僕は父さんのことは嫌いじゃないけど、どうしても一つだけ許せないことがある。
それは趣味が悪いことだ。
センスがない。集めてくるガラクタの数々も、気持ち悪いデザインのものばかり。しかも大抵下品だ。オセアニアのウンポロ族のペニスケースとか。
部族の名前からしてどうしようもないシロモノだが、そこが傑作だと言って父さんは非常にお気に入りだ。玄関の正面に飾ってある。
母さんが出て行ったのも無理はない。むしろ僕も一緒に連れて行って欲しかった。自分だけ逃げるのはずるいと思う。止める人がいなくなって前よりもっと好き勝手しているくらいだから。
『四拾八手絵巻絨毯』なんて、どこで手に入れてくるんだろう。買う父さんもバカだけど、作る職人もそれ以上にバカだ。僕は始末させる目的でわざときわどい部分にコーヒーをひっくり返したけど、父さんは「モザイクがかかったから、人前に出せる」と客間に敷いた。死にたい。
今回のお土産と言う名のゴミは、アフリカのどこやらの部族の去勢人形だそうだ。木彫りのようだが、年季の入ったくすんだペイントと、どこを見つめているのかわからない虚ろな眼が、実に禍々しい。
どうしてこれをニコニコと僕に手渡す父さんの笑顔は、こんなに爽やかなのだろう。どうして、僕の方が間違っているような気分に、させられるのだろう。
枕元に置くといいぞ、と、父さんはウシの玉袋で作った電気スタンドの隣を指差したので、僕は反対側の端に置いた。寝相が悪くて、うっかり奥のゴミ箱へ蹴り飛ばせるかもしれない。
「わからないかなあ、この隠れたシンクロが」と、父さんは首を振る。
わからないフリをしているのをわかってほしい。っていうか隠れてないから。切り取った玉袋の隣に去勢人形でしょ。あからさまだから。
今日も父さんは上機嫌で出かけていく。僕は卑猥なゴミの中に取り残される。
学校へ行っているときだけが心落ち着く時間だ。ここの世界のビジュアルはまともだ。頬を染めながら、女性器の名称をボソリと呟く野郎連中が可愛らしくさえある。
健全にマスをかけ青少年。そう声をかけたくなるのを堪えてポンと肩を叩き、僕もエロに興味があって仕方がないフリをするのだ。
家に帰ると、今日は一段とおぞましいオーラが僕を出迎えた。
新入りの去勢人形のせいだろうか。どこを見ているのか判らないが、逆にどの向きにしても、こちらを視界に入れてくるように感じる。
放物線を描くように気持ちが萎えたので、不細工な人形をひっくり返して後ろを向かせた。とりたてて何をする気にもなれないので、僕は宿題を済ませることにする。出来るならこの家からは早く出て行きたい。
無心に数学の問題を解いていると、妙なメロディが頭の中を回り始めた。滑稽な調子で脈絡なく拍の変わる変な旋律だ。どこで聞いたわけでもないのにやたらはっきりと繰り返される。余計なことは考えまいと問題集に意識を戻すと、今度は歌詞まで頭に浮かび出す。
思わず笑ってしまう。でたらめにもほどがある。どこの国の言葉だ。
いつの間にか口ずさんでいた。なんだか呪文のような響きだ。何かの意味があるような気もする。
急に怖くなって歌うのを止めた。いくらなんでも変だ。聞いたことのない言葉をこんなはっきりと口にできるわけがない。もう一度呟くように繰り返して見る。
やはり、おかしい。一言一句間違いなく繰り返せる。意味もわからないのに。
だれかが僕の頭の中で呟いているみたいだ。
ふと、視線をずらすと、こちらをあざ笑うかのように去勢人形が僕を見ていた。どこを見ているか判らないくせに。ランプに照らされて彫りに陰影のついた姿は、更に不気味だ。僕はスタンドの明かりを消す。
そこで気づいた。さっき、後ろ向けなかったっけ。
