国家公衆衛生法 マークシートの狂い
少子化の過激な打開策と、新種感染症の撲滅を名目として制定された「国家公衆衛生法」。
割礼や去勢といった処置は法的には「任意」とされていたが、受けた者には強力な税制優遇や、進学に直結する「国家貢献内申点」が与えられた。
現場には人間の係員すら配備されず、学校や公共施設にトラックで巡回してくる自動処置装置によって、受付から手術、アフターケアまでが完全無人で行われる——それが、この時代の当たり前の日常だった。
ザラついた薄緑色の紙を前に、ケイタの指先はかすかに震えていた。
政府支給の【衛生処置申込用紙】。幾何学的な図形とともに、無機質な選択欄が並んでいる。
【項目1:管理ランクの選択】
①第1種の完全切除(生殖器官の国家献上・完全衛生保証)
②第2種の一部切開(軽度〜中度の公衆衛生協力)
【項目2:第2種の切除レベル】(※第2種選択時のみ)
①背面切開
②絞扼輪切除(切除量少)
③包皮環状切開(切除量中)
④包皮環状切開(切除量大)
⑤AIおまかせモード
「……なあケイタ。マジでやるのか?」
隣のパイプ椅子で、同級生のタケシがひそひそ声で問いかけてきた。
HB鉛筆を握るその手も汗ばんでいる。
脳裏をよぎったのは、去年この処置を受けた友人の股間の光景だった。
プールの着替えの際、偶然目に入ったその異様な形。
背面切開は包皮が縦に刃を入れられて切り開かれるため、左右に開いた皮膚がひらひらと垂れ下がり、どこか奇妙で特徴的な見た目になる。
だが、皮をすべて切り落として捨て去る環状切開とは違い、「切開されるだけで包皮自体は切除されず、そのまま残る」それこそが背面切開を選ぶ最大で唯一のメリットだった。
中間テストの結果は壊滅的で、今の成績では希望する高校への進学は絶望的だ。だが、この無人処置を受ければ国家貢献として破格の内申点加算が得られる。
「俺はやるよ。成績、本当にやばいんだ。……内申点さえ入れば、なんとかなる」
「そっか……。じゃあ俺も付き合うよ。一人で受けるのは怖すぎるしな」
互いに恐怖を誤魔化すように頷き合い、二人はマークシートに向き合った。ケイタは「②第2種の一部切開」と、切除量の最も少ない「①背面切開」の欄を、はみ出さないよう濃く慎重に塗りつぶした。皮膚が残る安心感と内申点。それがケイタの選んだ妥協点だった。
体育館横にポツンと横付けされたトラックの荷台には、個室型の処置ポッドが並んでいた。案内する人間は誰もいない。壁の緑色のランプと合成音声のアナウンスだけが、生徒たちを淡々と誘導していた。
予算削減の煽りで回されてきたのは古い旧型機だ。
マークシートを吸い込ませる挿入口の小さなプラスチック製ガイドピンが、経年劣化で根元から欠け落ちていることに気づく者はいなかった。
『3番の個室へ入室してください』
スピーカーの無機質な音声に従い、ケイタは一人で個室に入った。
部屋の中央には、洋式便器に酷似した白磁の器具がポツンと鎮座している。
指示通り座面に深く腰を下ろすと、手前に備え付けられたジェットコースターのような重厚な金属製安全バーが目に入った。
両手で手前に引き倒すと、カチカチカチと重いギヤ音を立ててバーが腹部へ倒れ込み、下半身を逃げ場のない固定具の中に完全に拘束した。
同時に、便器の底から伸縮式の吸引カップが上昇し、ケイタの局部をすっぽりと覆い隠す。
『申込用紙を右側の読み取り口に挿入してください』
電子音声に促され、ケイタは震える指先でマークシートを差し込んだ。
スッ……。
ガイドピンを失った吸入口の中で、用紙は片側へ傾き、斜めにズレたまま奥へと吸い込まれていく。内部の光学センサーが、マークシートの内容を容赦なく走査した。
ケイタが「第2種・背面切開」として塗ったはずの黒塗りは、真横の最も重い処置——「第1種の完全切除」のマスとして機械に誤認された。
古い機種ゆえに、確認用の液晶画面などは存在しない。
自分の選択がどう伝わったのかを確かめる術は与えられていなかった。
シュウウウウッ!
