自動聖裁機(サンクチュアリ・リシャープ)
あらゆる名門学園において、身体の「清貧と規律化」は絶対の規範であった。
教義の再定義により、割礼は単なる伝統儀式を超え、社会共同体への完全な従属を示す証明書と化した。
名門学園の多くは割礼を入学基準として求めるが、どこも倍率は跳ね上がり、不合格のリスクが常につきまとう。
一方で、より厳しい規律を課す「去勢校」は、合格への門戸こそ広いものの、二度と元には戻らない犠牲を強いる。
浪人が絶対に許されない彼にとって、安全牌である去勢校への併願枠(レベル3)を確保することだけが、残された唯一のルートだった。
青白い蛍光灯に照らされた夜の街角。安っぽいプレハブ小屋の中に佇むその機械は、精米機と同じ顔をして静かに街の風景へ溶け込んでいた。
看板には『自動聖裁機(サンクチュアリ・リシャープ)』とある。これまでずっと自分には無関係なものとして視界の端から弾き飛ばしてきたが、ついにこの前に立つ日が来てしまった。
ポケットの中で握りしめた「学園基準一覧シート」の湿り気が生々しい。
折れ曲がった紙面に並ぶ「D判定」の赤いスタンプ。浪人は許されず、落ちれば社会的な死が待っている。自分がこの凡庸な頭脳のまま生き残るには、レベル3――「完全去勢」を選択する以外の道は残されていなかった。
周囲に人目が無いのを確認し、意を決してプレハブへ近づく。だが、どうしても足が竦み、中の鞍型座面に跨がる勇気が出ない。
その時、プレハブの室内ではなく、屋外の側面に設けられた小さなステンレス扉が目に入った。「聖遺残物(レリック)受け取り口」だ。
――この中に何があるのか。
考えたくもない恐ろしい光景が頭をよぎる一方で、一度芽生えた好奇心がじわじわと恐怖を侵食していく。
扉の向こうに収められているものなど、容易に想像がついた。自分と同じように追い詰められ、この無機質な機械にすべてを差し出した誰かの「去性器」や「包皮」が転がっているのだろう。
だが同時に、どこかで「どうせ中は空っぽだろう」と自分に都合のいい期待を抱いている自分もいた。
こんな路地裏の機械に、そんな生の性器が放置されているはずがない。自分が勝手に作り出した幻想であってほしい。そう思わなければ、直視する勇気が出なかった。
葛藤の末に意を決し、震える指先で恐る恐るその扉へ手をかけた。
パッキンが離れる重い手応えとともに、チルド冷気と強烈な消毒液の匂いが吹き出した。
「ご自由にお持ち帰りください(※24時間経過後は廃棄されます)」
というステッカーの奥、冷やされたステンレス皿の上。そこには数個の包皮と、医療用ワイヤーで根本を硬く縛られ、ねじ切られた生々しい去勢器がふたつ、無造作に転がっていた。
傍らには「備品」とシールが貼られたトングと、ペラペラのポリ袋が吊るされている。
現実から目を背ける隙すら与えない、圧倒的な生の残渣。その冷酷な光景を前に、彼は息を呑んだ。
ここに放置された「モノ」の持ち主たちは、今頃どんな思いで夜を過ごしているのだろうか。
自らの意思で切り落とした身体の一部を、この冷たい箱の中に置き去りにして帰った男たち。
彼らは自らの尊厳と引き換えに合格という安全を買ったことに安堵しているのだろうか。
それとも、二度と戻らない身体の感覚に苛まれ、暗闇の中で激しい後悔に震えているのだろうか。
数分後の自分の姿がそこに重なり、胃の奥から吐き気が競り上がった。
自分は本当に、この冷たいステンレス皿の上に己の身体の一部を投げ打つのか。合格というたった一つの安寧と引き換えに、男としての存在を永久に捨て去るのか。
激しい動揺を押し殺すようにバタンと扉を閉め、プレハブの中へ足を踏み入れた。