手にとってひっくり返し、足元を見る。回るようになっているのだろうか。特にそんな仕組みも、傾いているようにも見えない。
元の場所に戻して、回るかどうか確かめる。やはりそんな様子はない。
なんだか気味が悪くなったので、ゴミ箱に捨てようとして更に気づく。
昨日は、ランプの隣ではなく、ゴミ箱の隣に置いたはずだ。
なにげなく置いたなら、思い違いもあるかもしれない。だが、今でも思い返せる明確な理由があったのだから、今、ランプの隣にあることは理屈が通らない。
いつからここに移動したのだろう。父さんが夜中にこの部屋に入って動かしたのだろうか。自分の好みのレイアウトを諦められなくて。ウザい想像だが、勝手に動いたと考えるよりマシだ。
僕は改めてゴミ箱の中に人形を叩き込み、もう一度考え直してゴミ袋に詰め直した。そして部屋の外へ持っていって玄関脇に積む。燃えるゴミは明後日だ。
気分転換に外へ出た。図書館へ行ってブースを借りる。
特に目的もなく、パソコンを使ってネットのニュースを検索する。政治家の失言問題に芸能人の離婚話。眼を引くような話題はない。
しばらく検索画面を眺めた後、ふと思い浮かんだ単語を入力して見た。
意味はわからない。ただ、なんとなく入れて見ただけの音だ。
結果を見て驚いた。アフリカの一部地方に伝わる呪術に用いられる木製の人形。
つまりは、あの去勢人形だ。
なぜ僕はそんな単語を知っているのだろう。渡されたときに父さんが名前を言っていたのだろうか。そんな記憶はないけれど。
開くと、僕の捨てたものとは違う色合いの、しかし禍々しい顔つきは共通した人形の画像が表示される。
解説によるとこの人形は、男に裏切られ捨てられた女が、怨み辛みの念を込めながら彫り上げ、自らの体液を混ぜ込んだ顔料を塗りこめて作る呪いの人形だそうだ。
材料には、呪う男の性器が勃起した長さ分だけ枝の出ている木を使い、ペニスの凹凸までしっかりと刻み込んだ後、ナタで一気に根元から削り落として完成させるらしい。
呪われた男は激痛に襲われた上、二度と勃たなくなり、魂が抜け落ちたように廃人となる。呪いの念があまりにも強力だった場合、現実に男根が腐り落ちた報告もあるとか。
読んでいてとても嫌な気分になった。よくもまあ、そんなシロモノを自分の息子にプレゼントしようという気になるものだ。呪いを信じるかどうかはともかく、『体液を練りこんで』製作する時点で廃棄に値する。まあ、本物ではなく、レプリカであるだろうが。
僕はアレを捨てておいて良かったと思った。帰ったら、ベッドまわりを消毒しよう。むしろ今すぐ手も洗おう。
僕は席を立った。
家に帰って一息つく。小腹がすいたので何かを作ろうと居間に入った。
居間のテーブルの上に去勢人形が乗っている。
思わず大声を上げそうになったのをギリギリで堪える。
何故だ。
「おう、お帰り。遅かったな」
暗がりから、ぬっと父さんが、カップ麺をすすりながら顔を出す。
「どうした?」
父さんは言葉が出ずに固まっている僕を見て訝しげに首をかしげた。食べる合間に居間の電気をつける。僕は不安定なリズムで暴れる心臓を押さえながら、人形を指差した。
「それ、父さんが置いたの?」
「ああ、その人形な」
父さんは眉をしかめて言った。
「ひどいじゃないか。仮にも人のプレゼントだぞ。いらないなら、いらないって言えばいいんだ。そしたら、オレが自分で飾るのに」
がくっと力が抜ける。
「…呪いの人形なんか飾るのやめてよ、縁起悪い」
「なんだ怖いのか?」
父さんは模範的なスケベ中年の笑い顔をしてみせる。こういうものは年を取ると誰でも体得できるのだろうか。
