父さんの様子が最近おかしい。ここのところずっと浮かない顔をしている。変だ。もしかしてあのクソ女が、父さんの食事に毒でも混ぜてるんじゃないかと、オレは思った。
母さんが生きてた頃の父さんはこんなんじゃなかった。休みの日には皆で河原へ遊びに行って、母さんにうまいうまいと褒められながら二人でキャッチボールをした。一緒に風呂に入って、声を合わせて歌を歌った。父さんはいつもニコニコ笑っていたし、健康そうな肌の色をしていた。
おかしくなってきたのは母さんが死んじゃってからだ。オレたちは、ちょっと寒くなった家の中にポツンと取り残された。オレも昼間、母さんのいない台所を見てちょっと泣いたけれど、父さんの方がもっと悲しんでるのはわかってたから、オレはいつも帰ってきた父さんを慰めることにしていた。オレには母さんの代わりは出来なかったけど、夜中にベッドで泣いてる父さんのところへ潜りこんで、二人で寄り添い合って寝た。
そんなある日、父さんが酒を飲んで酔っ払って帰ってきた。父さんは酒には弱いから、いつも量は控えてるんだけど、その日はだいぶ飲んできたようだった。それは、まだいい。母さんが死んですぐのときも沢山飲んで帰ってきたことはあった。大人の男には、飲んで忘れたいことがあるってのもわかってるつもりだ。でも、ワイシャツにべったりとついたけばけばしい口紅の跡には眉をひそめた。
「なにこれ」父さんに直接聞くと、バツの悪そうな顔をして言い訳をした。「お店の女の子に無理矢理つけられたんだよ」安物の香水の匂いで鼻が曲がりそうだった。オレがずっと父さんを遠巻きに睨んでいるので、父さんは「わかった、あのお店にはもう絶対に行かないよ」と約束した。
でも、その約束は守られなかった。父さんはうまく隠したつもりかもしれないが、品のない安物の香水の匂いは、父さんが店に行くたびにスーツに染み付いていた。最初はおどおどとオレの様子をうかがっていた父さんも、やがて隠そうともしなくなった。
あのクソ女がついにオレたちの家に上がりこんできたのは一年前だ。父さんはひどかった。事前に何の相談もなかった。突然オレの前に厚化粧で質の悪い香水をどっさりつけた頭の悪そうな女をつれてきて、引き合わせただけだ。「こいつが俺の息子」父さんはオレの目を見ようともしなかった。クソ女の方ばかり見ていた。「で、この人が俺の新しい奥さん」オレは裏切られた気持ちになった。
本当はあんたバカになったんじゃないのか、と言いたかった。前は母さんだったのに、なんでいきなりここまで女のレベルを下げるんだ、趣味が悪すぎると言いたかった。でも、男やもめが独り身で暮らす辛さはオレにも充分理解できたから、結婚したい人がいるんだけど、連れて来てもいいかと、父さんがちゃんと聞いてくれてたら、オレに話してくれてたら、オレはきっと「いいよ」と答えてた。でも父さんは、オレに何も言わずに、一人で全部決めてしまった。決まってから、報告だけして、それ以上オレと話をしようとはしてくれなかった。
クソ女は無理矢理顔を作ってオレに笑いかけてきた。正直に嫌いだって言えよ、と言いたくなるくらいウソ臭い笑顔だった。でもオレは我慢した。ここでオレが失礼な真似をしたら父さんの顔をつぶすことになるから。
ミキがブラッと部屋にやってきた。
「ねぇママ、おなかすいちゃった。何かおやつないの」ミキは母親にべったりすがった。
「あんまりお菓子ばっかり食べるとまたご飯が食べられなくなるわよ」なんていいながら結局あのクソ女は食べさせる。大甘だ。そんなことするから不細工なデブになるんだ。横目で睨むと、あのガキは鼻で笑った。
「なによ、あんたも欲しいの?」
いらねーよ、そんなクソマズい甘ったるい女向けの菓子なんか。心の中で思いつつ相手にしないでいると、このガキは調子に乗ってほざいた。
「ま、あげないけど。フフン。あんた昨日の残飯がお似合いだし」
「なんだとテメエ!」
オレが礼儀を教えてやろうとちょっと怒鳴ると、クソ女が悲鳴を上げた。
「ちょっとやめてよ!」
元はといえばお前の躾がなってないから悪いんじゃねえかよ。騒ぎを聞きつけて父さんもドタドタとやってくる。
「おいおいどうした、仲良くしろよお前ら」
ハン、笑わせてくれるね。
父さんのベッドから追い出されたのは、まあ、仕方ない。もともとオレが忍び込んでいただけだったんだから。元々のオレの部屋がクソ女の荷物置き場にされて、階段下の日当たりの悪い部屋においやられたのも、百歩譲って許そう。なんで、あの女の連れ子がオレよりでかい顔してオレより良い部屋貰ってるんだ。「仕方ないだろう。お前の方が大きいんだから、ちょっと我慢しろ」と、父さんは言うが、我慢にも程がある。
あのクソガキの第一声はこれだ。「やあだママ、何なのこの家、臭いわ。こんなところに住んだらアタシまで変な匂いついちゃう」これで仲良くやっていけると思うか?