紙幣の投入口の横には、黄ばんだプラスチックの選択ボタンが並んでいる。
『レベル1:割礼 浅切』
『レベル2:割礼 標準深切』
『レベル3:完全去勢』
千円札を吸い込ませると、機械が「ウィーン」と低い稼働音を立ててランプを点滅させた。
指が震える。『レベル1』を押せば、男としてのプライドや身体は残る。
だが、激戦区の割礼校で落ちれば後がない。
明日からの人生がすべて崩壊する恐怖と、今ここで身体を失う恐怖が脳内で激しく鬩ぎ合う。
結局、僕を動かしたのは信仰でも意志でもなく、ただ「落ちたらどうしよう」という惨めな自己保身だった。
半狂乱のまま、一番下の『レベル3』のボタンを強く押し込んだ。
警告音が一度鳴り、鞍型の座面へ跨がるようアナウンスが流れる。
吸い寄せられるように鞍へ腰を下ろした。
足元のペダルを踏み込むと、ギィと重い音を立てて股下のシャッターが開き、潤滑油で塗れたコンベアが覗いた。
その途端、胃がひっくり返るような恐怖に襲われ、咄嗟にペダルから足を離してしまう。バタン、とシャッターが閉じ、元の冷たい静寂に戻る。
生唾を飲み込み、意を決して再びペダルを浅く踏む。
ほんのわずかにシャッターが開き、暗がりの中でオイルに光るゴムベルトの表面がチラリと見えた。
足を緩めては踏み、小さくシャッターを開閉させては股下を覗き込む。
その不気味な往復を何度か繰り返した末、彼は覚悟を決め、ペダルを床まで深く踏み抜いた。
逃げ場を塞ぐように腰の安全バーが降り、ガチリとロックされる。
ブーンという無機質なコンプレッサー音がプレハブ内に反響する。
(頼む、早く終わってくれ――)
祈るような思いも虚しく、コンベアに吸い込まれる感覚のあと、鈍い衝撃と絶望的な痛みが全身を駆け抜けた。
自分のアイデンティティが物理的にちぎり取られていく感覚。
激しい切削が停止し、止血工程に入ると、あれほど喧しかった機械音が嘘のように収まり、プレハブ内は薄気味悪い静寂に包まれた。
股下をキツく締め上げるコンベアは動かず、患部を両側から力強く挟み込んだまま固定されている。
下半身の様子を確かめようと覗き込んでも、固く締まった肉厚なゴムベルトが視界を遮り、何も見えない。
その静まり返った装置の奥で、かすかな駆動音が響いた。何かがコンベアでゆっくりと運ばれていく、
コトン、コトン……という乾いた足音のような振動。
そして直後、装置の高さのある場所から、柔らかく重い何かが落ちる音がした。
――ドスッ。
その音を聴いた瞬間、彼は直前に恐る恐る開けたあの受取口の光景を思い返していた。
チルドの冷気とともに匂い立つ消毒液の臭気。ステンレス皿の上に転がっていた、白っぽく冷やされた包皮と、ワイヤーで硬く締め上げられてねじ切られた二つの肉塊。
(ああ……今落っこちたのは、さっきまで僕の一部だったものなのか……)
自分の身体の一部が、あのステンレス皿の上にぽつんと転がった光景が、鮮明なイメージとなって脳裏に浮かび上がる。
二度と元には戻らない喪失感と鈍い痛みに苛まれ、冷や汗と涙が頬を伝った。
その時だった。外からガラガラと粗雑なトラックのエンジン音が近づき、プレハブのすぐ横で停車した。
主人公はそのトラックが回収業者であることを、すぐさま悟った。
作業員の安全靴の重い足音が近づいてくる。一切の口を開かない無言のまま、ガチャン!と外側の受け取り口の金属扉が乱暴に引き開けられた。
続いて、金属製のトレーがガバッと乱暴に取り出される音がプレハブの壁越しに生々しく響く。
拘束され動けない彼は、外で何が行われているのか、研ぎ澄まされた神経で必死に感じ取ろうとした。