僕は相手にせずに部屋に戻ることにした。
「オイ、メシ食わないのか?」
「いらない、食欲失せた」
「ったく、年頃の男子がそんなでどうする。オレみたいな逞しい大人になれんぞ」
父さんは、ムッチリと脂肪のつきまくった身体でポーズをとった。シャツの下でヘソ周りの肉がバウンドしているのが透けて見えるようだ。
「ゴミ袋漁るようないやしい大人にはなりたくないよ」
「失礼な。そんなことしないぞ」
「…人形拾ってんじゃん」
「だからゴミって言うな! 廊下に転がってた人形片付けただけで、何でそこまでいわれにゃならんのだ!」
父さんは頬を膨らませて怒りながら台所に引っ込んだ。
振り返って例のゴミ袋を見ると、引き裂かれて中身がこぼれ出ている。
「…やっぱ、漁ってんじゃん」
部屋に戻ってまっすぐベッドに倒れこんだが、よく眠れなかった。同じ建物の中に呪いの人形が置いてあると考えるのが気持ち悪い。呪いの人形だけじゃない。金玉ランプもエロ絨毯もペニスケースも全部気持ち悪い。
母さん、今どうしてるんだろうか。
カレンダーを見て思い出す。明日母さんに会う日だ。
母さんに頼んで、一緒に暮らせないかな。自分の部屋は無くてもいい。まともな感覚さえ保てれば、それでいい。
夜中にトイレに行った。イチモツを片手につまんで、便器に狙いをつける。
…去勢、か。ぞっとしない話だ。
父さんは何とも思わないのだろうか。自分のチンコ切り落とされるなんて、男にとっては鬼門の話だと思うけれど、あの人は平気なのだろうか。
捨てられた女の執念で不能とか、未成年で童貞の僕ですら鳥肌が立つのに、離婚経験のある中年男の父さんは、何故笑っていられるのだろうか。やっぱり出て行ったのが母さんの方だから、なのかな。
小便をふるい落として、縮こまったナニをパンツの中にしまいこむ。早く寝よう。
トイレの扉を開けると、目の前の廊下に去勢人形が立っていた。
「うあああ!」
絶叫を上げて尻餅をつく。慌てて後ろに下がろうとするが、すぐに便器にぶつかって逃げられなくなる。
声が聞こえた。あの歌、いや、呪文だ。
笑い声が聞こえる。地の底から響き渡るような、くぐもった低い声で。
虚ろなはずの人形の目が、僕の股間を睨み付けた。
取られる! 僕は股座を慌てて手で隠した。
呪文は延々と繰り返される。笑い声はどんどん大きくなる。
ふいに人形が宙に浮かび上がった。そして僕のほうへ飛んでくる。
「ひ…」
廊下の電気がついた。
人形の後ろに人影が浮かび上がる。耳を震わせるような低い声で笑っているのは…
「…父さん?」
父さんは涙を流していた。人形を片手につまみ、もう片方の手で腹を抱え、苦悶の表情で爆笑している。
「…な、何やってんのさ!」
「そ、そりゃこっちのセリフだ。いっひっひっ、マジでビビってやんの。いくつだよ、お前…あっひゃっひゃっ、くっ、苦しいっ、死ぬっ」
「しっ…死ねっ! クソ親父!」
顔が真っ赤に染まるのがわかった。階段を駆け上がって部屋へ戻る。
「チビッたんなら、パンツはきかえろよ」
「うるさい!」
叩きつけるようにドアを閉める。
とたんに腰がズキリと痛んだ。便器にぶつけたらしい。散々だ。
あんな子供じみたいたずらを仕掛けるようなタチの悪い男だとは思わなかった。いい年こいたオッサンのくせに、なんてバカだ。許せない。
それでもって、そのしょうもない脅かしに乗せられたのが、たまらなく悔しい。
ずっと自分の股間を握り閉めていたのに気づいて手を放す。トランクスに丸いシミが浮かんでいた。
「クソッ!」
脱ぎ捨ててドアに叩きつける。枕を殴りつけて布団の中に潜り込んだ。
母さんに言うんだ。明日母さんに言って、この家を出るんだ!
