彼は不安そうな顔をしていた。
無理もないだろう。元来人前に出るのが苦手な彼のことだ。今から行われるのは私達が主役の見世物。神経質にならないわけがない。
そっと後ろから手を握る。小刻みに震えていた手が驚いたように痙攣した。彼が怯えたような目でこちらを見た。もう一度力強く握り締めてささやく。
「大丈夫よ。私もついてるわ」
彼はしばらく何を言われたのかわからない顔をしていたが、やがて無理に笑顔を作って微笑んだ。
「そうだな、うん。…君がついてる」
全然納得できていないのは承知の上。私も彼の立場だったら、と想像することはあるが、理解できると言うつもりはない。そう、男性と女性は違うもの。私はどこまでいっても、本当に男の気持ちがわかるとは思えない。
それでも、私達はともに歩む道を選んだ。私だけじゃない、彼もそれを望んでくれたはず。そう、私にも、励まして微笑みかける権利はあるはず。
会場の係の人から合図が出た。
「いきましょう」
彼の額を汗がつたうのが見える。がんばって、そう伝えたいけれど、もう扉の向こうから大きな声と音が漏れ聞こえていて彼にはきっと聞こえない。だから私は彼の手を握る。彼の汗ばんだ手を握る。
大きな扉がゆっくりと開き、隙間から中の景色が見えてくる。式の時の入場は二人別々だったし、なんだか気がついたら終わってしまっていたような気がする。だから、これが私達にとって、夫婦として踏み出す最初の一歩。私達夫婦の…披露宴。
「皆様、これより、新郎新婦が皆様のテーブルへまわり、愛の炎を灯してまいります。どうぞ、暖かい拍手でお迎えくださいませ」
司会はアケミ。学生時代からの仕切り屋で、こういったMCにはうってつけだ。私達が焦って頭が真っ白になっても、きっと上手くフォローしてくれるだろう。
まずは新婦側の親族席から。私の父が複雑そうな目を彼に向けている。彼も恐縮してしまって、目を合わせることが出来ないようだ。舅と婿、うまくやってほしいのだけれど…仕方がない。私が軽く睨むと、父はバツの悪そうな顔をした。母は誇らしげに胸を張っている。いくら感謝をしても足りない。そして次は新郎側へ。彼にそっくりな顔をした義父が、息子のことを心配そうに見つめながら迎えてくれた。義母はぽろぽろと涙をこぼしている。ごめんなさいね、お義母様。息子さんは私が頂きます。
そして職場の関係者。私の直属の上司。実はあまり好意を持っていない。今も私の夫に好色な眼差しを向けている。無理矢理笑顔を作って挨拶をすると、彼女は意味ありげな視線を夫の股に向けて下卑た笑いを返した。「素敵な旦那様ね」
「ありがとうございます」儀礼的に返事をして、早く次へ行こうとキャンドルに注意を向けた瞬間、彼がびくりと身体を震わせた。何事かと顔を見ると、哀れなまでに動揺して顔を真っ赤にしている。
「あら、ごめんなさい」上司が言って、テーブルの他の同僚達からクスクスと笑い声が漏れた。再び夫に目を向けると、股間をかばうように腰が引けている。どうやら、うっかり事故に見せかけて触ったようだ。あまりの厚かましさに呆れて声も出なかったが、ここで抗議するわけにもいかない。私はさっさと火をつけて次のテーブルへと足を運んだ。
途中で彼に静かに声をかける。「大丈夫だった?」彼は消え入りそうな声で「うん」と答えた。「ごめんなさいね、本当は呼びたくなかったんだけど」私がささやくと、彼は小さく首を振った。「そうはいかないよ。会社の付き合いだってあるんだから。気にしないで。…僕は…大丈夫」彼は恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、しっかりと笑った。
彼の関係者はその点礼儀正しかった。時々悔しそうに私を見つめる目があったりして、この娘も彼に気があったんだな、と見当をつける。彼は気づいているのか、いないのか、人の良い笑顔を振りまいている。罪作りな人だと思いつつ、私は心の中で優越感に浸った。
友人席はもっと気楽だ。無理に笑顔を作る必要もない。裏表がない分、のびのびと歩いてまわることができた。彼も少しリラックスしてきたようだ。
彼の学生時代の親友の席では、男の子が二人、手を叩いてはしゃいでいた。早くに結婚したらしく、二人ともすでにかなり大きい。夫に向かって「おめでとう」と落ち着いた声がかかり、彼は「やっと追いつけそうだよ」と答えた。