嫌だったら、来るんじゃねえよ!
「もう嫌、耐えられないわ。今まで我慢してきたけど、もう沢山」
クソ女が頭の悪いことをほざいた。はぁ? オレのセリフだっつの。
「待ってくれよ。こいつは本当はそんな悪いヤツじゃないんだよ」
父さんがクソ女の味方することは予想はしていたが、最初から何があったのかを知りもしないクセにオレが悪かったと決め付けたことにオレは傷ついた。
「そんなの聞き飽きたわよ。アタシはもう嫌。凶暴な怒鳴り声におびえて暮らすのも、いやらしい目つきでじろじろ眺められるのも、絶対に嫌。アタシやミキが乱暴されるんじゃないかってハラハラしながら暮らしたくなんかないわ」
「誰がテメエみたいなクソババアに色目なんか使うか!」
「おい、タロー! やめろ!」
オレは父さんに押さえ込まれた。クソババアとクソガキが黄色い声で騒ぐ。
「ほら見なさいよ、躾なんかまるっきり出来てない大バカじゃないのよ」
「タロー、頼むよ。おとなしくしてくれよ」
父さんはオレを抱きしめて言った。父さんは、ずるい。ぜったい、ずるい。
黙っていればいいのに、誰もお前の話なんか聞きたいなんて思ってないのにクソ女は余計な口を叩く。
「あなた、今日こそは許さないわ。絶対に去勢してもらいます」
目玉が飛び出るくらいに驚いた。何を言ってるんだこのバカは。オレを去勢する? なんでオレがそんな目にあわなきゃいけねえんだよ。ふざけんな。そもそも、そんなもん、お前が決めることじゃねえよ。
「待ってくれ。それだけは勘弁してやってくれ!」
「もう何日も前からそればっかりじゃないの。もうダメよ。去勢するかこの家から追い出すか、二つに一つよ」
「お前が出て行けよ!」
ごさいのクセにデケエツラしてんじゃねぇ! オレはクソ女に飛びかかろうとした。父さんがオレの首を掴んで殴りつける。オレは暴れた。父さんがこんなバカ女の言いなりになってるのにムカついた。オレまでこのクソ女のいいようにされるのが悔しかった。あんなに優しかった父さんが、オレのことなんかちっとも構ってくれなくなったのが寂しかった。
「イテッ!」
気がついたら、父さんの腕に強く噛み付いていた。口の中に血の味が広がる。
オレ達は離れた。気まずい沈黙が降りる。
父さんは信じていたものに裏切られたみたいな顔をしていた。
それは、オレの方だ。
父さんは、ずるい。
クソ女はヒステリックにわめき続けた。
「あなたが甘やかしてばかりいるから、こんなに聞き分けなく育ったのよ。これ以上大きな問題を起こす前に処分するべきだわ」
「もう、わかった! 明日病院へ連れて行って去勢してもらってくる! だから黙っててくれ!」
「絶対よ。あなたが自分で言ったこと、アタシ聞きましたからね」
クソ女は足音高く出て行った。扉が閉まる直前に、ミキが呟く。
「いい気味」
一晩、暗い部屋に閉じ込められた。オレは部屋の隅にうずくまって寝た。口の端にまだ血の味が残っていた。家族に暴力をふるうような奴にはなりたくないと、昔のオレは思っていた。そんなこと、考えられなかった。
次の日、父さんは会社を休んでオレと一緒に病院へ行った。ハ、久しぶりの二人の遠出は、入院旅行と来たもんだ。車の後部座席で涙が出た。助手席は母さんの場所だったのに、洗濯物の良い香りがしていたのに、今ではあのクソ女の安い香水と、ミキの食ってる菓子の甘ったるい匂いしかしなくなっている。しかも、今ようやくそのことに気づくだなんて。
後ろで黙りこくっているオレに、父さんは「ごめんよ」と謝った。何度も謝った。でも、オレは返事をしなかった。
「ええっ、タロー君を去勢!? そんな、もったいない!」
オレが生まれたときからの付き合いのセンセイが、悲鳴を上げた。
「どうも女房と折り合いが悪いみたいで…」
「でもそんな…こんな頭が良くておとなしい、いい子なのに…」