朝になって、父さんが顔をのぞかせた。
「昨日言い忘れてたけど、今日遅くなるからな。日帰りだけど出張なんだ。晩メシは適当に一人で食っとけ」
「はいはい」
追い払うように適当に返事をする。
「なんだ、まだスネてんのか」
「うるさいなあ、さっさと行きなよ」
「自分で勝手に場所変えやがったクセして、オレに八つ当たりかよ。まったく、いつまでもガキだなあ、お前は」
「うるさいってば!」
大声を出すと、父さんは首を引っ込めて出かけていった。
母さんに会いに行く前に服を着替えた。制服に。
学校へ行くつもりではないけれど、このままこの家には戻らないつもりでいたので、あとで必要になってくると思ったからだ。教科書なんかは大抵学校に置きっ放しにしているので、今のスポーツバッグに充分入る。女と違って男の家出は気楽だ。
待ち合わせの時間より少し早いが、駅前のファミレスへ向かう。
窓際の席で待っていた僕を見て、少し遅れて来た母さんは目を丸くした。
「今日は学校だったの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「そう、学校は問題なくやってるの?」
「うん。成績も、悪くはなってないよ」
「ならいいわ」
しばらく世間話をした。家や父さんの話題になったら、さりげなく切り出そうと思っていたんだけれど、なかなかそういった話にならない。もしかすると、母さんは、父さんの話題を避けるようにしているのだろうか。今まで気づかなかった。しかし、別れた夫婦というのはそういうものなのかもしれない。
母さんが時計を気にし始めた。次の仕事があるのだろうか。
自分から切り出すしかない。
「あのさ、母さん」
「なあに?」
「その…僕と父さんなんだけど、」
少し返事があるまでに時間があった。
「なにかあったの?」
「その…あんまり性格が合わないみたいなんだ。ホラ、父さんって、かなり下品なとこあるでしょ? いつもいつも、下ネタ絡みのガラクタばっかり集めてきてさ。家の中、そんなのばっかりになってるんだ。いづらくってさ」
「何が言いたいの?」
「僕、母さんと一緒に暮らせないかな? 母さんと一緒なら、もっとまともな暮らしが出来るんじゃないかって気がするんだ。母さんは、父さんみたいに、下品な生活してるわけじゃないでしょ? だから…」
「…イヤミな子…」
「…へ?」
一瞬何を言われたかわからなかった。
どんな風に自分の側の話を続けようか、ばっかり考えていたこともあるし、母さんの言葉が、僕の想像を著しく外れていたこともある。僕は、ただ呆然と母さんが今の言葉を、『言い直す』のを待つしかなかった。
「…本当、父親にそっくりね。あてつけがましいったらありゃしない」
母さんは僕と眼を合わせていなかったので、僕には母さんが本気で言っているのかわからなかった。わかりたくなかった。僕は何を言って母さんを怒らせたのだろう。何故?
「私だって、幸せ一杯でお気楽に暮らしてるわけじゃない。あなたの養育費と慰謝料払うだけでギリギリの生活なの。あなた達にわざわざ手伝ってもらわなくたって、私は充分惨めな暮らしをしてるのよ!」
「ぼ、僕、別に母さんに迷惑かけたかったわけじゃ…」
「迷惑じゃないわけ無いでしょ! あなたがいる限り私はいつまでたっても中途半端に縛られたまま自由になれないのよ!」
「母さ…」
「今大事な時期なのよ…ようやくあの人も結婚の準備が整いそうなの…今更あなたの面倒押し付けられるわけにはいかないのよ…お願いだからこれ以上私の邪魔をしないで」
母さんは慌しく、財布からお金をテーブルに叩きつけた。
「これで払いなさい」
「ぼ、僕自分の分は自分で出すよ…」
母さんがお金に困ってるなら、僕が負担をかけちゃいけない。
「そう、ならそうしなさい」
母さんはそう言って自分の飲んだコーヒーの分のお金を置くと、店を出て行った。
急いでいるのか、こちらを振り返ることも無く、さっさと駆けるように去ってしまったので、なんだか寂しいような気もする。