子供二人が声をそろえて、「お兄ちゃん、かっこいい!」と叫ぶ。彼は照れながら、「ありがとう」と答えていた。ただ、大きい方の子が「僕も早くお兄ちゃんみたいになりたいな」と呟いたときには、ちょっと複雑そうな顔をしていた。
彼は恥ずかしがり屋だけれど、本当はやんちゃな人だ。親しい人のそばにいるときは、いつもいたずらばかりしている。知り合った最初のうちは、単に人のよさそうな、真面目な人だと思っていた。仕事はそれなりに出来るようで、営業の成績も真ん中くらい。よく通る声をしていて、人好きのする顔立ちなので、もう少し積極的に立ち回ることが出来るようになれば、化けるんじゃないかって、みんなに言われていた。
だから早いうちから、彼は上司にお見合いを勧められていたらしい。結婚すれば度胸がつく。だから早く貰ってくれる相手を探せ、と。彼が断ると、上司はため息をついたそうだ。まったく最近の若い男は、いつまでもフラフラと遊びたがりやがって、と。
彼はその頃から意中の相手がいたそうで、それがなんと私であったそうで、私は嬉しいような、申し訳ないような、面映い気持ちにさせられる。
私はもともと彼の友人のNと付き合っていた。だから彼の初対面の印象というものを、実はあまり覚えていない。申し訳ないことに彼の方は私のことをはっきりと覚えているようで、そのときのことをときどき口にする。
「不公平だと思った。ちょっと顔がいいからってあいつにはこんなに綺麗な彼女がいるのに、僕には誰もいない。世の中間違ってる。どうして神様は、平等な世界にしてくれなかったんだろう。そんなふうにずっと思ってた」
公平に見て、彼の見た目だって悪くない。わきたつような色気、とはいかないが、包み込みたくなるような愛嬌のある顔立ちだ。女に好かれないわけがない。そういうと、彼は答えた。
「だって君の目には、僕の顔なんか映ってもいなかったじゃないか。あいつのことばっかり追いかけててさ。僕はずっとそういう役回りだったんだよ。誰かの引き立て役」
それを言われると私も弱い。同じときに紹介されたNの他の友人達のことは、何人か記憶に残っていたりするものだから、余計にバツが悪い。
私はあまりNのことを話題にしないでくれと、彼に頼んだ。私にとってNとのことは、思い出してあまり気分の良くなる記憶ではない。
私とNは、社内の合コンで出会った。秘書課のチサが「レベルの高い面子だから、絶対においで」と言っていた通り、確かに美形ぞろいで、人数もちょうどよかったし、適当にペアを組んで飲んだ。とくに話の内容は覚えていない。それほど意味のある話ではなかったと思う。形式にのっとった、中身のないお喋り。
それから二人で会うようになった。もちろん身体の関係もある。私はそれほど不真面目な女ではなかったから、遊んでいるつもりはなかったが、どこか、Nとの結婚、のような具体的な将来は思い描けずにいた。彼の部署の知人に紹介されたときも、お返しに私の友人に紹介する予定はなかった。というより、そうするべきだという選択肢を思いつかなかった。
Nとの別れはいきなりやってきた。青天の霹靂。しかも、私はその話もチサの噂話を元に知った。チサは私がNと付き合っていることを知っていたので、秘書室の噂話より詳しい話を聞けるのではないかと思ったようだ。私は何も知らなかった。
Nは、私と付き合い始める前から、常務の妻と不倫関係に会ったそうだ。本人は出世のためにと割り切って寝ていたらしいが、妻の方はそうではなかったらしい。いや、彼女にとっても、本気の愛ではなかったのかもしれない。ただ、男が、自分より若い女に夢中になるのが許せなかっただけということも、充分ありうる。
Nと妻との関係を、常務自身も知っていたそうだ。それどころか、自分を含めた三人で真昼間から重役会議室を閉め切り、淫らな関係にふけっていたという噂もある。いくらなんでも都市伝説の類ではないかとは思うのだけれど、実際に事件が起こったのはその、いわくつきの会議室であったのだから、あながち根拠がないとは言い切れない。
私の知る確かな事実はこれだけだ。常務夫人が、Nを呼び出し、刃物で刺した。
それ以上の詳しい内容については、Nの恋人という立場でありながら、私は真実を知る機会がなかったし、また、確かめようとも思わなかった。噂話で充分だった。