「家の中では暴れるようになっちまったんですよ。今までは絶対にそんなことなかったのに…」
オレは悪くない。オレは悪くない。そう言いたいけど、言葉が出てこなかった。うなだれるオレを、古なじみの看護婦さんが抱きしめた。
「お母さんがいなくなって寂しいのよね、タローちゃんは」
『タローちゃん』母さんは機嫌のいいとき、いつもオレをそう呼んでいた。子ども扱いされるみたいでちょっと不満だったけど、今のオレはそれがどんなに贅沢な悩みか知ってしまっていた。
もう我慢できなかった。看護婦さんの胸に顔をうずめてワアワア泣いた。看護婦さんの胸の中は、ちょっと母さんに似た匂いがして、余計に悲しくなった。
「中島さん、タロー君を私に預けていただけませんか?」
センセイが言った。そっとオレの黒髪を撫でる。
「これだけ優秀な子です。顔立ちだってハンサムだ。欲しがってくれる人は、いくらでも見つかると思うんです」
ビクリと身体が震えた。思わず父さんと顔を合わせる。父さんは唇をかみ締めていた。
「どうしても手放したくないということでしたら、去勢手術も引き受けさせていただきますが…少し考えていただけませんでしょうか」
「やはり、うちには…いない方が、この子のためなんでしょうか」
センセイは目を伏せた。
「大切にしてくれる人達と一緒にいれば、タロー君はきっとどこにいても幸せになれると思いますよ」
答えになっていないようで、なっているようで。少し間を置いて父さんは答えた。
「少し時間を下さい」
本当は結論はもう出ているんじゃないかという気がした。
オレはきっと捨てられる。そんな気がした。
川原で二人で座り込み、水の流れるのを見ていた。
「ボール持ってくりゃよかったな」
父さんは言った。手術になったら運動は出来ないだろうと思っていたから、ボールは置いてきたのだと、謝った。オレは何も言わなかった。母さんが生きていた頃からのオレのお気に入りのボールは、古くて汚いからと、この前捨てられてしまっていた。あのボールは、もうない。父さんはそれも知らない。なんだか虚しくなった。
子供の声がして、コロコロと足元にゴムボールが転がってきた。幼稚園児くらいの子供がパタパタと追いかけてくる。オレはボールを拾って渡してやった。
「ありがとー」
ボウズは恥ずかしそうにはにかんで笑った。オレも愛想よく笑ってやった。それを見ていた父さんが、後ろから声をかけた。
「なあ、ボク。おじさん達にちょっとそのボール貸してくれないかな」
ボウズは一瞬きょとんとした目をしたが、オレと父さんの顔を見比べて、「いいよ」と気前よく渡してくれた。
そいつで、オレ達はキャッチボールをした。途中で、ボウズの友達も集まってきて、みんなではしゃいだ。
父さんとキャッチボールをするのは、きっとこれが最後だと思った。だから、思う存分楽しもうと、オレは思った。
日が暮れる頃になって、子供達が帰っていくと、魔法が解けたみたいになった。夕焼けに染まった川原で、オレ達は黙りこくって突っ立っていた。
「家に帰ろうか」
父さんが言った。オレは答えなかった。あの家はもう、オレの家じゃないよ。と、言いそうになるのを、ぐっとこらえた。
家に帰ると、予想したとおり、クソ女が近所中に響き渡る声でわめき散らした。オレは無視を決め込んだ。どうせ、この家を出て行く身だ。終わりがあると思えば、耐えられないことじゃない。
「貰ってくれる人を探してもらうことになったんだ。それまでの辛抱だよ。だからもういいだろう」
「いいわけないでしょ! この家に入るなら、去勢してからよ。それまでは絶対に家には上げないわ。人に渡すなら去勢してからにすればいいじゃない」
「タマがついてる方が高く売れるんだよ!」
口にした父さんの方が傷ついたような顔をした。それでも効果はあったらしい。クソ女はぷい、とオレ達を置いて寝室へ入った。
