去勢の時間です
亮介は目を覚ました。
手術台の冷たさは消え、代わりに柔らかいシーツの感触があった。体が重く、鈍い痛みが下腹部を支配している。視線を落とすと、見慣れない膨らみ――小ぶりな乳房がわずかにシルクのナイトガウンを押し上げていた。
「……なんだ、これ……」
かすれた声が漏れた瞬間、喉に違和感を覚えた。以前よりも細く、高い声。それだけで、何かが決定的に変わってしまったことを悟る。
「おはよう、涼香。」
静かな声が耳元に届く。振り返ると、ベッドのそばに美咲が座っていた。
「りょう……すけ……」
「違うわ。あなたはもう亮介じゃないの。涼香よ。」
美咲は優しく微笑みながら、手を伸ばして頬を撫でた。かつての妻ではない。今はまるで、姉か、あるいは母のような眼差しを向けている。
「……嘘、だろ……」
震える手を下腹部に伸ばす。しかし、そこには何もなかった。感覚すらない。ただ、縫合された痕がわずかに残るのみだった。
「よく眠っていたわね。手術は完璧に終わったわ。もう、あなたは男じゃないの。私の可愛い涼香になったのよ。」
美咲がクローゼットを開けると、そこにはレースやフリルのついた女性用の服ばかりが並んでいた。
「さあ、着替えましょう。今日は新しいあなたのお披露目の日なんだから。」
「お披露目……?」
「ええ。あなたの浮気相手だった女の子たちも呼んであるわ。みんなに見てもらいましょう、新しいあなたを。」
逃げたい。叫びたい。しかし、体はあまりにも弱く、起き上がることすら難しい。
「大丈夫よ。これからは、私があなたを守ってあげるわ。」
美咲は優しく微笑みながら、少女らしい淡いピンクのワンピースを差し出した。
「ねえ、涼香。あなたも女の子として生きるの、悪くないと思わない?」
恐怖、羞恥、怒り、そしてほんのわずかな諦念――あらゆる感情がないまぜになって、思考はまとまらない。
指先は震え、差し出された淡いピンクのワンピースの生地を掴む力すら弱々しい。
「……無理だ……」
喉の奥でかすれた声が漏れる。
美咲の表情は変わらなかった。ただ、まるで幼い子供をあやすように、ゆっくりと髪を撫でる。
「大丈夫よ、涼香。少しずつでいいの。あなたに似合うわ。」
「やめろ……俺は……」
「"俺"じゃないわ。"私"でしょう?」
柔らかい声で囁かれる。しかし、その言葉にはどこか有無を言わせぬ強さがあった。
否定したい、拒絶したい――だが、体はあまりにも弱く、抵抗する術がない。
美咲は手際よくナイトガウンを脱がせ、白い下着を身に着けさせる。
鏡の中に映る自分は、もはや見知った男ではなかった。
華奢な鎖骨、柔らかみを帯びた肌、わずかに膨らんだ胸……そして、喪失の証。
「さあ、腕を通して。」
促されるまま、ワンピースに袖を通す。シフォンの生地が肌を撫で、くすぐったい感触を残す。
かつて嗤っていたはずの"女の子らしい"装い。
それが、今、自分のものとして着せられている。
「……いい子ね。」
美咲の手が肩を抱きしめ、優しく囁く。
「さあ、行きましょう。みんな待っているわ。」
涼香の足元は覚束なかった。それでも、美咲に支えられながら、ゆっくりと扉へと向かう。
その先に待つのが、どんな光景なのか。
恐れと絶望を抱えながら、涼香は静かに扉を見つめていた。
涼香の鼓動はひどく早かった。扉の向こうに何が待っているのか、考えるだけで足がすくむ。
それでも美咲は優しく手を引き、まるで何でもないことのように言った。
「大丈夫よ、涼香。怖がることなんて何もないわ。」
その言葉はどこまでも優しく、それでいて逃げ道のない響きを持っていた。
扉がゆっくりと開かれる。
そこは豪奢なリビングだった。
シャンデリアが輝き、テーブルには高級そうなワインやケーキが並ぶ。
まるで誰かの誕生日パーティーのような光景だった――ただし、その"主役"は、涼香である。
そして、そこにいたのは見覚えのある女たちだった。
「え……?」
愕然とする。
彼女たちはみな、亮介――いや、かつての自分が関係を持った女たちだった。
華やかなドレスに身を包み、ワインを片手に微笑む彼女たち。
だが、その目には冷たいものが宿っている。