そうか、母さんも大変なんだな。僕は自分のことしか考えてなかった。会って話はしても、母さんが今どんな暮らしをしてるのか、とかあまり考えたことは無かった。漠然と、昔父さんと三人で暮らしていたころみたいに、少なくとも、今の父さんと同じくらいの生活は出来ているんだと思っていた。
結局他に行き場所も無くて、僕は父さんの家に帰った。男二人が住まう、小汚い家だ。大きさばかり立派ではあるが、中に詰まっているのは、下品なガラクタばかり。
僕は陰鬱な気持ちで扉を開けた。
まず、眼に入ったのは、引き裂かれて中身の飛び散ったゴミ袋だった。昨日の晩よりひどくなっている。それだけではない、居間の箪笥や棚なども全部開けられてひっくり返されている。
泥棒でも入ったのだろうか。鍵は閉まっていたはずだけど。
僕は窓を確認しながら、慌てて父さんの部屋に向かった。ここもボロボロになっている。変な土産物コレクションの棚が打ち壊されて、中身が全部ベッドの上に投げ出されていた。急いで押入れの金庫を見る。非常時の時のために、僕も場所と番号は知っているのだ。
金庫が外に引っ張り出されて、扉が開いているのを見たとき、僕はやられたと思った。しかし、よく見ると、引っ張り出された中身の中に、通帳が残っているのが見えた。ハンコまである。開いて見ても、もちろん黒字だ。それに、今はもう着けていない父さんの結婚指輪も入っていた。泥棒なら取っていかない理由がわからない。
僕は、訝しく思いながら、自分の部屋に戻って、僕の私物はどうなっているか、確かめて見ることにした。階段を登って扉を開ける。
意外にも、僕の部屋だけは荒されてはいなかった。子供部屋なことが明らかだから、金目のものはないと判断されたのだろうか。それとも、犯人は、何かを探していたのか?
そのとき、僕は今朝と違う『異常』に気づいた。
ある。
ベッド脇のランプの隣に、顔つきの悪い去勢人形が。
父さんが出張に行くと出かけた以上、この人形をここに置いたのは犯人以外に有り得ない。でも、そんな泥棒…
人形がニヤリと笑った気がした。僕は背中に鳥肌が立つのを感じた。
とっさに人形をひっつかみ、再びゴミ袋に押し込んで、家の外のゴミ収集所に投げ捨てる。収集日は明日だが、そんなことは言っていられない。僕は駆け足で家に戻った。
そして、一息つくつもりで部屋に入り、息を呑む。
包丁が床に突き刺さっていた。
さっきまで、こんなものはなかったのに。
よくみると、何かを刺し貫いている。
僕のトランクスだった。昨日はいていた奴だ。扉に向かって丸めて投げつけた奴だ。
それの、ちょうど股間の部分に、まだ薄く残っている、濡れた丸いシミの部分に、包丁の刃が、突き立っていた。
まだ、家の中に、犯人が、いる。
僕はパニックになって部屋を飛び出そうとした。
扉を開けると、すぐそこに去勢人形が立っている。
「うああああっ!」
僕は腰を抜かして倒れこんだ。
今捨てに行ったばかりの人形が、戻ってきている。犯人は僕を見ている。
僕は怖くなった。泣きそうになった。いや、本当に涙が出てきた。
あたりを確認する。何か武器になりそうなものを探して、野球のバットを手に掴む。
人形を置いた犯人の気配は無かった。物音一つしない。
僕はおそるおそる部屋を出た。とにかく早く、警察を呼びたい。帰ってすぐにそうするべきだった。今更のように悔やまれる。
廊下の電話に走りより、110をダイヤルする。びくびくと周りに視線を配りながら、早く相手が出るのを祈るように待つ。
コール音が途切れて、相手につながると同時に僕は口を開いた。
「もしもし! 今うちの家に変質者が…」
僕は絶句した。
あの呪文だ。
反射的に受話器を叩きつける。そして、もういちど今度は確実に110を押す。
今度聞こえたのは笑い声だった。低い化け物じみた笑い声。電話線を確かめた僕は、それが途中で切れている事に気づいた。
笑い声は響き続けている。同時に呪文も重なるように流れる。
僕はバットを電話に叩きつけた。何度も何度も叩きつけて、完全に粉砕した。