(待て……24時間の猶予があるはずだ。あの掲示にも、そう書いてあった……)
脳裏にあのステッカーの文字が浮かぶ。しかし、彼は気づいてしまう。
この安っぽいプレハブに置かれた機械のどこに、皿の上の肉片が「いつ切り落とされたものか」を識別するセンサーなどあるだろうか。
個別に管理するトレイも、時間ごとに区切る仕切りすらない、ただのステンレスの平皿だ。
24時間経過したものだけを選別して捨てるような高機能な仕組みが、この無機質な機械に存在するわけがない。
思考が恐怖で凍りつく間にも、外からはパッカー車の投入口に備え付けられたプレス板が、ガバッ、ガバッ、と旋回する音が聞こえていた。
作業員はただ、巡回ルートに従ってトレーの上にあるものを機械的にすべてかき集め、投入口へ投げ込んでいるだけなのだ。
グググ……と圧縮油圧の重低音が響き、不快な破壊音が深夜の路地裏に虚しく反響する。
あの押しつぶされている音は、さっき受取口で目撃したあの去性器だろうか。
それとも……恐らく、今しがた落ちた自分の一部も一緒にまとめられ、潰されているのではないか。
もう一度あの扉を開く勇気や、自分の肉片を持ち帰る勇気が自分にあったかどうかは分からない。
だが、今まさに自分の一部だったものが、二度と元には戻らない形で潰され、回収されていくというリアルな感覚が、動けない彼の意識を苛烈なまでに際立たせた。
『処理が完了しました。主の平和がありますように』
チープな電子音声とともに、ようやくコンベアの圧着が緩み、腰のロックが解除された。
痛む股間をかばいながらプレハブを出る。
自分に残された最後の選択肢すら無残に奪われたという猛烈な恐怖と、あまりに身勝手な社会の仕組みへの激しい憤りが、ふらつく足元を焦らせた。
(大丈夫だ……さっきの音は先客のものだけで、僕の分はまだあの中に残っているはずだ)
荒い呼吸を整えながら、必死に自分にそう言い聞かせ、心を落ち着かせようとした。さっき目の当たりにしたあの冷たいステンレス皿の上に、先ほど落下した自分の肉片がぽつんと横たわっている情景を脳裏に描く。
そこにあるはずだと思わなければ、失ったものの重みに耐えきれず、その場で崩れ落ちてしまいそうだった。
実際のところ、扉を開けてそれと対面したとき、自分の手で持ち帰る勇気が自分にあったかといえば、それは定かではない。
それでも「まだそこにある」という事実だけを頼りに、震える手で受け取り口の扉を引き開けた。
――だが、そこには何一つ残っていなかった。
さっき目撃したあの生々しい先客の残渣も、先ほど――ドスッと音を立てて落ちたはずの自分の一部も、影も形もない。
ただ、冷たく冷やされた無機質なステンレスの平皿が、青白く光っているだけだった。
「24時間経過後は廃棄」というあの注意書きは、利用者を安心させるための形ばかりの嘘か、あるいはシステム側の無関心が作り出した単なる気休めの看板でしかなかったのだ。
彼の人生を賭けた決断も、差し出した身体も、システムにとっては巡回ルートのついでに潰して捨てる、ただの「ゴミ」でしかなかった。
それからというもの、彼は時折、街角の受け取り口を覗き込むのが日課となった。
合格通知を手に入れ、無事に学園へ通うようになってからも、夜の静寂に乗じて青白いプレハブの前に立つ。
自分を含め、持ち主から見放され、社会のシステムに都合よく削ぎ落とされた哀れな肉片たち。
パッカー車の不快な旋回音が訪れ、プレス機のもとへ永遠に消え去ってしまうまでのわずかな間。
二度と元には戻らない何かを失った者として、その冷たいステンレス皿の上でひっそりと横たわるそれらを、静かに悼むためだけに。