突如、強い負圧の音が響き渡り、便器底部のカップが強烈な勢いで器官を奥深くまで引き込んで固定した。
間髪入れず、局部に「チクッ」とした刺痛が走る。カップ内部から自動射出された極小針が、高濃度の局部麻酔を直接注入したのだ。
「うっ……!」
みるみるうちに下腹部の感覚が重く麻痺していく。
(大丈夫だ……縦に切られるだけだ。皮膚はいなくならない。これで内申点も手に入る)
ケイタは恐怖を打ち消すように自分へ言い聞かせ、友人の股間に残っていた左右に垂れた皮膚の感触を頭の中で反芻した。安全バーに縛られたまま、暗い便器の底から響く機械音に恐怖で震え、ひたすら処置が終わるのを待った。
その時、器官の最も体に近い根元の部分に、ギチギチと細い紐のようなもので強く締め上げられる感覚が伝わってきた。麻酔の影響で感覚が曖昧なため、それが止血帯なのか位置調整なのか、どんな処置が行われているのかケイタには分からない。
直後、装置の奥からブーンという重厚なトランスの唸り音があがり始めた。
高電圧が走るような振動とともに、タンパク質が焼けるような焦げ臭い異臭が鼻を突く。
(焦げた匂い……? 切開部位を焼いて止血してるのか……?)
必死に自分を納得させようとしたケイタだったが、次に鳴り響いた音でその淡い気休めは砕け散った。
チュイイイイイン……!
耳を劈くような、高速カッターの激しい回転音が個室内に轟く。縦に皮膚を切開するだけの処置に、なぜこれほど破壊的な回転刃が必要なのか。冷たい悪寒が全身を駆け抜ける。
麻酔で感覚が鈍麻した下腹部の奥深くで、ズシリと硬いものが「サクッ」と一瞬で断ち切られたような振動が伝わった。
直後。
便器の暗い底、保存液が満たされたタンクの中から、静かな音が響いた。
——ぽちゃん。
何かが水面へ落ち、水滴が弾けた音だった。
それと同時に高速カッターの回転音が止まり、静寂が訪れる。
麻酔で何も感じないはずの股間に、あったはずの重みが丸ごと消え去ったような、ぽっかりとした決定的な空虚感だけが残されていた。
壁のスピーカーから、一切の情理を含まない合成音声が淡々と流れた。
『第1種特別衛生処置が完了しました。国家公衆衛生への貢献に感謝します。最高ランクの内申点および優遇措置が適用されます』
プシューッ、と気密ロックが解除され、腹部を固定していた重い安全バーがゆっくりと跳ね上がった。
下半身の感覚が冷たく痺れたまま、ケイタはフラフラと無人の処置トラックから外の待合スペースへ足を踏み出した。
直後に隣の個室のドアが開き、タケシが出てきた。
麻酔の影響でどこか足元をおぼつかなくさせながらも、その表情には無事に終わったという安堵の色が浮かんでいる。
「うわ……マジで全然痛くねえな。麻酔すげえわ。なあケイタ、お前どうだった?」
タケシは誰もいないトラックの陰にケイタを誘うと、ソワソワとした様子で周囲を見回した。そして待ちきれないといった手つきでベルトを緩め、ズボンと下着をひざ上まで引き下ろした。
「見てくれよ、これ。俺、予定通り『背面切開』にしたんだけどさ……」
そう言ってタケシが見せてきた股間には、無人機によって塗布された透明な保護スプレーの被膜が光っていた。
包皮が縦に一筋綺麗に切り開かれ、事前に話に聞いていた通り、左右に割れた皮膚がひらひらと垂れ下がっている。
奇妙な見た目ではあるものの、確かに「自分の皮が切り落とされずに残っている」状態だった。
「本当に皮を縦に切られただけだわ。ちょっと格好悪いけど、これで内申点と優遇ポイントが手に入るなら儲けものだよな! ケイタのも見せてくれよ、同じ背面切開だろ? どんな仕上がりになった?」
無邪気に笑いながら、自分の選択の正しさを確認し合うようにタケシが顔を覗き込んでくる。
「あ……」
喉が固まり、声がうまく出ない。
頭の中では、退室の際に流れたあの冷徹な合成音声が何度も何度もリフレインしていた。
『第1種特別衛生処置が完了しました。最高ランクの内申点および優遇措置が適用されます』
「どうしたんだよ? 恥ずかしがるなよ、男同士だろ」
痺れる手で、ケイタは自分のズボンのボタンに手をかけた。指先が恐ろしいほど冷たい。逃げ出したい衝動を抑え込み、震える指でジッパーを下ろし、下着の隙間から自分の股間へとゆっくり視線を落とした。
そこにあったのは——。
左右に垂れ下がる皮膚でも、切開された傷跡でもなかった。
分厚い止血用ガーゼと医療用テープによって、寸分の隙もなく、滑らかに押し潰されるように固定された「完全に平坦な空間」だった。
本来そこにあったはずのものの起伏や膨らみが、根元から丸ごと消滅していた。
「……え?」
タケシの楽しげな声がピタリと止まった。
目の前に突きつけられた異形とも言える「平らな下腹部」を前に、タケシの表情から血の気が引いていく。
「ケイタ……お前……それ……なに、それ……」
ぽっかりと空いた決定的な空虚感。麻酔のせいで痛みすら感じないその場所を、二人はただ呆然と見つめ直すことしかできなかった。