そして再び部屋に戻る。
パンツが部屋中にばらまかれていた。僕の下着が、ボクサーショーツから子供の頃使ってたブリーフまで全部、引っ張り出されて部屋中に転がっている。
そして、どれもこれも、前がズタズタに切り裂かれていた。
床に突き立っていたハズの包丁は、今は机に突き刺さっている。
今貫いているのはノートだ。僕の数学のノートだ。
絵が描いてある。ペンで乱雑に、でもはっきりと一目でわかるように、卑猥なペニスの絵が書いてある。そしてその中心に、刃が突き刺さっている。
何の音もしなかった。僕は気づかなかった。
去勢人形はもはや定位置となったランプの隣に収まっている。
チカチカとランプが点滅して、人形を照らし出している。パラパラ漫画のように、光が消えるたびに少しずつ表情が変わっているように見える。
呪文が響き渡った。
何度も聞いた呪文だ。もう意味がわかる。
こいつは僕を去勢しようと思ってるんだ。
僕はバットを人形に叩きつけた。
ベッドから弾き飛ばされた人形は床に転がった。それでも呪文はやまない。
何度も何度も、殴りつけた。大声で叫びながら、罵りながら、バットと人形の両方が、コナゴナの木片になるまで叩き続けた。
いつのまにか、呪文が止んでいることに気づく。
息が切れて、両腕がブルブルと震えている。バットの割れた部分で、手のひらが傷ついていた。目の前の床には、汚い絵の具の付いた腐りかけた木片と、折れたバットの欠片が飛び散っている。
僕は木片を掻き集めて、窓から投げ捨てた。素手でやってもキリがないので、破れたパンツをモップ代わりにして、一緒に外へ放り投げた。
ガン! と、閉まっていた部屋の扉が叩かれた。
驚いて振り向くと、再び、ガン! とドアが震える。誰かが部屋の外にいるのか。
僕は今更のように、武器にしていたバットが、役に立たないくらいに短くなってしまったことに気づいた。ドアから離れるように、後ずさる。
油断していた背中側で、窓のガラスが突然割れた。特に外から何かが飛んできた様子もない。僕は窓からも離れる。行き場が無い。逃げ場が無い。
天井で蛍光灯が割れて、破片が降ってきた。頭を抱えて、しゃがみこむ。
背中が机にあたる。ドンと揺れて、頭の上からノートが落ちてきた。包丁の突き刺さったノートだ。ペニスの絵が書いてあるノートだ。ちょうどその部分が開いて、僕の目の前に広げられる。包丁が刺さっているのだから、当然といえば当然だ。
下品だけど、よく描けた絵だった。皮のかぶり具合とか、毛の生え方とか、僕のモノにそっくりだった。よく見たことがあるに違いない。ずっとそばにいたんだ。
逃げられない。
クローゼットの扉が、ギイと音を立てて開いた。闇の中に、二つの光るものがあった。
僕は口を大きく開けて悲鳴を上げたはずだ。もはや僕には聞いた記憶が無いけれども。
−
男はほろよい加減で鼻歌を歌いながら家路についていた。片手には会社の鞄。もう片方には、息子への土産の品が入っている。
『ち○こビスケット』だ。
なにをかいわんや、雄のナニの形を模した菓子だ。これなら、アフリカの木彫り人形と違って、子供を怯えさせることは無いだろう。中学生の息子に小便を漏らさせた、迫力のありすぎる人形は、出かける前にゴミ袋に入れて捨ててあった。
浮気した妻へのあてつけに買い集め出した卑猥な品は、見事妻を追い出した後にも増え続けていた。少し大人気ない態度だったかもしれないと、赤子のようにトイレで腰を抜かす、年の割に幼い息子の姿を見て、男は初めて少し反省したところだった。
子供はセンシティブだ。大人が心に闇を抱えていると、敏感にそれを感じ取る。
いつか、我が子が大人になったら、妻に裏切られた自分のやりきれない心を、素直に打ち明けて、話し合うことが出来るかもしれない。
帰ったら、一度謝ろう。父親として、男はそう考えた。
男は、静まり返った自宅を見上げ、もう寝ているのかと、思った。
遅くなると告げたのは自分だ。文句は言うまい。
