずかに揺らしてみる。
すると、装置の内部で「ガチャリ」と硬質な音が響く。
最初に嵌められた18mmのプラスチッククランプが、装置内部壁面にぶつかっているのだ。
「……まだ、大丈夫だ」
感覚の消えた下半身で、その「音」だけが、まだ自分の肉体が切り離されていないことを証明する唯一の信号だった。健太は目を閉じ、白い装置の内部を想像した。
32mmの広大な空洞の中で、18mmの小さなクランプが自分の皮膚を掴んだまま浮いている。その周囲を、いつでも照射可能なレーザー砲塔と、12Frのカテーテル、そしてAIの目となる無数のスキャナーが包囲している。
世界中の投資家たちが、その「空洞の中」にある自分の価値を競り合っている。
だが、平穏は唐突に破られた。
麻酔で沈黙していたはずの腹部の奥で、「ズルリ」とした感覚が生じた。挿入された12Frのカテーテルが、AIの指令によって引き出されるような、あるいは洗浄を開始したような微かな振動を起こしたのだ。
同時に、股間がじわりと「あたたかくなる」のを感じた。健太は急激な恐怖に襲われ、パニック状態で装置を掴んだ。
「嫌だ……やっぱり外してくれ! 止めてくれ!」
取り乱した健太が、力任せに装置を引き剥がそうとしたその時。両手で掴んだ装置の内部から、「カチャリ」と、鈍い音が響いた。
「……嫌だ、やっぱり外してくれ!……嫌だ、……嫌だ 」
健太の絶叫が虚しく響く中、装置は非情にも最終プロセスへと移行した。
装置の内部で「ガチッ、ガチッ!」と、32mmの回収ユニットが健太の肉体を逃がさないよう、強固に固定(ロック)する衝撃が伝わる。
しかし、あのクランプは脱落することなく、依然として健太の皮膚を締め付けたまま、装置の「標的」の中心に位置していた。
「健太様、動かないで! 今、最も高い値がついたんだ!」
エージェントの叫びと同時に、壁のモニターのチャートが垂直に跳ね上がり、真っ赤なアラートが部屋を埋め尽くした。
その瞬間、装置の内部で「シュンッ……」という、空気を切り裂くような高周波音が響いた。
最新鋭の医療レーザーが、AIが算出した完璧なラインをなぞったのだ。
麻酔のおかげで痛みは一切ない。だが、健太の腹部の底で、何かが決定的に「切り離された」という重量の変化だけが、衝撃として伝わった。
直後、装置の下部から「ボトッ……」という鈍い音と、それに続いて「ガチャガチャッ!」という硬質なプラスチックの音が響いた。
それは、健太の体から切り離された「器官」が、依然としてクランプを嵌めたまま、装置内部の回収受けへと落下した音だった。自分の肉体の一部が、プラスチックの音を立てて機械の底に転がる。その事実が、健太の精神を真っ白に染め上げた。
「処置完了! 装置解体(リリース)!」
医師が取り乱す健太を二人がかりで押さえつけ、太もものベルトを素早く解除した。健太を「檻」から解放するように、白い装置が体から引き抜かれる。
健太は、自分の股間を呆然と見つめた。
そこには、もう何もない。
かつて自分の一部であり、家族の保険の担保だったものは、クランプごと消失していた。
残されているのは、レーザーによって一瞬で焼き切られ、出血一つない滑らかな「切り株」だけだった。それは、かつて人間だった場所に、資本主義のナイフが引いた無慈悲な境界線だった。
医師たちは、取り外した重い装置を抱え、処置室のステンレス製トレーへと向かった。
「鮮度は最高だ。リブラの約定レート、過去最高値を更新しているぞ」
医師が手慣れた手つきで装置を傾ける。
「ガチャガチャ……ベチャッ」
金属のトレーの上に、装置から滑り落ちたものがぶちまけられた。
鮮やかな赤みを帯びた、生命力に満ちた「器官」そしてそれを、今や役目を終えたあざ笑うかのように締め付けている18mmのプラスチッククランプ。