「ねえ、美咲さん。これが"新しい彼"?」
「違うわ。"彼"じゃなくて"彼女"よ。」
美咲がにっこりと笑いながら答える。
女たちは涼香をまじまじと見つめた。
その視線は興味深げであり、同時に――優越感に満ちていた。
「本当に可愛くなっちゃって……あの亮介がねえ。」
「信じられない。こんなに綺麗になっちゃうなんて。」
「ねえ、話してくれない? 今の気分はどう?」
くすくすと笑いながら、彼女たちは次々と言葉を投げかけてくる。
涼香は息をのんだ。冷や汗が背を伝う。
「やめろ……」
喉の奥からかすれた声が漏れる。
だが、美咲がそっと肩を抱き寄せると、耳元で囁いた。
「怖がらなくていいのよ、涼香。ここにいるのは、あなたがかつて愛した人たちばかりでしょう?」
「ちが……う……」
「違わないわ。あなたが弄んできた女性たち。あなたが愛したと言いながら、飽きたら捨ててきた人たち。」
美咲の声は穏やかだった。だが、その瞳はどこか冷たい。
涼香の足元がぐらつく。
「さあ、座って。」
美咲がソファへと手を引く。
抵抗しようとするが、力が入らない。
涼香は、まるで操り人形のように座らされた。
すると、美咲が手を叩いた。
「さあ、みんな。新しい涼香のために、乾杯しましょう?」
「賛成。」
「ええ、素敵な女の子になったことを祝わなきゃ。」
「亮介……じゃなかった、涼香。おめでとう。」
グラスがぶつかり合い、ワインが揺れる。
涼香は震えながら、ただそれを見つめることしかできなかった。
これは悪夢だ。
そう思いたかった。
だが、痛みと羞恥が、この現実を強く突きつけてくる。
「どうしたの、涼香?」
美咲が優しく微笑む。
「あなたのためのパーティーよ。楽しまなきゃ。」
涼香は息を詰まらせた。
逃げられない。
涼香の指先は冷たかった。
ワインのグラスが交わされ、笑い声が飛び交う中、彼女はただ縮こまっていた。
「ねえ、涼香?」
ふいに、隣に座った女――奈々美が顔を覗き込んできた。
彼女は以前、亮介が"遊び"で付き合い、飽きたらすぐに別れた女性の一人だった。
「覚えてる? 私のこと。」
涼香は口を開こうとしたが、声が出ない。
奈々美は微笑みながら、涼香の髪を撫でた。
「こうして見ると、本当に可愛い女の子になっちゃったんだね。」
「……やめろ……」
掠れた声で呟く。
だが、奈々美はその言葉を無視するように続けた。
「ねえ、美咲さん、これってどこまで変わってるの?」
「え?」
他の女たちも興味深そうにこちらを見た。
美咲はにこりと笑い、ワインを揺らしながら答える。
「全部よ。」
「ふぅん……」
奈々美が意味ありげに涼香の頬を撫でる。
「じゃあ、もう男の子として楽しむことはできないんだ?」
「……っ!」
羞恥と屈辱で、涼香は身を縮める。
女たちはくすくすと笑いながらグラスを傾ける。
「ねえ、せっかくだからもっと可愛くしてあげない?」
「そうね、お化粧もまだみたいだし。」
「せっかく女の子になったんだもの、楽しまなきゃ。」
涼香は首を横に振る。
「やめ……やめてくれ……」
だが、美咲が優しく微笑みながら言った。
「大丈夫よ、涼香。あなたにぴったりの姿にしてあげるわ。」
そして、女たちは一斉に動き出した。
涼香の心臓は張り裂けそうだった。
彼女たちは笑いながら、次々と手を伸ばしてくる。
髪を梳かれ、頬に化粧ブラシを滑らされ、赤い口紅が塗られる。
鏡に映る自分は、もはや"亮介"の面影すらなかった。
「ねえ、せっかくだから、もっと可愛くしてあげましょう?」
誰かがそう言った。
「そうね、せっかくならドレスも。」
美咲がクローゼットを開け、ふわふわの白いドレスを取り出す。
「これを着せましょう。」
「え、でも……」
「大丈夫よ、みんな女の子なんだから。」
優しい声で囁かれる。
しかし、それが罠だと気づいたときには遅かった。
ドレスに着替えさせられる瞬間、全てが暴かれた。
「――あれ?」
沈黙が落ちる。
「……あそこが、ない?」
誰かが小さく呟く。
その瞬間、空気が変わった。
「えっ、本当に? ちょっと、見せて。」
「ねえ、美咲さん、これって……?」
美咲は微笑んだまま、ゆっくりと言った。
