20世紀のはじめに出版された、ジョン・エドワーズというイギリス人の実体験にもとづく旅行記が残されている。この中に、エチオピアやスーダンでの奴隷取引の実情に触れた部分が何箇所かある。その中でも衝撃的な、実際に少年奴隷を去勢するところを、目の前で見た記録があるので、ここに紹介してみたい。
◆エドワーズのアビシニア物語◆
私は、1905年に鉱山の調査のためエチオピアに入国した。そして、調査開始から1ヶ月後に、アビシニア地方の「タワシャー」という名の町に泊まった。町の名の意味を聞くと、それは町の中心にある政府公認の奴隷市場に由来するという。そこで、私は案内人のヌルと共にでかけることにした。
奴隷市場は、石や土や木でできた十五ほどの建物と、それに囲まれた広場からなっている。そこには白人を始め、地元の黒人やユダヤ人、インド人、中国人などの仲買人が十人ほどいてそれぞれの店をもっている。
ここでは、五日に一度市が開かれ、訪れた日はちょうどその日であって、朝から、部族間の抗争で捕らえた捕虜を何人も連れてきて金に替えようとするどこかの酋長、所有していた女奴隷から生まれた子供が不要なので売りにきた農場主、債務の返済のために自ら奴隷に身を落とそうとする男、時には生活苦により自分の子供を売りに来た父親などが集まって、ごったがえしていた。
仲買人の中で、この日の当番の黒人の男が、これらの連れられてきた奴隷を順番に並ばせて、次々と「せり売り」にかけている。このせりで、最も高い値段を告げた仲買人が、その奴隷を連れてきた者に金を払って、所有権を得ることになるのだ。
仲買人は、買い取った奴隷を自分の店に連れて帰り、檻に入れたり、鎖で繋いだりして陳列している。そして、奴隷を手に入れたい客がその回りを取り囲んでいる。そして、何人かは仲買人と値段の交渉を始めている。
そのあと、私は大変興味がそそられることをヌルから聞いた。せり落とした奴隷が、4歳から20歳前後までの少年や青年であると、より高価な特別のルートに乗せて輸出することができるように、身体を『アルターレーション(変更・加工)』されるとのことだが、ヌルの英語が不確かなため、具体的なことはよく分からない。
そこで、この日シンパと名乗るエチオピア人の仲買人が、15人の少年や青年の奴隷を買ったで、その店へ行ってみた。シンパは、自分の店の前に着くと、両手を後ろで縛られたままの奴隷たちを横に一列に並ばせた。そこで私は始めて気がついたが、このうちの3人は、10歳から14歳ぐらいの黄色の皮膚と真っ直ぐな黒髪をした東洋人の少年であった。そして、更に驚くべきことに、他の奴隷のうち1人は8才ぐらいの茶色の髪の白人少年で、1人はやはり17歳ぐらいの金髪の白人青年であった。
15人の青少年が整列すると、シンパは、手下に命じて奴隷の下半身の衣服を全て下ろさせ、自分自身で、少年や青年の奴隷の『局部』を触って何やら点検し始めた。白人や東洋人の少年は恥ずかしさで顔を赤らめている。一通りの確認がおわると、シンパは、その中から、東洋人2人、白人2人を含む9人を指して、手下にこれらの奴隷を「ヘーキーム」の所へ送るように指示した。
私は選ばれた奴隷と残された奴隷を見比べて、選ばれた男の子はすべてまだ『陽根』の包皮が亀頭を被ったままで剥けていない「包茎」の持ち主であり、残された男の子は、割礼を受けたのか自然にかは別にして、常に亀頭を露出していたことに気が付いた。ヌルによるとヘーキームとは「肉裂き屋」という意味で、どこの奴隷市場にも、必ず2・3人のヘーキームがいるという。
「ヘーキーム」の所へ送られる奴隷たちに付いていってみると、シンパから依頼を受けたヘーキームは、その奴隷をいったん店の柱に繋いだ。店先には、大勢の見物人が集まってきた。そこには、大きく背もたれを倒し、半臥の姿勢で座るらしい大小様々な「いす」が、四脚ほど置いてあり、このいすの背もたれや脚には、手首、肩、足首、大腿、腹部、首などを固定すると思われる皮のベルトがたくさんついている。
シンパから依頼を受けたヘーキームは、その奴隷をいったん店の柱に繋いでおいた。そして、奴隷を1人づつ順番に店先に連れ出されてくる。