その日、なんと父さんは階段下のオレの部屋で一緒に寝た。ベッドは父さんの身体のサイズに全然あわなくて、狭くて窮屈だったけれど、その代わり、とても暖かかった。
父さんはセンセイに連絡したらしかった。センセイも準備していたようで、週末には里親候補に紹介してくれる手筈が整った。あっけないもんだ。
一週間、オレはその里親の家に泊まって相性を見る。で、上手くやれるようなら一旦父さんの家に戻って、最後の一夜を父さんと過ごした後、相手方に貰われていく。
里親候補のオッチャンは、なにやら豪快なやたら声のでかい人だった。
「おお、おお! えらいオットコマエな坊主やないかい! ほんまにウチでもろうてええんかいな!」
どっしりとした腹を揺すりながら、どすどすと足音を立てて近づいてくる。
「賢そうな目ェしとるがな。おとなしゅうチョコンと座りよってからに。調子どないや?」
なんとも答えようがないので肩をすくめると、ガシガシと頭をなでられた。
「恥ずかしがらんでもええがな。オッチャンと坊主の仲やろ? なんやタローはシャイなんか。シャイでピュアーなヤングボーイか」
思わず口元が綻んだ。もう笑うしかなかった。
「せやせや、笑うとったほうがええ。笑う角には福来るちゅうてな、笑うとったらそれだけで、ぎょうさんええこと起こんねん。まあでも、これは二人だけのナイショやで。タローにだけ特別や」
訛りが強い上に早口で、ときどきなにを言っているのかもわからなくなることがあったが、それでもいい人であることだけは確かなようだ。休むことなくしゃべり続け、ジョークを連発して父さんたちを笑わせていた。
センセイがしばらく父さんをちらちらと見ていたが、父さんはいつにも増して口数が少なく、また、オッチャンの勢いに押されているように見えた。このままでは話が進まないと思ったのか、センセイはどうにかオッチャンの流れるような早口に割り込んた。
「それで、お金の事なんですが…」
「せやった、せやった! 銭の話はキッチリしとかんといかん! 別に誤魔化そう思うとった訳やないで! そないなセコいことはいくらなんでもせんよってに」
「タロー君はもうほとんど大人になってしまってますが、血筋もよく躾も行き届いているので、一般的には…」
「あの…!」
父さんがセンセイの言葉をさえぎった。その場にいた全員が驚いたように父さんを見つめる。さえぎったものの続きはなかなか出てこずに、父さんは搾り出すようにして言葉を繋げた。
「お金は…いただきません」
「中島さん?」
「俺の…息子なんで…金で売ったと思いたくないんです。だから…」
最後のほうは涙声になっていた。
さすがのオッチャンもここはジョークで誤魔化すべき場面でないと思ったのか、父さんの肩を叩いて言った。
「ようわかった。あんたの息子はワシが責任持って預こうたる。早い独り立ちやと思うとき。子離れはつらいかもしらんけど、いつでも会いに来たらええから」
父さんが泣いているのは、母さんが死んだとき以来だ。オレは自分も死んだような気持ちになった。
オッチャンの家は広かった。広かったけど狭かった。いろんな物が詰め込まれていて、いろんな匂いが充満していた。オレより年の若い子供達が騒ぐ声が中から聞こえた。
「こらー! ゲンタ! ハチベエ! 喧嘩すな言うとるやろが!」
オッチャンが家の外から大声で叫ぶと、急に声がやんで静かになった。家の中に入ると、これもまた恰幅の良いオバサンが現れて、オレを見るなり目を丸くした。
「おい、タロー。これがウチのオカアチャンや。おまんまくれる人やさかいに、大事にするんやで」
「なんや、アンタ。また新しい子拾うてきたんかいな」
「拾うたて人聞きの悪い。きちんと書面で譲り受けてきたんや。血統書つきの優秀な血筋やで。貴族やな。プリンスやプリンス。見てみい、この男前な顔」