彼女はNを呼び出したあと、強引に身体を繋ぎ、Nが絶頂を迎える間際にその性器を切断したそうだ。悲鳴を聞きつけた警備員が駆けつけると、股間を血に赤く染めた男が床をのた打ち回っており、同じく返り血を浴びながら、恍惚とした表情で切り刻んだ肉片を口へと運ぶ女の姿が目に飛び込んできたらしい。急いで医師が呼ばれたが、もちろん食されてしまった男根が元に戻るわけもない。急ぎで止血だけが行われ、Nは病院へと送り込まれた。
会社側は伏せようとしたが、噂はあっという間に広まった。常務自身は青ざめた顔で社に残っていたが、Nは戻ってこなかった。どこへ行ったのか私も知らない。
一度だけ、病院に会いに行った。かつて付き合っていた者の義理として。病室のNは、少し痩せて顔色が悪い以外は、前と変わらないように見えた。ただ確実に、私の方をうかがう目だけは、かつての自信に溢れたものではなくなっていた。
「大丈夫?」と、声をかけ、Nが言葉に詰まるのを見て、無意味なことを聞いたと思った。大丈夫ならこんなところにいるわけがない。気まずい沈黙が続いた。何を話していいかわからなかった。だから、いつのまにか口を開いていた。
「浮気してたってホント?」
彼は顔色を更に悪くして目を伏せ、ぶるぶると震えた。そして小さく「うん」と答えた。
「そう…」
また沈黙が続いた。ふと、彼のシーツの下から伸びる、カテーテルの管に目が留まった。噂は本当なのだろうか。彼は本当に切断されてしまったのだろうか。少し聞いてみたいような気もしたが、やめておいた。彼と恋人を続けるというのなら、知っておくべきことかもしれないが、私はすでに自分で答えを出している。真偽を確かめてから別れを告げるのは、傷物になったからいらない、と言っているようで、非情に思えたから。
「そろそろ帰るわね」
そう言って立ち上がると、Nは素早くこちらを見つめた。見る見るうちに彼の目に涙が膨れ上がり、ぽろぽろと零れ落ちた。どちらかといえばNは高慢な性格で、そんな様子を見せるのは初めてだったので、私はとても驚いた。
「…でも、君のことは本気だったんだ…」
涙声で彼は呟いた。
「…そう…ありがとう」
彼はまた顔を伏せて、鼻水をすすった。あまり長くいない方が良いと、私は思った。
「お大事にね…さよなら」
病室の扉をくぐるとき、背後から泣き声が聞こえたが、私は振り返らなかった。
その後、Nとは二度と会っていない。
彼との仲が深まったのはその後だ。いや、正確には一度離れたというべきか。
ある日彼が私のアパートまで訪ねてきた。何事かと驚いた私に、彼はNの病院の場所を聞いた。会社では声をかけにくかったとのこと。それはそうだろう。
「君なら知っているかと思って」
事情が事情だけに、知人の間にも場所は教えられていなかったようだ。確かに、下世話な好奇心混じりの同情で、様子を見に来られたりなどはしたくないだろう。だが、彼自身は、Nの事を本気で心配しているように見えたので、私は場所と病室の番号を伝えた。
結局彼は、夜にはうなだれて戻ってきた。
「会ってもらえなかったよ…」
予想はしていた。仕方ないと彼の肩を叩くと、突然頭を下げられた。Nの事をよろしく頼むと。私は困った。しかし、彼の誠実な人柄を見る限り、ここで嘘をつくのも気がひけた。だから私は正直に、自分がもうNと会う気はないことを告げた。
彼は目を見開いて私の顔を見つめた。私とNが別れる可能性を全く考えていなかったというように。私は少し腹を立てた。Nは確かに気の毒ではあったが、結局のところ、私は二股をかけられていたわけで、別れることを非難される筋合いはない。だが、もじもじと居心地悪そうに尋ねてくる彼を見ると、それを主張する気も失せた。
「…それは…その…あいつが…もう『ない』…から?」
わからない。完全に否定は出来ない。でも…
少しずつ、言葉を重ねていくと、私の気持ちが明らかになっていくように思った。Nの身体が無事だったところで、同じだったことを私は知っている。そもそもNが常務夫人の愛人だったことを知ったときでも、私は全く怒る気にはなれなかった。Nならそんなことだってありえるような気がした。さすがにあんな騒ぎになるとは驚きだったけれども、いつかはそんな風に終わる気がしていた。とどのつまり、私はそれほどNに強く魅かれていたわけではなかったのだ。
私よりも、友人である彼の方がよっぽど力になってやれるだろうから、諦めずに会いに行ってやってくれと、私は言った。だが彼の返事はこうだ。
「ああ、そんなの無理だ、無理だ。 あいつに合わせる顔がない!」
恋人にまで振られてしまった以上、どう慰めていいのかわからないということだろうと、私は思った。だから私は何も言わなかった。おやすみなさいと声をかけて、扉を閉じた。
