血の日のアッティス
「なんだこれは、メルポメネーに誓って!」
「丸一週間、パピルス五枚。まともな掛け合いがひとつもない。プラウトゥスの喜劇より退屈だ」
窓辺にようやく灰白の光が差し込んだころ、階下ではもう閂の音がした。どうせまたクィンテだろう。じきに母が朝食を運ばせ、老いぼれは外出着のまま席につき、目を細めて自慢の末息子がつけた帳簿を眺めるに違いない。
苛立ち紛れに鉄筆で蝋板を削る手だけは妙に早い。少し可笑しい。
「まあいい。家業だの婚姻だのしか口にしないあの老いぼれに、まともに見られないほうが楽だ。ヴィーナスよ、リウィア嬢にはせめてもっとましな夫を」
「南の倉から下ろした酒甕、二つ少なく記されている」
「違います、父上。縁にひびが入っていたので数には入れていません。後ろに記してあります」
老いぼれは小さくうなずいた。そしてついにこちらへ視線を向ける。さて、今日は何を言い出すつもりだろう。
「その黄色のトゥニカを脱げ。商人の息子は役者ではない。男が化粧した娼婦でもない」
今日は婚姻の話ではなかった。外したな。
「……嫌だ。脱がない。化粧なんてもしてない」
◇◇◇
「コン、コン」
「入れ。少しはノックらしくなったな」
「兄さんに褒められるなんて珍しいな。どう?台本、順調?」
「必ず驚かせてやる」
「それは楽しみだ。頑張れよ」
僕が書いて演じる芝居で納得させられたら、劇作を認めるとあの老いぼれは言った。順調なら、こんな時間にぼんやりしてるものか。
「用が済んだら寝ろ。真似して夜更かしすると背が伸びなくなるぞ」
「それなんだけどさ。兄さん、最近まともに芝居観てないだろ?今週は気にせず遊んできたら?仕事は俺が全部やる。父上には俺から言う」
「……何だと?僕の分まで回して、その上で帳簿もやるつもりか?」
……弟に気を遣われてやっとまともに生きられる、なんて道理があるか。
だが、クィンテが二人分できると思ってるなら――いっそ、僕の人生ごと持っていけばいい。どうせこの家にふさわしいのは、もともとあいつの方なんだから。
「おいおい、変なこと考えてるだろ?……まあ全くないとも言えないけど?兄さんの芝居、観せてくれるんだろ?だったら俺が働くのはその代金。差額はまけてよ」
「……ありがとう。じゃあ来週は僕が代わる」
「いいね!ちょうど兄さんが楽しみにしてる血の日(Dies Sanguinis)だし、思いっきり遊んでこいよ。森で迷わないようにね」
「ば、馬鹿を言うな。お前こそ早く寝ろ。本当に背が伸びなくなるぞ」
「じゃあ寝る!今日は兄さんのベッド使っていい?」
「自分の部屋に戻れ。……トガ置いていけ、繕ってやる」
血の日……久しぶりだ。
かつての自分を自ら壊し、神聖な熱狂へ身を投げる――悪くない。
……これ、芝居に使えるか?
◇◇◇
「おやおや、これはガイウス・アティリウス・マルケッルスじゃないか!ますます綺麗になったねえ」
「ご無沙汰しております。ガッルス(祭司)殿が覚えていてくださって光栄です」
「あらまあ、旧知の仲だろう?テュルススと呼んでくれればいいのに。忘れっこないさ——血日の儀礼、私の去勢に見惚れていた坊やを」
「……こほん。テュルソス、今日は少し伺いたいことがあって来ました」
「何だい、ついに決心したのかい? 女神の栄光に仕える者のひとりになるって?」
「違います!!僕は……むしろメルポメネーとバッコスを信じています。ただ、聞きたいんです。あの日……あなたは一体どんな気持ちだったのですか。ガッルスになる儀礼は、アッティスに倣うものなんでしょう? 僕はアッティスの物語をもとに芝居を作りたくて、だから知りたいんです」
「なるほどねぇ。じゃあ、君はどう思うんだい?」
「衝動……とか?狂熱、とか」
「あらあら、どうして衝動なんかで済ませられるの?あれは至高の歓びだよ。味気ない退屈な日々に永遠の別れを告げ、何の意味もない青春も、婚姻も、未来も、まとめて女神の山野に葬り去る。なんて鮮烈で、なんて狂おしく美しいことだろう! ガイウス、君なら分かるでしょう。君もまた、美しさの分かる人だもの」
「……少しなら、分かる気もします。でも、そうして聞くと喜劇みたいですね?」
「そうかもしれない。けれど、もしかするとアッティスになった少年は、そもそもアッティスになりたかったわけではなかったのかもしれないよ」
◇◇◇
波高い大海原を素早く走る船に運ばれアッティスは、
プリュギアの森へ焦り待ちきれぬ足取りで向かってゆく。
鋭い燧石でその身の重荷を断ち切り、
女神の木々が覆う暗がりへさまようために。
キュベレー、偉大なる神母よ! どうか私の男らしさをあなたに捧げさせてください!