「ええ、そうよ。涼香はもう、完全な女の子なの。」
女たちは顔を見合わせ、次の瞬間――
「うそ……!」
「本当に取っちゃったんだ?」
「すごい……男だったのに……」
驚き、戸惑い、そして――優越感。
涼香は身体を抱きしめるように縮こまる。
「やめろ……見るな……!」
だが、彼女たちの興味は尽きない。
「ねえ、どんな感じ? もう何もないんでしょ?」
「ちゃんと女の子になった気分?」
「ねえ、後悔してる?」
次々と浴びせられる言葉。
涼香の呼吸が苦しくなる。
屈辱と羞恥、そして取り返しのつかない喪失感が、彼女を押しつぶしていく。
だが、美咲はそんな涼香の耳元で、そっと囁いた。
「大丈夫よ、涼香。これがあなたの新しい人生なんだから。」
そして、パーティーは終わらないまま続いていく――。
涼香は静かに座っていた。
テーブルの上には空になったワイングラス。
周囲では女たちが楽しげに笑い合いながら、次の話題を探していた。
彼女たちはまだ"余興"を終わらせるつもりはない。
そして、その視線のすべてが涼香に向けられていることを、彼女は痛いほど感じていた。
「ねえ、涼香?」
奈々美の声が響く。
「トイレって、どっちに入るの?」
その言葉が突き刺さる。
一瞬、脳が思考を止めた。
今までなら当然のように男子トイレに入っていた。
それが"当たり前"だった。
だが――今の自分は?
ふと、自分の手を見つめる。
小さく、華奢になった指。
鏡に映った自分の姿。
女の子として着飾られ、メイクを施された顔。
そして、何よりも――下腹部に感じる喪失感。
「……っ」
言葉が出ない。
「やっぱり、男子トイレに入りたい?」
別の女がくすくすと笑う。
「でも、もう"男"じゃないもんね。」
「そうよね、もう女の子なんだから、女子トイレに行くしかないんじゃない?」
「でも、本当に入れるのかしら? だって、心はまだ男なんじゃない?」
「ううん、もう"涼香"は女の子なのよね? それなら、迷う必要なんてないはず。」
矢継ぎ早に飛んでくる言葉。
涼香は震える指をギュッと握りしめた。
彼女たちにとって、これはただの"ゲーム"なのだ。
かつて自分が男だったことを知っていて、今は女の体にされたことを面白がっている。
自分がどちらの性を選ぶのか、どう答えるのか、そのすべてを"遊び"のネタにしている。
「どうするの、涼香?」
美咲が微笑む。
優しい声。しかし、そこには逃げ道などない。
涼香はゆっくりと目を閉じた。
羞恥、屈辱、喪失感。
これらをすべて飲み込み、この状況を乗り越えるには――
「……女子トイレに、行く。」
絞り出すように答えた。
女たちは顔を見合わせ、満足そうに微笑んだ。
「ふふ、そうよね。だって、もう涼香は"女の子"なんだから。」
涼香は拳を握ったまま、ゆっくりと立ち上がる。
足が震えている。
心が壊れそうだった。
しかし、この屈辱を乗り越えなければ、この先はない。
涼香はゆっくりと歩き出した。
視線が刺さる。背中を冷たい汗が伝う。
まるで処刑台に向かう囚人のように、足取りは重かった。
女子トイレへ向かう。
それが、今の自分にとって唯一の選択だった。
男として生きてきた時間よりも、これから生きる"涼香"としての時間の方が長くなるのだろうか。
そんなことを考えると、足がすくんだ。
扉の前に立つ。
「本当に入るの?」
後ろから奈々美の声が飛ぶ。
試すような、楽しむような声音。
「ほら、行ってきなよ。」
「ちゃんと"女子"として使えるか、試してみなきゃね。」
涼香は震える指で扉に触れた。
押すか、引くか、それすらも一瞬わからなくなった。
男子トイレではない。
ここに入ったら、もう戻れない気がする。
いや、もう戻る場所などないのだ。
深く息を吸い、静かに扉を押し開く。
女子トイレの空気は違っていた。
柔らかな芳香剤の匂い。
明るい照明。
大きな鏡が壁一面に広がり、そこに映る自分の姿が目に入る。
まるで他人のようだった。
ふわりと広がるスカート。
薄く塗られたピンクのリップ。
大きく見開かれた瞳。
そこに"亮介"はいなかった。
完全に、女だった。
膝が震える。
ここにいる自分は、一体何なのか?