最初に連れ出されたのは、4歳ぐらいのニグロの少年である。少年は、いったん縄を解かれたあと、体に巻き付けた上着と、赤い褌をはずされ全裸にさせられた。そして、ヘーキームの徒弟3人が、例のいすの一番小さいのに座らせ、両足を開いて恥部を丸出しにした姿勢にして、ベルトで拘束した。少年の『コック』は、まだ本当に幼くて小さいが、ヘーキームは容赦なく細い毛糸で陰茎も陰嚢も一緒に縛ってしまった。
このあとどうなるのが、固唾を飲んで見守っていると、ヘーキームの親方が剃刀を持ってきて、無雑作に一振りで少年の小さな褐色の『ジュニア』を切除してしまったのである。少年は叫び声をあげて気絶してしまい、傷口からは次々と血が吹き出してきたが、徒弟は慌てることなく、コックが切断された跡の尿道に金属の針金を差し込んだ。
私は、思わぬ展開に茫然としていた。ヌルが述べた奴隷の身体に加える『アルターレーション』とは『キャストレーション(去勢)』のことだったのである。
ヌルによると、ヘーキームというのはこの市場で『加工』を専門にしている職人だそうだ。そして、「タワシャー」という町の名前は、「去勢された奴隷=奴隷の宦官=宦奴」を意味するのだと教えられた。
気絶したままの少年が運び出されると、次は、先程の17歳ぐらいの白人青年の番である。青年は、ズボンにシャツという西洋風の服装で、どのような事情で奴隷となってしまったのが不思議であるが、市場に何人もいる白人も平然としており、白人少年が奴隷として売られて『加工』されるのも特に珍しいことではないらしい。
徒弟は、白人青年の衣服を脱がせ、公衆の目の前でパンツも剥ぎ取った。そして、今度は一番大きな施術台の上に、少年の身体を大股開きになるように縛りつけて、青年の『恥ずかしいところ』を大きく剥き出しにした。この青年の『男の象徴』は、既に大人と同様になっていたので、ふさふさした金色の恥毛を剃刀で剃り落とした。
青年の白い『バナナ』は、さきほどの幼児と違って巨根であったが、恐怖で哀れなほどちぢこまっていた。そこで、徒弟が、『ファルス』全体を根本から布でぎりぎりと縛りあげたので、ちぢこまっていた『ポール』もエレクトして、さらに長くて太くて立派な姿になった。
青年はフランス語で私にしきりに何か訴えていたが、ヘーキームは動じる様子もなく、先の少年の時よりはるかに大きい薄刃の刀を持ってきて、緊縛して切りやすくした青年の『シンボル』を一気に切断してしまった。もはや、単なる肉の筒と皮の袋となった青年の『大事な物』が、下の地面に落下すると、前の幼児とは比較にならないぐらいの多量の血が、大きな傷口からおびただしく流れ出て、青年の白い肌を伝わり、切り離された『一物』と地面とを染めていった。
この後、同じようにして、もう1人の白人の少年や東洋人の少年も次々と手術用のいすに乗せられ、他のニグロの少年と共に、陰茎も陰嚢も同時にすっぱりと切除されていったのである。
それから3日して、再び このヘーキームの店を訪れてみた。見ると店先に、切断された男性器が九つ、露天干しにされている。その中の2つは白い皮膚で二つは黄色い皮膚の持ち主のものであったと思われるところから、3日前に私の目の前で災難にあった少年たちのものであることは間違いなさそうだ。
ヘーキームの親方に頼んで、店の中へ入って、奥へ進んでみると、先日去勢された9人の奴隷たちは、店の奥の腐敗臭が漂う狭い部屋の、固い木の台に、全裸で頭を奥にして仰向けにされ、手足も胸も腹もベルトで縛られて、横に一列に寝ていた。
手首は隣の奴隷の手首と、足首は隣の奴隷の足首と結び合わされ、結果的に身体は大の字になっており、入口から入っていくと、自然に股間に目がいってしまう。見ると、当然ながら『股間の突起物』は何も残っていない。ただ手術の最後に差し込んだ栓が、あたかも失われたモノの小さい代用品のように、まだ血や膿が止まらず、醜く痛々しい傷口から少しとびだしている。
ヘーキームの親方によると、手術後の3日間は飲み食いは一切許されず、傷の痛みと渇きで非常な苦痛を味わっているのだという。陽根を切除しても尿道が潰れることのないように手術の最後に尿道に針金で栓をしているが、今日はちょうど、差し込んだ針金を抜く日だそうだ。
