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アーカイブから"LIKE FATHER LIKE SON"By: Jack Yount
彼らの父親はアメリカ人だったが、フランス外人部隊で傭兵家業をしていた。彼は50年代の終わりに、インドシナにあったフランス植民地の独立戦争に動員され、60年代の初めに、北ベトナムで”作戦中行方不明”となった。彼はサイゴンに、フランス人の妻と二人の幼い息子を遺していった。この話を私に語ってくれた青年と、彼の二歳年上の兄である。
彼らの母親はすぐにフランスへ戻り、そこで二人の少年を育てた。一家の友人の中に、かつて彼らの父親と同じ隊に所属していた退役兵が数名いた。そして、少年達に彼らの父親の勇敢さと、有名な性器の話を、何度も語って聞かせた。
多くのアメリカ人同様に、彼は幼少時から割礼を受けていた。この為、彼はいつまでもからかわれ続けていた。その連隊は、長い間北アフリカで多くのイスラム教徒の軍と戦ってきた過去があり、包皮に”連隊の魂”的な念を抱いていた。敵の捕虜となった場合に切り落とされてしまうことを知っていたのがその理由だ。彼らの父親は、その包皮の欠落を埋め合わせるために、性器の幹に”白百合”の刺青を彫りつけ、隊の中でよく知られるようになったのである。
少年達は父親にまつわるその話を好んで聞き、兄の方は父親のように傭兵になりたいと思うようになった。もちろん性器の割礼も行ない(当時二人の少年達は割礼をしていなかった)父親の性器と同じような刺青を入れて。
十代のはじめになると、少年達は夏の休みを、若者同士で南仏でのブドウの収穫をしながら過ごすようになり、週末にはマルセイユへヒッチハイクで繰り出した。彼らはマルセイユの海岸地帯を練り歩き、多くの刺青小屋を覗いた。結果的に、刺青を彫られる水夫を何時間も見物していたおかげで、彼らは一人の彫り師と知り合いになった。ついには兄弟の年嵩の方が、性器への白百合の刺青への深い思いをその彫り師へ語り、安値でそれを引き受けることを承知させるに至った。そこで少年は、先に割礼を行っておきたい旨を伝えた。彫り師は、土曜の午後に友人の割礼師を呼んで、兄への割礼をもお膳立てしたそうだ。直前になって兄は、割礼師の腕が良くないかもしれないと怖気づき、そこで彼の若い弟を先に割礼させてどうなるか様子を見てみることにした。こうして、疑うべくもない狡猾な兄のおかげで、うら若き14歳の弟が、マルセイユの刺青小屋で割礼を受ける羽目になったのである。結局、兄の方の割礼と、性器への白百合の刺青を行ったところで金が尽き、彼自身は刺青を入れることが出来なかったのだけれども。話はここで終わるわけではない。
70年代の初め(ベトナム戦争の頃)、兄は彼らの英雄であった父の足跡を追って、糧食と医療品を運ぶフランス解放戦線と共に、北ベトナムへと渡った。彼は元連隊の数名がベトナム人女性と結婚してハノイに残っていることを知っていた。人づてに話を聞き回り、彼はついに、ハノイのある薬屋にたどり着いた。そこにはアルコールを満たした薬ビンの中に、男性性器の一式が保存されていたのだった。それも、割礼され、白百合の刺青が施されたペニスだ。
兄がハノイから最後に送ってきた長い手紙の中で、彼は「父さんを見つけた」と強調していたと、その弟は語った。手紙の中で兄は、そのビンが”家族の宝”であると主張し、彼自身の割礼と刺青の施された性器を披露したにもかかわらず、彼らはそれを譲り渡そうとはしなかったと述べた。そこで彼はビンを盗み出して家へ帰る計画を立てた。彼の所属していたフランス解放戦線は、それからしばらくたって、彼を”行方不明”とした。
彼の弟は私に、兄の手紙が入っていた封筒に一緒に封入されていた一枚の写真を見せた。その写真には、一つではなく二つのビンが写っており、どちらにも男性性器の一式が詰められていた。そしてその両方のペニスが割礼をうけ、特徴的な白百合の刺青を備えていた。
弟である青年は、近いうちにハノイへ行き、両方のビンを取り戻すつもりだと私に言った。彼が私にこの話を語ったとき、彼はちょうど自分の性器に白百合の刺青を入れたところだったそうだ。それから後、私のところに彼からの連絡はない。私は、彼がその二つのビンを取り戻すことが出来たのか、それとも、ハノイのどこかの薬屋に今では三つのビンが飾られているのか、遠く思いをはせるのである。
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投稿:2010.10.05
子もまた父のごとく By: Jack Yount
著者 訳:自称清純派 様 / アクセス 11531 / ♥ 19