亮介のなれの果てか、それとも新しい存在として生まれ変わったのか?
答えは出ない。
ただ――
扉の向こうでは、彼女たちが笑っている。
涼香はゆっくりと個室の扉を開き、静かに中へと足を踏み入れた。
もう、引き返せない。
扉を閉め、個室の中で涼香は背を預けるように座り込んだ。
心臓の音がうるさいほど響く。
「私は……何なんだ……?」
自分に問いかけても、答えは出ない。
かつての"亮介"はもう存在しない。
だが"涼香"として生きることを受け入れたわけでもない。
けれど、もう男子トイレには戻れない。
そして、女子トイレの中で感じるこの異物感――。
ここが本来の居場所でないことは、痛いほどわかっていた。
だが、選択肢はない。
この体になった以上、どれだけ足掻こうと、世間は涼香を"女"として扱う。
"亮介"として存在し続けることは許されない。
ならば――受け入れるしかないのか?
「違う……!」
涼香は拳を握る。
これは"生まれ変わり"なんかじゃない。
ただ、壊されたに過ぎないのだ。
トイレの外では、彼女たちの笑い声が聞こえる。
きっと、今も面白がっているのだろう。
"亮介"だった自分が、女子トイレに入ることを選ばざるを得なかったことを。
完全に"女"として生きるしかない状況を突きつけられたことを。
「出たら、また弄ばれる……!」
足がすくむ。
このまま、ここに閉じこもっていたい。
何もかもなかったことにしたい。
しかし、そうすれば余計に"弱い存在"として彼女たちに見られるだろう。
今、必要なのは――。
受け流すこと。
心を殺し、屈辱を飲み込み、"涼香"として振る舞うこと。
それが唯一の"戦い方"なのかもしれない。
涼香はゆっくりと立ち上がった。
鏡の中の自分を見つめる。
怯えた顔をしていては、また笑い者にされる。
だから、作り笑いでもいい。
完璧に"涼香"になりきるしかない。
深く息を吸い、扉を押し開く。
視線が集まる。
「おかえり、涼香。」
美咲が微笑む。
「どうだった? 女の子としての初めてのトイレは。」
涼香は微笑んだ。
「……普通、かな。」
その言葉を聞いた瞬間、彼女たちの表情が少しだけ驚いたように揺らいだ。
それを見て、涼香はようやく理解した。
自分にできる唯一の抵抗は――
"受け入れたフリ"をすることだったのだ、と。
美咲の瞳が涼香をじっと見つめている。
その微笑みは変わらないが、その奥には僅かな探るような色があった。
"本当に受け入れたの? それとも、ただ演じているだけ?"
きっと、美咲は気づいている。
涼香がまだ完全には折れていないことを。
だが、美咲はそれを問い詰めたりはしない。
むしろ、少しだけ満足そうに頷くと、グラスを手に取りながら言った。
「そう、普通だったのね。なら、良かったわ。」
"良かった"?
涼香の胸に妙な違和感が広がる。
美咲は、まるで最初からこうなることを知っていたような口ぶりだった。
(……何を考えている?)
「じゃあ、もう"涼香"としての生活も問題ないわよね?」
隣に座っていた奈々美が、面白そうに笑う。
「だって、トイレまで済ませちゃったんだもの。もう完全に"女の子"でしょ?」
「そうね。」
美咲が微笑む。
「これからは"亮介"としての意識を捨てて、ちゃんと"涼香"として生きていきましょうね。」
"意識を捨てる"――?