少し待っていると、徒弟がやって来て、既に男でなくなった9人の奴隷の栓を次々と抜いていった。栓を抜くと同時に溜まっていた尿が噴き出して、庭園の噴水を見ているような気分にさせられたが、部屋の異臭はますますひどくなった。
親方の話によると、今回行った去勢手術は、去勢奴隷即ち「宦奴」のうち『素裸』(アラビア語で「エス・センデリー」、ラテン語で「エヒテー・カストラチー」)といわれる、生殖器の一切を除去され男性機能を完全に失った奴隷をつくり出すもので、宦奴のうちこの『素裸』が一番高く輸出できるため、仲買人の要望もほとんどがこのタイプの手術であるという。
特に、既に大人の性器を持った青年は、コックはもちろんホーデンを残していても、宦奴としての商品価値がないため、専らこの『エス・センデリー』にする手術のみが施される。
また、遠く東の宦官の本場である中国までも輸出することがあるが、その場合は、年令にかかわらず「男茎」も「玉袋」もきれいに切除しておかないと『宦官』として扱われないため、同様に『素裸』にされることになっているということだ。そこで、15歳以上の青年は全員が、14歳以下でも8割の少年はこの方法で、男性自身をすっぱりと切除されるのである。
しかし、この処置は非常に危険で、最終的に市場に出る者の数は、手術した者のせいぜい6割ということだから、時には『玉抜き』(アラビア語で「エル・ゲジース」、ラテン語で「スパドネス」)と呼ばれる、少年のスクロタム(陰嚢)を切り開き、両側のテスティクルズ(睾丸)のみを取り除く処
置がとられることもある。
思春期前の少年をオーキエクトミー(オーキス《睾丸》を取り除くこと)すると、仮にペニスは残しておいても幼いままで成長せず、性衝動も無く、勃起もしないので、ハレムの女相手に罪を犯す心配がないというわけだ。ただし、声変わりしていると“正式の”『エル・ゲジース』と認められず、しかも万が一の心配があるため商品価値が低く、手術の歩留りは良いが儲けが少ないため、少年が9歳未満の場合に、稀に行われるだけであるとのことだ。
もう一つ、『切り縮め』(アラビア語で「エル・デルブル」)といい、少年のバナナのみを切断する処置があるが、危険度は『エス・センデリー』の場合とさほど変わらないのに、『ボール』を残すことにより『エル・デルブル』の宦官としての商品価値がかなり落ちるため、依頼されたことはないという。
更に、親方が話すところによると、奴隷で去勢されるのは、ニグロ、東洋人、白人に限られており、アラビア人の少年は対象にならないという。なぜかというと、コーランがイスラム教徒の去勢を禁止したため、やむを得ず、原始宗教やキリスト教の信徒を奴隷にした上で、まず『肉体の最も神聖な部
分』を奪い、その後にイスラム教へ改宗させる手順を踏む必要があるからとのことだ。
そこで、仲買人のシンパが、奴隷の性器の形状にこだわった理由と、切断した性器を陰干しにしている理由が判明した。宦奴をアラビアやトルコに売る時には、証拠品として“割礼を受けていない”つまり『包茎のまま切断』した男性器を持っていく必要があり、ヘーキームが常に公衆の面前で手術を
行うのも、ごまかしがないということを見せるためなのだという。もしも去
勢された少年が白人だと、非イスラム教徒であることが明白という理由と希少価値から、ニグロの少年宦奴の3倍以上の値段で売買されるのだそうだ。
私は、更に3ヶ月たってから、三たび奴隷市場を訪れた。ヘーキームの親方の話によると、この前、宦奴となった9人のうち、出血と炎症に耐えて生き残り、傷も治癒してシンパの店に返還された者は6人であったという。これは『素裸』手術が、死亡率4割ということからすると、決して悪い結果ではないと自慢していた。そしてその間に死んだ少年は、貨物馬車に乗せられて、ナイル河に捨てられたとのことだ。
気になっていた白人の2人と東洋人の2人は、いずれも生き残ったとのことなので、私はフランス語の通訳を捜し出して、シンパの店に寄ってみた。すると、東洋人の2人の少年は既に店にはおらず、三日前に市場のすぐ横を走る鉄道の家畜用の貨車に乗せられ、ペルシャかアラビアへと売られていったあとであったが、17歳の青年と8歳の少年の話を聞くことができた。