「ちょっと、ちょっと、オトウチャン。そんなお金どこにあるんよ」
「ハハン。聞いて驚け! ロハや、ロハ。こんなええのが只で手に入ることなんか普通あらへんで!」
父さんが金はいらないと言い出さなかったらこの人はお金を払っているはずだったのだが、初めての家庭の事情に口を挟むことも出来ず、オレは黙っているしかなかった。
「そんなこと言うたかて、育てるんかてお金かかるんやのに…」
「かーっ! これやから女は。見とってみい。こいつのタネが欲しい、いう奴はなんぼでもおるんやで。一発三万でも婿に欲しがるウチがいくらでも寄って来よるわ」
下品な物言いにオカアチャンは眉をひそめる。ここでもあまりオレが歓迎されていないのはわかったが、このオバサンに怒る気にはなれなかった。だって、父さんがクソ女を勝手に連れてきたときと、状況が良く似ていたからだ。父親っていうのはどこの家でも勝手なことばかりするらしい。
「とにかく、タローはもうウチの息子や! 捨てて来いとは言わせへんで!」
「そこまで言いはしませんけどもや、もっと後先考えてもらわな、困ります」
「オカアチャン、そんなんなんぼ言うても無駄やで」
オバサンの後ろから生意気そうな顔をした子供が現れた。西洋風の見た目ではあるが、話す言葉はこの土地のものだ。ハーフだろうか、とオレは思った。見てくれだけではなんともいえないが。
その後ろに付きまとうように、更に小さいチビがいる。兄貴分の足元に小さく蹴りをかましては、反撃を恐れて逃げる、ということを繰り返している。
「ええかげんにせえよコラ!」
兄貴分が怒鳴り声を上げ、チビは泣きながらオレの横をドタドタと駆け抜けた。その後を一回り大きい体が追いかける。
「コラ! お前らはいつもいつも暴れ回りよって! おとなしゅうせんかい!」
オッチャンの怒鳴り声もどこ吹く風だ。グルグルと走り回って、チビは再びオレの足元を走り抜けようとした。思わずチビの首ねっこを掴んで捕まえてしまう。
「よっしゃー!」
勝ち誇ったように兄貴分が飛びかかってきたので、そちらも体を割り込ませて押しとめる。二人とも少しの間もがいていたが、オレがちょっと喉の奥から低くうなり声をあげてにらみを聞かせると、震え上がって大人しくなった。
オレはチビをひょいとつまんでオッチャンに手渡した。
「いやあ、いっぺんに静かになってしもうた。えらい頭のええ子なんやねえ」
「せやろ、せやろ、うちのアホガキどもとは育ちが違うんや」
オッチャンは自分が褒められたように上機嫌だ。が、子供達は不服そうだ。
「アホとちゃうわい!」
「ちゃうわい!」
二人がまたわいわいと騒いでいると、奥のほうからかなりの年寄りのジイさんが、よろよろとあらわれて、一声怒鳴った。
「やかましい!」
「ほらほら、シロさんが起きてしもうたやないの」
オッチャンとオバサンがそれぞれ子供達の口をふさぐ。
オレはシロさんと呼ばれたジイさんに挨拶した。一応、最も立場が上のように見えるので。ジイさんは目をショボショボさせながらオレを見上げる。
「なんや新入りか。トラも、次から次へとこりん奴じゃのう…」
トラと呼ばれたオッチャンがオレにジイさんの紹介をする。
「シロさんはもともとはうちの家族やないんやけどな、いつのまにか家に住み着いてしもうて、ここのヌシみたいな顔しとるんや」
それでいいのか、と驚くオレをよそに、オッチャンはカラカラと笑う。
「まあ、年寄りはいたわらなアカンからな」
バタバタと忙しい家だった。ことあるごとにチビたちが喧嘩し、客が押しかけ、オッチャンが新入りのオレを見せびらかす。そのたびに、人をバカにしているんじゃないかというような単純な芸をやらされる。そして、オッチャンたちは賢い賢いと大げさに騒ぐ。