当時私は、同僚の恋人というくくりで、かなり彼の親しい仲に区分けされていたという自覚があった。友人であったNとまとめて、それなりに露骨なからかいの言葉をかけられたりしていたからだ。ときどき、子供のように私を後ろからおどかしたりして、私を怒らせていた。
しかし、それがパッタリとやんだ。顔を合わせれば礼儀正しく、彼は私に挨拶をした。そこにかつてのような親しみはなく、どこか他人行儀なやりとりを、私は少し残念に思ったが、仕方がないと諦めた。それでも尚不思議なことに、彼と私の縁は切れなかった。
もちろん、今にして思えば、それを不思議と言い切る私が愚かだ。彼は必死で私と繋がりを保とうとし、偶然を装っていつも私のそばにいたのだから。
数ヵ月後、顔に大きな青あざを作った男が私のアパートの前に立っていて、私は悲鳴をあげて警察を呼びそうになった。それが彼であることに気づくまで、少し時間がかかったくらいだ。ようやく見知った顔の変わり果てた姿だということに気づいた私は、今度は他の住人達が警察を呼ぶのを避けるために、彼を部屋に上げて傷の手当てをした。
いったい何があったのかを聞こうとする私に、彼はなかなか答えなかった。痺れを切らした私が、心配を通りこして怒りはじめると、彼はポツポツと語った。
「あいつに会って来たんだ」
その頃にはすでに、私にとってNの事は遠い過去になっていたので、『あいつ』が誰を指すのかすぐにはわからなかった。
「絶交だって言われちまった」
彼は寂しそうに笑った。
なんと返事をして良いかわからず、私は彼の手当てに専念した。彼の語るNの話を、聞きたくないような、しかし聞かずにはおれない複雑な気持ちで、耳を傾けた。
「…傷跡を見せられたんだ」
何の傷かなど聞く必要もなかった。
「穴の位置も付け替えてもらえないんだって、あいつ、泣いてたよ。ちゃんと結婚した男じゃないと、ダメなんだって。離婚したフリも出来ないって。ションベンする度にそこらじゅうに飛び散るんだって。もう誰も相手にしてくれないって」
淡々と語られる胸の痛む描写に、私は眉をひそめた。
「ハサミを引っ張り出してきてさ、お前も切ってみろよ、って言うんだ。善人ぶって同情するなら、お前も切り落とせって言うんだ」
私は息を呑んだ。彼ならばもしかするとやってしまいかねない気がしたからだ。もっと別の場所の手当てを先にしておかなければいけなかったのかと、彼の股間へ目をやる。彼はそんな私の視線を感じたのか、両手で股を押さえる情けない格好をとった。
「…できなかったよ」
少し間を空けて彼は呟いた。彼が重い罪悪感を感じているのがわかったので、私は彼の肩に手をかけて言った。
「当然よ。あなたが気に病むことじゃないわ」
しかし、彼は私の言葉には反応しなかった。
「僕は…できなかった」
そして、彼は私の目を見て言った。
「惚れた女がいるんだ」
私はなんと返せばよいかわからなかった。
「つまらない男の情けないイチモツだけど、受け取って欲しい相手がいるんだ。だから、切りたくない」
彼は泣いていた。
「…友達だったんだ。本当に友達だったんだよ」
「わかるわ」
私もいつのまにかもらい泣きしていた。
「…君が好きだ」
「…そうみたいね」
私は無理矢理笑った。泣きながら笑った。そして彼を抱きしめた。
私達の馴れ初めは、Nを抜きにして語ることが出来ない。だけど、Nの話は、華やかな場にはあまりそぐわない。だから、アケミも、職場の同僚の紹介だと、軽く流した。
彼も私と同じように、Nのことを考えているのだろうか。おそらく考えているだろう。少し、彼の表情の違いが前よりわかるようになった。
親族からの挨拶があった。私の母が、そして父が、思い出を語る。それに応えるように私が丸暗記して用意してきた原稿を読む。何度も打ち合わせを繰り返した、やらせに近い演出だけれども、それでもやはり、胸にこみ上げるものを感じた。
そして、彼の番。お義母様とお義父様が、のんびり屋でどこか抜けていて、でも優しくまっすぐな、彼の少年時代を語る。そして時々声を裏返しながら、彼が二人に感謝の言葉をかける。
そして順番にスピーチ。少し疲れが溜まってきているが、気を抜くわけにはいかない。目の前に料理が並べられているけれど、食べようという気にすらならない。特に彼の方は口をつけるのを禁じられているので尚更だ。