17歳の青年は、ポーランド人で、フランス語を覚えて、スーダンの南にあるフランス領赤道アフリカに出稼ぎに来ていて、悪い仲間に博打に誘われ、次々と借金をつくってしまい、自殺も考えたが、仲間に「死ぬよりはこうしたら」との勧めにのり、自らを奴隷に身を落とすことにした。こうして、遂には借金を帳消しにしてもらうために、仲間によってこうして奴隷として売られてしまったとのことだった。ところが、一生涯の労働は覚悟していたが、まさか去勢されてしまうとは思いもよらなかった。仲間も教えてくれなかった。アフリカなどへ来なければよかった。でも、こんな恋愛も結婚もできない不具の身体では、もう故国へ帰りたくないといっていた。
8歳の少年は、ブラジル人の両親の間に生まれたが、まもなく両親が事故死したため、父の友人に育てられた。しかし、その友人は、少年の国籍も確保せず、農園で奴隷同様に使役しただけでなく、手がかかるようになると本当の奴隷として、ここの市場へ連れてきて、売り払ってしまったのだという。
シンパによると、市場全体で1年に2千人ぐらいの奴隷を売買しているが、そのうち去勢して売り払うのは2百人ぐらいで、年に10数人は白人の少年も扱うこのことであった。白人の少年や青年は包茎が多いので、白人の若い男が奴隷として売られると大抵は去勢されるとのことだ。そして、彼ら(も
う男ではないので「それら」というべきか?)2人も、まもなくアラビアかトルコに送られるとのことだった。
既に売られてしまった東洋人のカストレイティド・ボーイ(去勢少年)2人について聞いたところ、書類によると、10歳の少年は福建省出身の中国人であり、14歳の少年は琉球か薩摩出身の日本人で、幸い自然に亀頭が露出していたため去勢されなかった12歳の東洋人の少年の兄であるという。つまり、兄より弟のほうがなぜか性器が発達していたため、皮肉な運命になったということだ。
なお、3人の東洋人は、いずれも同じイギリス船の船長に騙されて、ここまで連れてこられたと思うとのことだった。
【1915年改訂版にあたり編集者ジョージ・ゴードンによる追記】
奴隷の輸出先として、当時有望であったのは、アジア各地であった。回教圏の王室で使役される奴隷は、相当数に上っていた。その中でも特に重要であったのは、ハレムの女を監督する者である。
しかし、奴隷に不信の念を拭いきれない王族の男たちは、女に貞節を守らせようとして、一番妥当でしかも安全な方法をとった。奴隷を「無性」、つまり宦官にして、ハレムの番人に使ったのである。回教圏の宦官の需要は相当数に上ったらしく、1911年、コンスタンチノーブルだけで宦官の人口は2千人を超え、エクスサルタンのアズブル・ハミットは、3百人以上の去勢者を使用していたという。
膨大な宦官の需要を満たすため、近世にはスーダンの他、ヌビアやアビシニアが宦官の主産地となり、毎年八千人からの宦奴が、これらの地方からアラビア、トルコ、エジプトなどの中近東はもとより、遠くインド、中国まで輸出され、クリミア戦争の頃まで、これらの去勢者は品物同様に売買されていた。
宦奴製造は、隣国スーダンでは、イギリスがエジプトを占領し1890年ブラッセル条約ができた後で禁止されたが、19世紀の末頃まで依然として半ば公然と行われていたという。その後、1910年に、アビシニアの奴隷市場も閉鎖されたされたが、今日も、なんとこのヘーキームは営業を続けている。奴隷を使えなくなったものの、イスラム諸国の去勢者の需要は依然として多いのである。
そこで、マホメットを生んだ国の王宮に雇われてそこで莫大な富を得ようとするキリスト教国アビシニアの男は、今は自由な意思によってこのヘーキームの手術室を訪れ、わざわざ金を払って自分を去勢してもらい、切断の傷が治った後でトルコやアラビアへ向かうという。そしてヘーキームも客商売となってから、西洋医学をとり入れて、化膿防止の消毒や傷口の縫合も行うようになり、現在は「患者?」が死亡することはほとんどなくなり、莫大の特別料金を払えば、貴重で高価な麻酔薬も使ってもらえるとのことだ。
(終)
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投稿:2006.01.02更新:2022.07.19
エドワーズのアビシニア物語
挿絵あり 著者 名誉教授 様 / アクセス 40549 / ♥ 48