クランプは、切り離された肉体に食い込んだまま、トレーの上で空虚な音を立てて転がった。
「素晴らしい……。これ一枚で、結衣様の10年分の治療費と、ご両親の住宅ローンが完全に消滅しました。おめでとうございます、健太様」
エージェントが、血の気の引いた健太の顔を覗き込み、心からの称賛を贈る。
健太は、トレーの上で冷えていく「自分だったもの」と、そこに嵌まったままのクランプを見つめていた。
痛みはない。
医師たちは、健太の精神状態など考慮の外であるかのように、事務的な手際で次の工程へと移った。
「よし、仕分けを開始する。まずは不要な組織の分離だ」
健太のすぐ真横、サイドテーブルに置かれたステンレス製のトレーの上で、医師が医療用のハサミを握る。「シャリ……シャリ……」という、生々しい肉質を断つ音が健太の耳元で響いた。18mmのクランプから「器官」が手際よく切り離され、鮮度の高い生体資源として個別のケースへ収められていく。
だが、処置はそれで終わりではなかった。
「健太様、ここからは法に基づいた『遺伝子保護(ジェネティック・シールド)』のプロセスに入ります」
医師は、切り分けられた組織の中から、健太の「将来の可能性」そのものである一対の部位をピンセットで持ち上げた。
「貴方の遺伝子情報を含んだ器官は、今この瞬間をもって市場の所有物となりました。しかし、第三者による無断のクローニングや予期せぬ生殖を防ぐため、ドナーの睾丸は物理的・化学的に『無効化』されなければなりません。これは国際法で定められた義務であり、提供者本人がその終焉を見届ける必要があります」
「ですがご安心下さい、『無効』された組織からも幹細胞のみを抽出し有効活用させていだきます」
健太の目の前に、小型の円筒状の装置が運ばれてきた。内部には高速回転するブレードと、透明な薬品が満たされている。
「セットして」
医師が合図すると、助手によって健太から摘出されたばかりの部位が装置の底へと沈められた。
「……っ」
健太は、自分の「未来」が、無機質な装置の中に閉じ込められるのを凝視するしかなかった。
「——開始」
スイッチが押された瞬間、装置の中で激しい攪拌(かくはん)音が鳴り響いた。
「ガガガガガッ!」という、肉を粉砕する暴力的な振動。
同時に、強力な溶解薬が注入され、かつて健太の遺伝子細胞であったものは、一瞬にして形を失い、白濁した液体へと分解されていく。
それは、健太が「父親になる可能性」や「血を繋ぐ権利」を、完全に剥奪された瞬間だった。
数分後、先ほどまで形を保っていた組織は、粘り気のある乳白色の液体へと姿を変えました。もはやそこには、健太個人のDNA情報は存在しません。
「DNA破砕、正常に完了。これより遠心分離に移行」
医師は、その白濁した液体を複数の試験管に手際よく分け、部屋の隅で唸りを上げる大型の遠心分離機へとセットしました。
「キィィィィィン……」
超高速回転が始まると、液体は層を成し、純粋な、宝石のように輝く「幹細胞組織」が分離されていきます。この一滴一滴が、妹の結衣を救い、格差社会の上層に君臨する者たちの寿命を延ばすための、文字通りの「命の雫」となるのです。
「見てください、健太様。実に見事な純度だ。貴方の自己犠牲が、これほどまでに美しい成果(アセット)を生んだのです」
遠心分離機の透明な窓の向こうで、自分の本質が、個人という枠を失って「純粋な素材」へと精製されていく。
健太は、自分の切り株から伝わる冷たい空虚感と、機械が奏でる高い共鳴音の中で、ただ一点を見つめていました。DNAは破壊され、形も失った。けれど、抽出されたその輝きこそが、家族が待ち望んでいた「救い」の正体でした。
医師たちが遠心分離機から試験管を取り出すと、そこには健太という一人の少年の、全存在を換金した後の「残骸」と「希望」だけが残されていました。