最初の方は、友人のジョークに笑い声を漏らしていた彼も、スピーチが終わりに近づくにしたがって、またそわそわと落ち着きを無くしてきた。この先のイベントのことを考えているのだろう。私は、テーブルの下で、彼の方に手を伸ばし、もう一度繋いだ。
彼の視線はスピーチを続けるゲストを眺めていたが、他の誰にも聞こえないような声で私に呟いた。
「…僕…駄目だよ」
私はいっそう手に力をこめた。
「出来ないよ…こんな…みんな見てるのに」
「…みんなやってきたのよ。あなたのお父さんも…あなたの友達だって。みんなに出来たのに、あなたに出来ないわけないでしょ」
「でも…怖いよ…」
彼の足が震えていた。私は彼が気の毒になった。私だって、みんなに見せたいわけじゃない。彼は私だけのものだ。今時こんな、古い風習はナンセンスだ。
「やめてもいいのよ」
私が呟くと、彼の震えがピタリと止まった。
長い沈黙があった。一人のスピーチが終わり、私達は拍手をしてまたお行儀よくテーブルの下に手を戻す。すると、今度は彼の方から手を伸ばしてきた。力強く、とは到底言いかねた。驚くほど弱々しくて、すがりつく、という形容に近い。
「…そんなことを言わないでくれ」
私は、その手をしっかりと受け止めた。
「僕は君を愛してるんだ…捨てないでくれ…」
「そんなことはしないわ…ただ…恥ずかしいなら、みんなの前じゃなくてもいいのよ」
「いいんだ」
彼の声はかすれていたがはっきりしていた。
「…いいんだ」
だから私はもう何も言わなかった。ただ、彼の手を握って、その時を待つことにした。
「皆様、お待たせいたしました。これより、新郎新婦の二人に、永遠の愛の証として、夫婦による始めての共同作業を行います。カメラをお持ちの皆様は、是非ご準備くださいませ」
来た。
式場の人がさりげなく寄ってきて、私達を促す。彼は一つ深呼吸をしてから立ち上がった。
舞台の中央に大きな台が設置されて、ライティングされている。無機質なようでもあり、少女趣味のようでもある、独特の景観だ。ここに彼が座ることになるのだが…
ふと、気がつけば、彼はライトの一歩手前で立ち尽くしていた。早く準備をしなくては間が持たないというのに、それをしようとする気配がない。
私が彼の顔を見ると、彼はぶるぶると首を振った。そんな、ここまできて今更そんなことをいわれても困る。焦る私に彼は子供のようにいやいや、を繰り返した。
予定では、ここで彼が自分で服をくつろげることになっているのだ。彼が協力してくれないことには前へ進めない。事情を察したアケミが、小話で時間を稼いでくれている。今のうちに何とかしなければ。
「どうしたの?」
私が顔を寄せると、彼は泣きそうな声で言った。
「だって…だって…」
情けなさそうな顔で下を見つめる彼の視線を追うと、大きく膨らんだ股間がすぐに目に飛び込んできた。知人達の目に自分のプライベートを晒さなければいけないという特殊な状況が刺激となって、身体が興奮してしまったのだろう。確かに気まずくはあるが、私だって、十やそこらの小娘ではない。男の生理がどんなものであるかぐらい充分承知している。
「気にすることはないわよ」
会場のどこかから、クスクスと笑い声が聞こえてきた。彼が手間取っている理由に気づかれてしまったのだろう。このままでは余計に進めにくくなってしまう。
突如、ライティングの位置が変わって、私達二人が照らし出された。事情がわからず、呆然としていると、アケミの声が響き渡る。
「それでは、美しい花嫁に、初々しい夫の服を脱がせてもらいましょう。皆様、慎み深い新郎の様子をよくご覧下さい」
そんな予定はなかった。これはアケミのアドリブ? でもライトまで移動しているのだから、これは会場の人たちも手伝っているに違いない。確かに、このままいつまでも突っ立っているわけにはいかない。新郎の服はこの日の為に簡単に着脱できるようにデザインされているから、私でも何とかなるはず。
私は夫のそばにかがみこんで、彼のベルトに手をかけた。その手を彼の手が押し留めようとする。
「ま、待って…」
会場のサポートの人がさりげなく、彼の身体を影から支えるフリをして手を押さえ込んだ。なかなかに手馴れている。こういったことはよく起こるのかもしれない。
私は素早く、彼のスラックスを左右に割り開いた。彼の分身が勢いよくそそり立つ。明るいライトの下で、性器の先端がつやつやと光り、銀色に輝く雫が糸を引いた。
まあ! なんてはしたない! 触る前から濡れているなんて!