涼香は笑みを貼りつけたまま、グラスを握る手に力を込めた。
すべてを受け入れたようなフリをする。
そうすることで、彼女たちの"楽しみ"を削ぐことができる。
けれど――このまま流されていたら、本当に自分は"涼香"になってしまう。
亮介だった記憶や誇りすら、消えてしまうかもしれない。
(……まだ終わりじゃない。)
心だけは、折れない。
そのためには、もっと完璧に演じる必要がある。
"抵抗しない"ように見せかけながら、どこかで逆転の機会を狙う。
涼香はゆっくりと視線を上げ、柔らかく微笑んだ。
「……そうね。これからは"涼香"として生きるわ。」
美咲は満足げに微笑んだ。
だが、その瞳の奥で、彼女は何を思っているのか――涼香にはまだ、わからなかった。
ズキッ……
涼香は笑顔を作りながら、ふと下腹部に違和感を覚えた。
(……何だ、これ……?)
痛みは徐々に強くなり、まるで腹の奥から絞り出されるような感覚が広がっていく。
「涼香?」
美咲が心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「……別に。」
涼香は努めて平静を装った。
(こんなところで崩れるわけにはいかない……。)
だが、立ち上がった瞬間――ふっと力が抜け、めまいが襲った。
(何だ……? 体が……重い……?)
足元がふらつく。
そして、違和感がさらに強まる。
嫌な予感がして、ゆっくりと下を見た。
――そこには、ナイトガウンの裾をじわじわと濡らす紅い染みがあった。
「…………っ!」
息が詰まる。
頭が真っ白になる。
「……涼香?」
美咲が目を見開き、奈々美がクスクスと笑う。
「まさか……ほんとに?」
周囲の視線が、一斉に涼香の裾に集まる。
「うそ……。」
「すごい、ほんとに"女"になったんだ。」
「ねえ、涼香? どんな気分?」
奈々美がいたずらっぽく笑いながら耳元で囁く。
「男だった時には、こんな痛みも経験しなかったでしょう?」
涼香の背筋が凍る。
(違う……違う、違う……!)
拒絶したい。
でも、これは紛れもない事実だった。
体が勝手に、"女"として機能し始めた。
もう、どう足掻いても"男"には戻れない。
「……涼香。」
美咲が優しく微笑み、そっと肩に手を置く。
「おめでとう。」
「これで、本当に"女"になれたのね。」
涼香はただ、震える指で裾を握りしめることしかできなかった。
(私は……本当に……。)
もう、完全に"境界の扉"の向こう側へと踏み込んでしまったのだ――。
涼香の視界がにじんだ。
「おめでとう」――その言葉が、何よりも重くのしかかる。
美咲の手が肩に触れているのに、異様なほど冷たく感じた。
周囲の視線が突き刺さる。
奈々美がクスクスと笑う音が耳の奥に響く。
(これは……現実なんだ……。)
否定しても無駄だ。
"亮介"だった自分はもう存在しない。
そして今、この体は女の証を刻み込まれている。
逃げ場はない。
「……涼香?」
美咲がそっと顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
その問いかけは、優しさではない。
ただ、涼香がどんな反応をするのか、試しているだけだった。
(ここで……崩れたら……終わりだ。)
涼香は、震えそうな唇を噛みしめた。
「……別に。」
「痛み、つらいでしょう?」
「……普通、かな。」
努めて平静を装い、静かに答えた。
「……ふふっ。」
美咲の口元がわずかに綻ぶ。
奈々美が楽しそうに肩をすくめた。
「さすが元・男の子。最初の生理でも強がるんだ?」
「でもさ、そのうち嫌でも思い知るわよ?」
「女の体って、すごく面倒なんだから。」
「ナプキン、使える?」
奈々美の言葉に、涼香は指先を強く握りしめた。
「……放っておいて。」
かつては無縁だったアイテム。
冗談のように聞き流していた"女の悩み"。
それが今、逃れられない現実として自分に降りかかっている。
「ふーん?」
奈々美は笑うと、バッグから何かを取り出した。
「ほら、貸してあげる。」
差し出されたのは、生理用品だった。
「……っ!」
それを受け取ることは――自分が完全に女になったと認めること。
拒否したい。
でも、このままでは服が汚れ続ける。