玄関の扉を開けて、まず眼に入ったのは、破壊されたペニスケースだった。
粉々になった水牛の角が床にばら撒かれている。
「あいつ、オレのコレクションを!」
男はあたりを見回し、そこで電話も壊れていることに気づいた。居間の扉もガラスが割れている。
「なんだ、泥棒か?」
男は慌てて階段を駆け上がり、息子の部屋の扉を開いた。安否を確認するために。
「オイ! 大丈夫か!」
スイッチを探っても電気はつかなかった。中は暗くて見えないので、廊下の明かりをつけにいく。
部屋の中央に人影があった。髪型からして見慣れた息子だ。
「そこにいたのか。オイ、怪我は…」
男は絶句した。
息子の様子が尋常ではなかったからだ。
少年は、全裸だった。
素っ裸で、性器すら隠そうとせず、ぼうっと突っ立っている。
「…隆志?」
体中に変な模様が描いてあった。
どこかで見たことがあるような、そう、あの去勢人形だ。あの人形とそっくりな模様を全身にペイントしてある。
「隆志どうし…」
部屋に足を一歩踏み入れた瞬間、少年が顔を上げた。
男は思わず凍りついたように固まる。
少年は、謎の言葉を喋った。
「隆志、父さん英語はわかんないぞ…」
少年が足を前へ踏み出す。
得体の知れない恐怖を感じて、男は後ずさった。
廊下の明かりの元へ出てくると、よりはっきり息子の顔がわかるようになった。少年の目は父親を見ているようで見ていない。明らかに正気ではない。
「な、なあ…オレが悪かったよ。親が離婚して、お前もストレス溜まってたんだよな? そうだろ? 昨日のことはオレが謝るからさ、そんな心臓に悪い冗談は…ヒッ」
少年の腕が突如すばやく男のネクタイを掴んだ。相手は自分の顔を見ているが見ていない。
「か、勘弁してくれよ。落ち着いて話そう。まずはパンツはけ、な?」
ギリギリと締め付けられるようにネクタイが引っ張られる。父親の声に耳を貸す様子はまったく見られない。
男は廊下の端に追い詰められた。階段の縁で足が宙に浮く。
「た、助けてくれ! 家庭内暴力はんた…」
ドン、と胸を突かれて男は転げ落ちた。頭を打って、気が遠くなる。
ぼんやりと、少年が階段を下りて近づいてくるのが見えた。息子が生まれて初めて、男は自分の子供を本気で怖いと思った。
痛い。
寒い。
痛い。
男が眼を覚ましたとき、最初に感じたのは後頭部の痛みだった。思わず頭に手をやろうとして、その手が堅く縛られて動かせないことを知る。驚いて自分の身体を見回した男は、更に自分が丸裸な事に気づいた。
声を出そうとして、口に何かが詰め込まれていることがわかる。吐き出そうとして、猿轡のようなもので止められていることがわかる。立ち上がろうとして、足も太腿を曲げて縛られた上に、それぞれテーブルに繋ぎ止められていることがわかる。
自分の寝そべっているのが客間だということに、男は気づいた。客間の絨毯の上だ。『四拾八手絵巻』シリーズの一枚、『達磨返し』だ。ちょうど、自分の格好が、その春画の女と同じように縛られていることに、男は気づいた。バタバタと膝を揺らして見るが、たるんだ腹筋は、胴体を持ち上げることを許さない。
何の抵抗も出来ない状態だった。腹を冷たい風が撫でる。
男は、風の来た方に顔を向ける。そして、眼を見開いた。
そこには、先ほどと同じ、全裸に模様を描き込んだ息子が立っていた。先ほどと違うところがあるとするなら、息子の性器が勢いよく勃起していることと、その手に包丁を握っていることだった。
それが、たまらなく恐怖をあおる。
男は、モゴモゴと叫びながら、首を振った。
気づきたくなくても気づいてしまう。息子は、去勢人形になりきっているのだ。
今になって男は、自分の選択眼を呪った。
膝を堅く閉じようとしても、縛られた紐が邪魔で届かない。尻も局部も無防備なむき出しだ。
少年が父親の股間に手を伸ばした。男は涙目になってもがく。
萎え縮こまった陰茎が、無理やり引き伸ばされた。諦め悪く暴れる男の脚を、少年は自分の腕と脚の力で押さえつける。すさまじい力だった。肉体はすでに大人になっているのだ。事実、引き伸ばされた男のペニスと、勃起した息子のモノの長さは、並べてもそう変わらない。