会場がどよめき、女達はニヤニヤと好色な笑みを浮かべ、男達はお上品に目をそらした。私自身の頬も赤くなっている自覚はあったが、本当に泣き出しそうな彼の顔を見て、叱りつけそうになるのをぐっとこらえる。
私は努力して微笑み、会場の黒子に手伝ってもらって、彼を台座に座らせた。前もって陰毛は、専門の美容師の手で綺麗に剃られているために、なめらかな肌が綺麗に見える。ただ、双方の親に内緒でこっそりホテルに泊まったときに比べて、むき出しの彼の性器は、とても無防備に見えた。
てきぱきと彼の下半身は大股開きで固定され、会場全体からよく見えるようになった。贔屓目に見ても彼の男根は形がよく、私は見せびらかすのが誇らしい気持ちと、悔しい気持ちが半々だった。
「拭いて綺麗にしてあげてください」そういって、アルコールに浸った脱脂綿が手渡される。私は、打ち合わせで教えられていた通りに、彼の包皮を剥き下ろし、先端からくびれにそって順に根元へ、陰嚢のひだを伸ばしつつ隙間までしっかりと、そして汚れやすいお尻の穴まわりまで、しっかりと拭き清めた。冷たいアルコールが敏感な部分を擦る度に、彼は「アッ、アッ」と小さく喘ぐ。それがわざわざご丁寧に、台座の彼の口元に備え付けられたマイクで拾われてしまうのだから、よくよく破廉恥な仕組みだ。
補助の医師が彼の腰に麻酔を打った。痛みを和らげる薬で、事前にアレルギーがないか確認をとられた。作業が続けやすいように、ある程度勃起を持続させる薬も入っているはずだ。彼の様子を見ていると必要ない気もするが、やはり、はじまってから萎えてしまうかもしれない。そして輸血用のチューブと、尿道カテーテル。驚くほど簡単に準備が整ってしまった。
「皆様、いよいよ夫婦の初の共同作業、ペニスカットが行われます。入刀の様子がよく御覧になれますよう、カメラをお持ちの方は舞台の前の方にお集まりください」
一番に彼の親友がやってきた。ビデオカメラを兼ねたかなり本格的な機材だ。そして次に私の妹、私の側の親族代表だ。そして義父。やはり、浮かべている表情は複雑そうだ。かつての自分の姿を思い起こしているのだろうか。私の上司も来ている。正直迷惑だが、来るなとも言えない。
係の人から幾分卑猥なデコレーションのほどこされたメスが手渡された。作成者のセンスを少し疑ってしまうが、それを言い出せばどこまでもきりがない。
私は右手でメスを持ち、左手で彼の性器の先端を軽く支えた。すると、係の人から注意が入る。亀頭部分を手で隠してしまうと、写真映えが良くないとのこと。そういえば事前に言われていたような気もする。私は顔を少し赤らめながら、くびれの部分に持ち替えた。そして彼が、私の右手のメスに自分の右手を重ねる。左手は私の肩へ。添えるだけでいいといわれていたのだが、彼は力強く引き寄せてきた。きっと心細いのだろう。私は左手のぬくもりを少し力をこめて撫でた。ピクリと彼が身じろぎし、彼の先端に、また少し蜜が溢れた。彼は少し恨めしそうな顔で私を見た。私は口の形だけで、ごめんと謝り、さりげなく指で拭き取った。堂々としていれば逆に気づかれないもので、人々の視線は、私達の抱えるメスの先端に向けられているようだった。
「それでは、入刀です。皆様カメラをご用意ください。シャッターチャンスをお見逃しなく!」
介添え役の医師の指示に従い、メスの先を彼の陰茎の付け根に当てる。そこで一旦ポーズがかかり、彼と二人でカメラ目線で笑顔を振りまくよう指示が出された。
「お二人さん、こっちこっち!」
真正面に陣取った彼の親友の声に応えて、笑顔を向ける。パシャパシャとフラッシュがたかれ、正直こちらからは何も見えない状態だったが、私達は声のする度にポーズを決めた。
「では、刃を入れてください」