…でも、みんな楽しそうに笑っていた。
何がそんなに楽しいのか、オレにはさっぱりだったけれど、笑ってみたら何が楽しいのかわかるかもしれないと、ちょっと思った。だから、少しだけこっそり笑ってみた。
そしたら、なんだか胸の奥にあったかいものが広がってきた。だから、大笑いしているオッチャンたちの胸の中は、暑いくらい燃えているのかもしれないと思った。笑っていたらそれだけで、いいことがたくさんある…本当なのかもしれない。
もっと早くに教えてもらいたかったなあ。
大騒ぎの部屋の中を見ながら、オレは延々と単純な芸をやり続けた。何も考えずに笑ってさえいれば、もっと幸せに生きていけるかもしれないと。
一週間ぶりに会った父さんは、さらに顔色が悪くなっていた。腕に巻いた包帯も痛々しく、血の匂いがほのかに漂う。オッチャンのペースにつられて脳天気になりかかっていた気分が、グッと落ち込んだ。
今までずっと一緒に二人で住んでいたはずなのに、まるで始めて会ったみたいに恐る恐る父さんが手を伸ばしてきた。オレも大人しくその手を取ったが、自分でも他人行儀な態度だと思った。
家に向かう途中も、ずっと無言のままだった。車の中で父さんも、何かを言わなきゃとずっと考えていたようだったけど、結局何も言えないまま到着してしまった。
久しぶりの家は、とても嫌な匂いがしていた。入るのをためらうくらいに空気が安物の香水で汚れていた。中に入ってもオレの部屋はすでに片付けられてなくなっていて、居間の隅っこに鎖で縛られることになった。ここはもう、オレの家じゃない。わかりきっていたことなのに、オレはどうして戻ってきたんだろう。父さんはどうして、こんなところにオレを連れてきたんだろう。
クソ女がだらしない格好で出てきて、これみよがしに顔をしかめた。ミキがその後から続いて入ってきて、オレを見て騒ぐ。
「なんでコイツがいるのよぅ。部屋がクサいじゃないの」
「ごめんね。ミキちゃん。ちょっとだけ我慢して頂戴。日曜には追い出すから」
父さんはその間、ずっとオレの前に黙って座り込んでいた。それでいい。今更どんな言葉を重ねても、誰の気分もよくなりはしない。
父さんは、やがてクソ女に呼ばれて自分の寝室へと戻っていった。オレもそっぽを向いたまま見送ろうともしなかった。オレは何も考えないことにした。最後の夜はもっと思い出に残すべきことがあるんじゃないかと、少し心のどこかで期待していた自分がバカみたいだった。自分をあざ笑う余裕さえあった。
こんな不快な匂いの中で、眠れるわけがなかった。だからオレは眠ろうともしなかった。オッチャンの家についたら、少し眠くなるかもしれない。あの騒がしい家の中も落ち着いて眠れるとは言いがたいが、シロさんの布団の隣の場所をちょっと貸してもらえれば、チビたち以外はちょっと気を使ってくれるだろう。
そんなことを考えているオレの耳に声が聞こえた。最初は聞こうともしていなかったので、気に止めなかったが、やがてそれが悲鳴であることに気づくと、急に内容が耳に入ってきた。
「やめてくれ! タローの前でだけはやめてくれ!」
「おだまり! アタシに口答えするんじゃないよ!」
寝室の扉がバンと開かれて、クソ女が父さんの髪を掴んで引きずって出てきた。そして、居間の真ん中に、父さんを蹴り飛ばす。
何事かと目を丸くしているオレの前に父さんが崩れ落ちた。情けない声を上げながら父さんが懇願する。
「やめてくれ! 頼む! タローが、タローが見てる!」
「見せてやればいいじゃないのよ、自分がどんなに無様なクズか、ちゃんと教えてやりなさいよ」
二人とも素っ裸で、嫌な汗にまみれていた。クソ女が手に持っていたムチを振る。そいつが乾いた音を立てて肌を打ち、父さんが悲鳴を上げて、背中をそらした。そして…そして…
なんであんたが去勢されてるんだ?