激しい瀬も、荒ぶる波も耐え忍び、
故郷も、財産も、友も、両親も捨て、
広場も、パライストラも、競馬場も、闘技場も捨て去りましょう。
キュベレー、偉大なる神母よ! どうか私の男らしさをあなたに捧げさせてください!
賢い弟とともにここへ参りました。どうかこの神聖なる儀礼を、血を分けた者の手で成させてください。
愛しい弟よ、恐れるな、ためらうな。
私は故国の方角を見て心を迷わせるだろう。だがどうか必ず、燧石で股間のその身の重荷を断ち切り、この雄を取り去ってくれ。
我が家の門には客が絶えず、広間の宴は春のように賑わっていた。だがそれも今やすべてお前のものだ。
私はもはや帰路に与ることはない。どうか私を、女神の山に迷い込んだ羔羊とならせてくれ。
「……こほん。少し妙な改作をした。執行する側の役を切り出してみたんだ」
「あはは、俺はけっこう好きだよ。いかにも兄さんのアッティスって感じで!弟の役は、俺にやってほしいってことですよね?」
「えっ……てっきり、酷評されるものと思っていた。お前がやってくれるならもちろん助かるけど……本当に?」
「もちろん。『アッティス』の芝居だろ? 今さら気にすることなんてないよ。もっとも、兄さんを去勢するまたとない機会を逃したら次はないけどね。へへ」
「クィンテ、お前って案外、僕と同じくらい性格が悪いな」
「褒め言葉ありがとう!本気で言うけど、父上をあっと言わせたいなら、俺も手伝った方がうまくいくだろう? だから当然やる」
「……ありがとう。また世話になるな」
劇は書き上がったぞ。お前の自慢の末っ子まで一緒になって、僕の馬鹿騒ぎに付き合っているとは思わなかっただろう?その顔、なかなか味があるじゃないか。
「さあ、着きましたよ、敬愛する兄上。ここが女神の森です。いざ、儀の時です」
僕の懇願を無視して、ためらいなく僕のチュニックをはだけさせ、燧石を股の根元に当て、勢いよく振り下ろした――って、おい、本当に演技だよな? 皮膚ひとつ切れてないじゃないか。つまらない。
ともあれ、上演は無事に幕を閉じた。老いぼれ、どうだった?
◇◇◇
来るなって言われたって、見物くらいする。
みんな前へ前へ押していくから、僕もつられてぎゅうぎゅうの中へ入っていく。前の人はどんどん歩くし、後ろの人はどんどん押すしで、肩がずっと誰かにぶつかる。太鼓はうるさいくらい鳴っているし、笛もきんきんして耳が痛い。でも、そうなればなるほど、僕はもっと前へ行きたくなる。
この先に、きっとすごいものがある。
あ、いい匂い!
甘い。家でお祈りのときに焚く煙みたいな匂い。でも人が多すぎて、まだ何も見えない。大人たちの腕のあいだから無理やりくぐっていくと、危うく足を踏まれそうになる。
――あっ。
祭司の中に、僕と同じくらいの年の兄さんがいる。
半袖のチュニックに、金色の飾り帯、真っ赤なプリュギア帽!どうして僕は、紫の縁が一本ついた白いトガしか着ちゃいけないんだろう。
僕はその兄さんをじっと見て、瞬きするのも忘れる。家の中はいつも静かで、聞こえるのはせいぜい父さんの声くらいだ。でも、ここは違う。あちこちで人が動いて、あちこちで音がして、あちこちが色だらけだ。みんな急に生きものになったみたいだ。
太鼓はどんどん速くなる。笛はますます高くなる。祭司の兄さんも、どんどん速く踊る。手が震えているのが見える。すると急に、僕までぞくっとする。うっかり蛇を踏んづけたときみたいに。
……え?
血だ。
祭司の兄さんの血が飛んできて、僕の白いトガを赤くする。
血だ。いっぱい。いっぱい……いっぱい。
これ……これ……切っ……たの?