選択肢など、最初から存在しなかった。
震える手で、それを掴む。
奈々美の笑みが深くなった。
「いい子。」
涼香は視線を逸らし、その場を去るようにトイレへと足を向けた。
(もう、戻れない……。)
扉を開く。
そこは、もう"境界の向こう側"だった
涼香は個室の中で、ナプキンを握りしめたまま動けずにいた。
(これを使わなきゃいけないのか……。)
拒絶の感情がこみ上げる。
だが、それと同時に、血がじわじわと下着を汚していく感覚があった。
もう、考えている余裕はない。
(……仕方ない。)
震える手で、ぎこちなく包装を開く。
かつては無縁だったはずの"それ"を、指先で確かめながら下着にセットした。
カサリ
小さな音が、どうしようもない現実を突きつける。
これを使うということは――"男"ではない証明そのものだった。
「……っ。」
悔しさと羞恥が混ざり合い、喉の奥が苦しくなる。
でも、どうにもできない。
(これが、私の"今"なんだ……。)
受け入れたくなくても、体は待ってはくれない。
もう、生理のたびにこれを繰り返すしかないのだ。
そう思うと、絶望が押し寄せた。
「ねえ、涼香。大丈夫?」
外から美咲の声が聞こえた。
(……答えなきゃ、また何か言われる。)
「……うん、大丈夫。」
「ふふ、よかった。」
美咲の笑い声が、妙に冷たく響く。
涼香は深く息を吐き、用を済ませるとゆっくりと外に出た。
待ち構えていた美咲と奈々美が、ニヤニヤとした表情で涼香を見つめる。
「ちゃんとできた?」
奈々美が悪戯っぽく笑いながら聞いてくる。
「……普通に。」
「そっか。それならよかった。」
美咲が満足そうに微笑む。
「これから毎月大変だけど、頑張ってね?」
「……。」
返す言葉がない。
"これから毎月"
その言葉が突き刺さる。
これは一度きりの出来事ではない。
この体になった以上、生涯つきまとうものなのだ。
戻れない。
何があっても、もう二度と――。
涼香は拳を握りしめた。
どれだけ否定しても、体が"女"としての証を刻んでいく。
どれだけ抗っても、誰も"亮介"だった自分を認めてはくれない。
(それなら……。)
涼香はゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとう。」
奈々美と美咲が、一瞬だけ驚いたように目を見開く。
「……強がるわね。」
「ふふっ。いい子。」
美咲が満足げに微笑む。
(私は負けない……。)
この世界が"涼香"を求めるなら、演じるしかない。
屈辱を受け入れ、心を殺しながら――。
でも、それが唯一の"戦い方"なのかもしれない。
涼香は静かに、彼女たちの前を歩き出した。
涼香は静かに歩きながら、心の奥にわずかに生じた違和感を振り払った。
(このままでいいのか……?)
「涼香、ちょっと寄り道していかない?」
美咲が軽い調子で言った。
「え……どこに?」
「薬局よ。あなた、まだ生理用品持ってないでしょ?」
その言葉に、涼香は一瞬息を呑んだ。
(そんなもの……私が買う必要なんて……。)
しかし、今は借り物でしのいでいるだけ。
この体の機能が続く限り、いずれ自分で準備しなければならなくなる。
逃れられない。
「……うん。」
抵抗する理由もなく、涼香は頷いた。
薬局に着くと、美咲と奈々美は当然のように女性用の生理用品コーナーへと足を向ける。
涼香も、その流れに逆らえずに後をついていくしかなかった。
("俺"だったころは、ここを通ることすらなかったのに……。)
「初心者にはこれがいいかもね。羽つきの方が安心だし。」
美咲が軽い調子で一つの商品を手に取った。
「夜用も買っといたほうがいいわよ。知らないで失敗すると、シーツ汚れちゃうから。」
奈々美が別の種類のものを涼香に差し出す。
(そんなこと……知りたくなかった……。)
生理という現実を突きつけられるだけでなく、
それを当たり前に受け入れなければならない空気が支配している。
「……これでいい。」
涼香は言われるがままに商品を手に取り、レジへと向かった。
「ちゃんと自分で持ってレジに行くのね。えらい、えらい♪」
奈々美が面白がるように言う。
「ふふ、最初は恥ずかしいかもしれないけど、すぐに慣れるわよ?」
美咲がくすくす笑いながら続ける。
(慣れる……?)