父さんの股間にはチンチンがついてなかった。去勢といえばタマを抜くことだとオレは思っていたが、父さんはタマはついているみたいだったけど、股間にはちっさなテープが貼り付けられているだけで、あのバカみたいな先っぽが丸出しのチンチンが根元からバッサリちょんぎられていた。
昔、一緒に風呂に入っていた頃は確かについていたのに、今はもう跡形もない。いつ無くなったのかオレにはわからないけれど、そんな昔のわけがない。いくらなんでも気づくはずだ。だから、もし切られたとしたら、オレのいなかったこの一週間で…
父さんは手で股間を隠そうとした。半泣きの状態で、鼻水をたらしながら、クソ女のムチから逃げようとしている。
「隠すんじゃないよ! 今更上品ぶったってムダさ! かわいい息子に言ってやりな! お前のタマを守るために身代わりになったんだよってね!」
ヒイヒイと泣く父さんを、クソ女はビシバシと鞭打った。
昔のオレなら、その言葉を聞いて、父さんがそんな仕打ちを受けているのを見たら、たまらず鎖を引きちぎってでも飛び掛って、あのクソ女を殺していただろう。
でもオレは気づいてしまった。ああ、オレは知ってしまった。
父さんの股ぐらの切り株からタラタラ流れている汁に。ムチで殴られるたびに、汗からにじみ出る興奮の匂いに。
そうだ、この人は、喜んでいるんだ。チンチン切られて、ムチで殴られるのが気持ちいいんだ。
裸の尻にきつい一発が飛んで、父さんは大きくのけぞった。同時に白いどろっとした塊が、オレの目の前の床にべちゃっと落ちた。つんとすっぱい匂いがする。
「やめてくれ! お願いだ!」
「あんたはいつも口ばっかりじゃないの! その小さいチンポ切り落とされるときだって、イヤイヤいいながら最後まで汚い汁ずっと垂れ流してたでしょ! ごたくは聞き飽きたよ!」
クソ女が父さんのキンタマを踏みつけた。ぶびゅる、と搾り出されるようにもれ出た液がクソ女の足に引っかかる。
「ほら、汚れたじゃないの! 何してくれるのよ! はやく始末しなさい!」
クソ女はつま先を父さんの顔に押し当てた。父さんは少しためらうように横目でオレの顔を見て、それからクソ女の顔を見て、そろそろとクソ女の足に舌を這わせて、自分の汁をしゃぶり始めた。
チュパチュパという音と、時折、うう、と混じるうめき声が、いろんな匂いがごたまぜになった部屋の中に響き渡った。
そっか、この人はそういうヤツだったんだな。オレは、父さんが、ヤモメで仕方ないからこのクソ女とくっついたんだと思ってた。ほんとうは、母さんみたいな女が好みだったのに、そんな素敵な人はめったにいなくて、このクソ女を選ぶしかなかった可哀想な男なんだと思ってた。
でも、そうじゃない。父さんは、この女がいいんだ。クソ女だから、いいんだ。バカにされて、踏みつけにされて、殴られるのが、楽しいんだ。
その瞬間、オレの中にあった何かが音を立てて壊れた。母さんが死んでからずっと、心の中に大事にしまっていた未来の風景だ。
生きてるものはみんないつか死ぬ。母さんも父さんもこのオレも。だからいつか天国で、オレ達三人が昔みたいにまた一緒に暮らせる日がきっと来るんだと、オレは信じていた。それだけを支えに今まで生きてきた。
だけどオレは気づいてしまった。そんな日は永遠にやってこないことを。オレ達がみんな死んだ後でも、父さんはきっと、このクソ女についていくんだ。
あの時間はもう二度と帰ってこない。
天国は、ない。
朝になって、オレは霧が晴れたみたいに、迷いが吹っ切れているのを感じた。
父さんは、寝室から出てきた後、オレを見て気まずそうな顔をした。そして、そっと呟く。
「ごめんな、タロー」
べつにいいさ。ヘンな趣味を持っているのは父さんが悪いわけじゃない。自分でも意外なほど、オレは落ち着いていた。父さんがオレを車に乗せるときも、オレは素直に従った。そんなオレを見て、父さんの方がいつまでもグズグズと出発を引き伸ばしている。
オレは父さんに声をかけて、早く行こうと急かした。みんな待ってる。
センセイも、かんごふさんも、オッチャンも、オカアチャンも、ゲンタも、ハチベエも、シロさんも、みんな、オレを待ってる。だから、急いでいかなきゃ。
病院へ行くと、センセイがオレ達を控え室に通してくれた。そこに、オッチャンが立っていた。オレをあの広くて狭くて賑やかな家に、大事な家族の一員として連れて帰るために待っている。
きっとオレはその家で、死ぬまで幸せに暮らすことができるだろう。そうだ。ときどき喧嘩もして、いたずらもして、恋もして、子供も作って…。
オレは覚悟を決めていた。
オッチャンがニコニコと手を振っている。一つ深呼吸をした。
ごめんな、オッチャン。
オレはオッチャンにうなり声を上げて飛びかかった。
必死に頭を下げる父さんとセンセイに、オッチャンは苦笑いしながら言った。
「振られてしもたらしゃーないですわ。あれだけ頭のええ子や。自分で父ちゃんの家に残るて決めたんやろう。ワシかて、男がいったん心に決めたことを無理やり曲げさすような無粋なことはせんですよってに。大事にしたってくださいや。あんた幸せもんでっせ」
オッチャンが帰った後、態度をがらりと変えて機嫌よく座り込んでいるオレを、父さんもセンセイも呆れたように見ていた。
「ここまであからさまに『わざとやりました』と主張されると叱る気にもなりませんね」
父さんがオレの頭を撫でる。
「なんであんなことしたんだ、お前は」
オレは答えなかった。でも答える必要も無いだろう?