包丁の先が、男の股間にあてがわれた。
「ン゛ーッ、ン゛ーッ、ヴン゛ーッ!!」
刃が皮膚に食い込み、切り裂く。プシュ、と血が弾けて飛び散った。
男の首筋に血管が浮かび、顔色を赤黒く染めて、身体を仰け反らせる。脂汗が全身に滲んだ。
少年は、じわじわと、いたぶるように父親の急所を抉った。噴出す血液が絨毯に流れて染みを作る。もはやモザイクどころの騒ぎではなかった。
最後の方は、切るというより、引っ張って引きちぎるようだった。ブルブルと痙攣する下半身から、襞になった組織片や管が飛び出している。
少年は切り取った性器を掲げると、恍惚とした表情でそれを眺めた。そして、その断面を父親の胸元にこすり付け、筆のように扱って、血でペニスの絵を描いた。
それから少年はニヤリと笑い、また謎の言葉を唱えた。
少年は父親の胴をまたいで立ち上がると、切り取った男根の先端を口に咥え込んだ。亀頭に歯を立てて噛み付いた。そして空いた手で、はち切れんばかりに勃起している自分自身の性器を扱きたてながら、その根元に包丁をあてがったのである。
自らの身に刃を食い込ませながら、少年はくぐもった歓喜の声を上げた。先走りと血しぶきを撒き散らしながら、身体を仰け反らせて呻く。
父親は、自分の胸の上で、狂った息子が自身の去勢を行うのを、呆然と見ているしかなかった。胸元にボトボトと血液が垂れ落ち、すでに男の血で描かれた卑猥な絵は塗りつぶされている。
完全に切り離されたとき、精液が傷口から飛び出し、父親の顔にかかった。つんと若い、刺激臭が漂う。少年は身体を震わせながら、切り取った肉片を掲げて天を仰いだ。
やがて、少年は、股間から流れ続ける血を気にする様子も無く、父の顔にかがみ込んで、ネクタイの猿轡を解いた。
青ざめた顔の男は、口の中から自分のはいていたトランクスを吐き出すと、弱々しく息子に懇願した。
「…頼む…救急車を…医者を…頼む…」
血と汗と涙と鼻水と精液、汚れに汚れた父の顔を包丁の刃で撫でると、少年はテーブルの上においてあった缶を、その包丁を使ってコンコンと叩いた。
父の土産のビスケットだ。
少年は包丁から手を離し、口に咥えていた父の局部と、もう片方の自分の局部、二本の性器を両手に構えて、それを父の口元にあてがった。
意図を理解した男は、泣きながら首を振った。
「…頼む…イヤだ…医者を…」
まず歯形の付いた自分のペニスが、そして自分の息子のペニスが、男の口に差し込まれた。不揃いに毛の生えた陰嚢も全て、喉の奥まで押し入れられる。
「…うぅ…うぅ…」
男は弱っていた。ただ涙を流しながら、呻く以外のことが出来ない。
少年は父親を抱きしめた。まるで、ようやく相手が誰かを思い出したかのように。
しかし、決して正気ではなかった。少年は、いまだ出血を続ける自分の股間を、少し勢いが弱まり、血が固まりつつある父の股間に押し付けた。
切り株同士が擦り合わされ、乱暴に切り裂かれたギザギザの内部組織が絡み合う。少年が腰を振ると、傷口がグッチュグッチュと、粘着質な音を立てた。男同士であるにもかかわらず、完全に相手の中に挿入しているかのように見える。
傷口を擦り広げられるような苦悶に、父は喘いだ。息子もそれに応じるかのように快感の雄叫びを上げる。
やがて親子は、同時にブルリと身体を痙攣させた。二人の皮膚組織がもつれ合った股間に、ピンク色の粘液が滲む。どちらの子種ともわからないまま、最後の精液は固まり、乾いて二人の股を貼り付ける。
どちらもそれきり静かとなった。ただ、少年は、父の胸に顔を埋めて、憑き物が落ちたような、穏やかな顔をしていた。
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投稿:2011.12.08更新:2011.12.08
呪いの人形
挿絵あり 著者 自称清純派 様 / アクセス 14637 / ♥ 4