祭司の兄さんはチュニックを脱ぎ捨てて、代わりに黄色のストラをまとう。明るいその目は、灯火よりもずっとまぶしい。
どん、どん、と鳴る太鼓の音は、ひとつ鳴るたびに重くなって、まるで胸の上を何度も踏まれているみたいだ。
◇◇◇
「兄さん、楽しかった?」
「うん?ああ、もちろんだ。ありがとう」
「本当に? でも俺には、まだ物足りなさそうに見えるけど」
「……そうかもしれないな。この日が本当に来たとなると、まだ少し現実味がないだけだ。あの老いぼれの前で、本当に演じてみせたんだからな。認められるかどうかも、じきに分かるだろう」
「ああ、でも俺が言ってるのはそういうことじゃないよ。本物、試してみる?切るんだよ、あれを」
「……」
「…………え?」
「別に『アッティス』の演技じゃない。本当は兄さん、全部俺に譲りたいんだろ? 俺ももらっちゃうよ。兄さんの尊厳から始めて。どう……試してみる?」
「クィンテ……何を言ってるんだ?」
「父上はまだ迷ってる。けれど、俺が切ってしまえば、この家はたぶん兄さんを置いておけなくなる。そうしたら兄さんは堂々とガッルスになれる。音楽も、狂騒も、綺麗な服も、思いのまま。飽きたら、また俺が迎えに来てもいい。まあ、が亡くなってからだけど」
「たぶん市民権は失うだろね。どう?俺に任せる?」
「……やっぱり無理だ。お前の評判に関わる」
「ごめん、本当に嫌なら、俺の勘違いでした。でも、ただ俺の評判の問題だというなら、俺は父上ほどそんなものを気にしていないよ。……じゃあ質問を変えるね」
「もし俺自身が、兄さんを去勢したいと思っているなら、いい?」
◇◇◇
「よーし、それじゃあ兄さん、どう始めようか?まずは俺が味見してあげようか!」
「……は?ダメだ。いくら何でも、僕たちは兄弟だぞ。切るなら、さっさと切れ」
「えー? でもこれが最後のチャンスだよ? 兄さんだって奴隷で発散することもないのに、このままじゃ勿体ないじゃないか」
「何が勿体ないんだ、そんなものに興味は――」
「――じゅっ」
「うわあああああああああ!!」
斜めに走った不格好な切り口が、僕の陰茎の三分の二を誇らしげに宣言した。だが燧石はその新鮮な切り口を滑り落ちるように左へ逸れ、ぶら下がったままの肉棒がかろうじて繋がっている。
「うわ、ごめん! 大根と違って手応えが分かりにくくて、ちょっとズレた!」
クィンテは先端をつまみ上げ、断面を引き伸ばす。
「ぐちゅ、ぐちゅ。ごり、ごり。ぷちっ――ふぅ、ようやく取れた」
ついさっきまで自分の体の一部だったものが、血にまみれて切り離されているのを見ていると、まるで夢のようだった。
「傷口、ちょっと汚くなっちゃったね。兄さんには悪いけど、とりあえずここまでにしておいたよ」
「…………は?」
「俺、兄さんを姉さんって呼びたくはないからね。それに、あの二つを残しておいた方が、欲だけあって発散できない苦しみの方が面白いじゃないか!兄さんは悲劇が好きだろう?こっちの方が似合うよ。……それより、味見するね」
「……ちょ、待て」
「ん――あーん。……うわ、まずい。臭いし、生臭いし、血の味まで混ざってる」
「お前……何をしている!!やめろと言っただろう!」
「ん?『兄さん』には何もしてないよ。『これ』はもう兄さんじゃない、ただの肉だから。……どう、一緒に食べてみる?」
「そんなわけ――」
「相談してるわけじゃないよ? 今は儀礼の最中なんだから。『愛しい弟よ、恐れるな、ためらうな』――そう言ったのは、兄さんだろう?」
かつて自分の一部だったものの片端を、クィンテは口に咥えたまま差し出してくる。唇と舌が、何度も弟のと触れ合わされる。
……ひどい味だ。
シーソーシーソーのように押し返せば押し返される。何度繰り返したのか分からない。やがてクィンテは飽きたのか、一歩引いて、それを手のひらに戻した。チュニックを脱ぎながら、にやりと笑う。
「うわ、唾だらけ。……それにしても兄さん、見てくれよ。これ、俺のより大きい」
左手の燧石を今度は自分に当てて、クィンテが言う。
「これも切っちゃうか。兄さんがやる? それとも俺が?」
「やめろ……それをやったら、アティリウス家は終わりだ」
「それもそうだね。じゃあ、代わりに味見してくれよ。じゃないと俺が切るよ~」
「……それは、脅しのつもりか?」
「違うよ。本当にもう一本切るのも構わないし!」
「………………」
心の中で何かがひっくり返る。狂ったような葛藤の末、クィンテの提案に従った……最悪だ。
クィンテは頬を赤らめ、どこか満足げに体を震わせる。脈打つたびに、粘ついたものが喉の奥に叩きつけられる。
「じゃあ、これ食べちゃうね!」
僕が反応する間もなく、クィンテな右手に持っていたものを口に放り込み……ゆっくりと咀嚼する。
「クィン……テ……」
「やっぱ、まずいね」
◇◇◇
「ガッリに加わりたい? あらあら、ガイウスくん、冗談が上手くなったね。あなたは自分で去勢したわけでもないし、血の日の正式な儀礼でもない」
「欲しかった芝居、今ので十分に演じられているじゃないか」