天国は無い。オレと父さんと母さんと。三人で暮らせる日は二度と帰ってこない。
だから。
だからオレは、死んだら母さんのところへ行く。そして父さんの代わりに、母さんを守って二人で暮らす。
だからそれまでは、父さんのそばにいてやることにした。いつかどちらかが死ぬ日まで。
「バカだなあ、お前。あの人のところに行かなかったら、お前のタマ取られちゃうんだぞ」
オレは脚を開いてふんぞり返った。好きにすればいいさ。どうしてもガキが欲しいわけじゃないし、取るのはクソ女じゃなくてオレのセンセイだ。
父さんは溜息をつきながら余計なことを呟く。
「お前も変な趣味に目覚めちまったんじゃないだろうな…痛ァッ!」
父さんはケツを押さえて悲鳴を上げた。そこは断じて勘違いされちゃ困る。あんたと一緒にするな。一発睨みつけておいた。
「わかった、悪かったよ」
わかればいい。オレが鼻息を荒くして目をそらすと、父さんは突然泣き出した。
「ありがとう、タロー。…一緒に家へ帰ろう」
オレは父さんの顔にキスしてやった。ずいぶん久しぶりの事だ。涙でしょっぱいのにくわえて、なんだか懐かしい匂いと味がした。
オムツみたいな包帯を巻いて帰ってきたオレを見て、クソ女はまたキャンキャン鳴きわめいたが、オレがバカみたいなにやけ顔をして、尻尾を振る勢いで愛想振りまいたおかげで、毒気を抜かれたような顔つきになった。
これには父さんも驚いたが、抜け目なく去勢の効果だとアピールした。クソ女は、半信半疑だったが、実際のところ、オレにそんな演技ができるほどの知恵があるとは思っていなかったので、数日後には、乱暴者のバカが、ただのバカになったと信じたようだ。
オレは、嫌いな相手の前でも、我慢することを学んだ。
みんな、いつかは死ぬ。そんなに遠い未来じゃ、ない。
「なあなあ、ミキ。オレいいもの見つけたんだ」
「馴れ馴れしく呼ぶんじゃないわよ、うっとうしい」
「うーん、ごめんよ。でも見て欲しいんだよぅ」
オレはアホ面さげて地団太を踏んだ。ミキが顔をしかめる。
「どうせ下らないものでしょ」
「母ちゃんのなんだよ。こないだ落としたーって言ってたあのピア…おっとと、見せるまで内緒なんだったっけ。あのピアスじゃないけどいいものなんだぜ」
「…あんたと話してると、バカがうつりそうな気がするわ」
しかし、母親の無くし物を見つけたとあっては見過ごすわけにもいかなかったようだ。肥満の尻をブリブリ振りながら、のたのたと後を付いてくる。
オレは河原まで鼻歌を歌いながらゴキゲンで歩いた。
「ちょっと、どこまで行くのよ。あんたみたいな田舎者と違って女の足はか弱いのよ」
「ここでいいんだ、到着だよ」
オレは水辺で立ち止まった。キラキラと水面が光ってきれいだ。葉っぱとかゴミとか、いろんなものが流れている。さかなもいるかな。いないかな。いたらいいな。
「それで、どこにママのピアスがあるって?」
「ピアスじゃないって言ったろ?」
「ハイハイ、それでピアスはどこなのよ」
オレはミキに一歩近づいた。
「なによ」
夕方、父さんは帰ってきてテレビを見る。オレも足元の床にゴロゴロ寝そべって一緒に見ていた。
「ねえ、あんたミキ見なかった?」
クソ女が父さんに問いかける。手にはまた例の菓子の皿だ。
「いないの? 外に遊びにいったんじゃない?」
「いつもこの時間になったら、帰ってくるハズなのよ」
父さんは首をかしげた。
「見てないなぁ」
クソ女は皿を持って外へ出て行く。
「ミキー、ごはんよー」
夕暮れの町に、調子っぱずれの声が響く。父さんはオレの背中をなでながら聞いた。
「…タロー、お前ミキちゃん知らないか?」
「知らなーい」
オレはテレビの画面を見つめたまま興味なさげに答えた。
終
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投稿:2011.03.18更新:2011.04.01
父さんとオレとクソ女
挿絵あり 著者 自称清純派 様 / アクセス 13819 / ♥ 1