慣れるしかないのか。
こうやって、"女"として扱われ、"女"としての振る舞いを身につけることに。
(でも、それなら……。)
私は、何のためにここにいるんだ?
考えても答えは出ない。
それでも、手の中の買い物袋が、この不可逆な現実を突きつけてくる。
店を出た瞬間、ひんやりとした風が頬を撫でた。
「ねえ、せっかくだし、どこかでお茶でもしていかない?」
「賛成! 涼香の"女子デビュー"祝いもしなきゃね。」
美咲と奈々美が楽しそうに笑い合う。
「……好きにすれば。」
涼香は小さく呟くと、二人の後を歩き出した。
もう、流れに逆らうことはできないのだから――。
カフェに入った涼香は、無言のまま席に着いた。
美咲と奈々美は変わらず楽しそうにしている。
まるで、本当に"女子の親友"になったかのように。
「ねえ涼香、スイーツ食べる?」
美咲がメニューを開きながら、自然な調子で尋ねた。
「……別に。」
「そっか。でも、生理中って甘いもの食べると落ち着くんだよ?」
「ほら、こういう時こそチョコとかさ。」
奈々美が、まるで"女の先輩"のように微笑む。
(そんなこと、知るわけないだろ……。)
でも、もう"知らない"とは言えない。
そう思った瞬間、なぜか胸の奥がじわっと熱くなった。
「……っ。」
こみ上げるものを必死に飲み込もうとする。
けれど、耐えられない。
気がつけば、視界がぼやけていた。
「え? 涼香?」
美咲の声が驚き混じりに響く。
「どうしたの?」
奈々美も顔を覗き込んでくる。
涼香は震える手で、差し出されたハンカチを受け取った。
涙を拭おうとするが、指先がかすかに震えている。
自分の意思とは関係なく、涙は次から次へと溢れてきた。
(こんなの……おかしい……。)
泣くつもりなんてなかった。
悔しいわけでも、悲しいわけでもない――そう思いたかった。
でも、止まらない。
「……ふふっ、かわいい。」
美咲が微笑む。
「ねえ涼香、自分がどうしてこんなに涙もろくなったか、わかる?」
「……。」
涼香は答えられなかった。
美咲は、まるで"教え諭す"ように続ける。
「もう、"男"じゃないんだから仕方ないのよ。」
「玉も、棒も、何もかもなくなったんだからね。」
奈々美が、クスリと笑う。
「だから、感情がすぐ溢れちゃうの。女の子は、ホルモンのバランスで感情が左右されるものなのよ?」
「そうだね、生理が始まったばかりだし、余計に敏感になってるのかも。」
美咲と奈々美の言葉が、容赦なく現実を突きつけてくる。
涼香は唇を噛みしめた。
(そんなこと……わかってる。)
棒も、玉もない。
もう、"男"としての象徴は何一つ残されていない。
泣きたくなくても、感情が制御できない。
(でも……。)
「……私は……。」
消え入りそうな声が零れる。
「ん? 何か言った?」
美咲が顔を覗き込む。
涼香は何かを言おうとしたが、声にならなかった。
認めたくなかった。
でも、目の前の現実が、全てを物語っている。
もう、"男"ではない。
完全に、不可逆に、"女"になってしまったのだと――。
再び、涙が零れ落ちる。
奈々美がクスクスと笑いながら、そっと頭を撫でた。
「大丈夫、大丈夫。これからは私たちが、"女の子の生き方"をちゃんと教えてあげるからね。」
美咲も微笑みながら、涼香の肩を優しく抱く。
「そうよ。もう、"男"だったことなんて忘れて――新しい人生を楽しみましょう?」
涼香は、震える瞳で二人を見つめた。
抗う術は、もうどこにもなかった。
-
投稿:2025.02.11更新:2025.02.11
再構築の花嫁
著者 かんさいじょし 様 / アクセス 1693 / ♥ 16