黒子が囁く。彼がヒュッと息を吸い込むのがわかった。私はまだフラッシュの残像で、よく目が見えていなかったので、こんな状態で始めて大丈夫なのか心配だったが、先ほど挿入してあるカテーテルには、ワイヤーが通してあるので、切り込みすぎることはないと説明を受けていたため、ゆっくりと右手に力をこめた。
彼が小さく呻き声を上げた。麻酔が効いていないのかと私は慌てて力を抜いたが、すぐに彼が囁いた。
「大丈夫だよ…ちょっと感じるだけだ」
それでも彼の顔から汗が噴出しているのがわかる。どうしようかと悩んでいると、再びポーズを取って、少し血の流れる状態で笑顔を見せるよう求められた。遠くの方から子供の声で「ガンバレー」と声援が響き、会場に暖かい笑いが満ちる。彼はなんと、件の子供に向かって手を振るパフォーマンスまで見せた。
そして、今まで脇に控えていた医師が助手となり、素人には難しい部分の処置を行った。下腹部を少し深めに切り開き、ピンク色の組織を根元の部分から切り離す。そして完全に男性器が取り外された瞬間、彼は鋭い叫び声を上げて、切り口から大量の精液を放った。白濁が勢いよく飛び散り、前の方でカメラを抱えていた人々にまで降りかかる。
大きな歓声が上がった。ペニスカットの際に絶頂に達するのは、非常に深い愛の証であり、とても縁起の良いこととされているが、実際にはそこまで至る男性は少ない。
私は思わず彼と唇を合わせて、深い深いキスをした。また沢山のフラッシュがたかれ、はやし立てる口笛などが響いたが、私は全く気にならなかった。彼もそれは同じようで、積極的にキスを返した。やがて息が苦しくなって、どちらからともなく顔を離すと、彼はまわりの人々に向かって叫んだ。
「見てくれ! みんな見てくれ! 僕らの愛の証なんだ! 僕は妻に僕の全てを捧げるんだ!」
拍手が起こった。みんなが立ち上がって私達を祝福してくれた。
私は涙を流していたし、彼もそうだった。二人で顔をくしゃくしゃにしながら、私達はもう一度、塩辛いキスをした。
私達は、切り離されたペニスを、たった今切ったかのように抱えた姿勢でポーズを取り、また、それを二人の手のひらの上に乗せて、顔の近くに掲げてポーズを取り、みんなに写真を撮られた。私が少しいたずら心を起こして、亀頭の先端にキスをすると、彼は再び元の恥ずかしがり屋に戻って、顔を真っ赤にした。
やがて、傷口が縫い合わされ、尿道が睾丸の裏に付け替えられ、立派な既婚男性の姿になると、彼はかしこまった様子で自分の性器を手に取り、私へと差し出した。
「君に、これからの僕の人生を全て捧げます。僕は一生君だけを愛し続けます。僕は君だけのものです。受け取ってください」
私もみっともない声にならないように気を配りながらそれに応えた。
「あなたの覚悟を受け取ります。獣のような欲望ではなく、人間としての理性と感情で、永遠に結ばれましょう。一生あなたを大事にします。ありがとう」
しっかりと、少し縮んでしまった肉片を受け取る。血の匂いと精液の匂い、そして彼の元々の体臭が入り混じっている。充分にその香りを堪能した後、私は医師にそれを手渡した。名残惜しいが、このままでは痛んでしまう。保存のための処置を受けて戻ってくるまでの辛抱だ。
祝電が読まれる間に、彼に最後の処置が行われる。必要のなくなった管を取り外し、彼が歩ける身体に仕立て上げるのだ。いくつか注射が打たれて、彼が少し顔をしかめた。
「大丈夫なの?」
彼はうんうんと、頷いたが、顔色は少し青ざめている。
「会場をでれば強めの痛み止めが打てますからね、それまでの辛抱ですよ」
医師がそう囁いて、彼の下半身にスカート状の服を着せた。タキシードにも少し血が飛んでいるが、この場においては、おめでたいものとされる。
アケミが私達の退場をアナウンスした。
よろよろと立ち上がる彼を脇から支え、拍手の中をゆっくりと進む。彼の親友がビデオを回しながら私達を先導する。私は誰一人目を合わせないまま左右に笑顔を振りまきつつ、会場の扉をくぐった。
扉が閉まると脇から車椅子が魔法のように飛び出して、彼を乗せて控え室へ運んでいった。私もそれを追いかけようとして、係りの人に呼び止められる。
「先に服を着替えましょう」
言われてみれば私自身も血に染まっている。このまま固まってしまっては脱ぐのも一苦労だろう。私は素直に手を引かれて、連れ去られた。
再び彼に会えたときには、彼は清潔なベッドに横になっていた。
「身体が軽くなっちゃった気がするんだ。なんだかスースーして落ち着かないよ」
今の気分を尋ねると、彼は少し茶化したように言った。思ったより元気そうだったので、私は安心して彼の横に腰掛けた。
「…いつ戻ってくるんだっけ」
「何の話?」
彼は少し視線をそらしながら、おずおずと口にした。
「その…僕の…アレ」
私は疲れた頭を揺さぶって、記憶を掘り起こした。
「プランナーの人は二、三日かかるって言ってたハズよ」
彼も一緒に聞いていたはずで、自分で何度も確かめていたはずで、覚えていないわけがなかったが、私はそれについては何も言わなかった。
「どんな風になるのかな」
それは私も気になるところだ。いくつかモデルは見せてもらったが、やはり、実際の形は人それぞれに異なるのだから。
「お義父様のを見せてもらったことはないの?」
私はちょっと嫌がらせのつもりで聞いてみた。案の定、彼は渋い顔をする。
「…あるよ。お袋が昔、『これがあなたのお父さんよ』って箪笥から出してきて」
「感想はどうだったの?」
「そりゃ…びっくりしたさ。そういうことをするってのは聞いてたけど、今まで大人の男のソレなんて見たことなかったし。なんだか形も変だし、でかいし、黒いし…」
薬のせいか、彼は少し興奮状態にあるようで、あとで思い出したら後悔するだろうな、というようなことまで喋っていた。
「親父も、僕と同じ事やったんだよな…尊敬するよ」
いつも彼は自分の父親に対しては少し手厳しい意見が多いので、私は少し微笑みながら彼の言葉を聞いた。
突然、彼が私に抱きついてきて、私の胸に顔をうずめた。私は、奥の方にある点滴の管に気を払いつつ、彼を抱き返す。彼は顔をうずめたまま、くぐもった声で言った。
「…僕も子供がほしいよ」
私達はしばらく子供を作らないことで合意しているはずだったので、私は驚いた。当分の間は新婚気分を味わいたいねと、いつも言っていたからだ。しかし彼の髪を撫でながら、それも悪くないかと思い始めた。ビデオを撮っていた彼の親友と、二人の息子を思い浮かべる。彼にそっくりな息子達。
「…僕の子供を産んで欲しい」
「…いいわね」
計画を練り直さなくちゃいけないわね、と私は思った。受精用の精液採集器も買わなくちゃいけないし、保育園の事前予約も必要だ。そもそも、彼がうまく射精できるように、前立腺マッサージのトレーニングもしなくてはいけない。
もう少しゆっくりできると思ったんだけれど。
でも私にしがみつく彼のぬくもりを感じていると、精液を吹き上げながら男のシンボルを私に捧げた彼の姿を思い起こすと、全てがささいなことに思えてきた。
「…恥ずかしかったよ…」
彼は呟いた。
「そうね…わかるわ…」
ゆっくりと彼の髪を梳く。
「…怖かった」
「…頑張ったわね…偉いわ」
私は子宮の奥に、甘い疼きを感じた。
終
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投稿:2010.01.13更新:2010.01.17
愛は二人の為に
挿絵あり 著者 自称清純派 様 / アクセス 16875 / ♥ 3