男の奴隷は、ペニスを睾丸ごと切除する。
これが常識になったのは一体いつのことだろうか。
もはや、そのことを覚えているものは、誰ひとりとしていない。
その理由について、ある者はこう言う。
「とある金持ちの家の娘と、奴隷が駆け落ちをしようとしたから」
別の者はこうだ。
「その家の女房と懇ろになったからだ」
他の者たちに聞いてみると、
「家畜だって、繁殖に使わないものは去勢するのだから当然」
「女にうつつを抜かしたり、センズリの味を覚えたら仕事に使えない」
「だから、ションベンくらいしか使い道を知らないうちに斬る」
「そもそも、奴隷の分際でそういうことがしたいなんて生意気」
「もう一生奴隷なのだと思い知らせるためにも斬る」
「奴隷の分際で、立派なものをぶら下げているなんて生意気」
「他国から買った奴隷なら、なおのことそいつの血を混ぜたくない」
「ちょん斬られて泣き喚いてるところを見るとスカッとする」
「生かしてやるだけありがたく思え」
とにもかくにも、皆の意見は一致してこうなのだ。
「奴隷に、竿とキンタマは不必要」
「男でないことが、奴隷の条件」
だから、奴隷は去勢するし、そのことについて、哀れみや罪悪感を持つ者など、一人たりともいなかった。
14歳になったばかりの町娘、リューリは、ある日街角で、一人の少年を見かけた。
年は、自分と同じか、一つか二つ上くらいだろうか。
短く切りそろえた赤みがかった栗色の髪に、はしばみ色の瞳。
ちょっといたずらっぽそうなその顔には、そばかすが散っていた。
(一体誰なんだろう。どこに住んで、何をしている子なんだろう。)
気がつくと、リューリは彼に対して、淡い恋心を抱いていた。
あの子と話をしたい。
あの子と手をつなぎたい。
少しでもいい、一緒にいたい。
自然と、そう考えるようになった。
いつも同じ時刻に、同じ通りに現れるその少年のことを、リューリは、そっと見守っていた。
それが幾月か続いたある日、誰かが、少年に、「ハルト」と呼び掛けた。
それが、彼の名前だった。
(あの子、ハルトっていうんだ…)
でも、ハルトは、たまにリューリと目が合うと、迷惑そうに顔をそむけてばかりだった。
(なぜなんだろう、あの子は、私が嫌いなのかしら。)
その時リューリは、彼が、女性であれば、それが誰であろうと親しくしようとしないことに、全く気が付いていなかった。
リューリは、両親を幼いうちに亡くしており、親代わりに自分を育ててくれた、7歳年上の兄、トトスとの二人暮らしだ。
「リューリ、お前、この頃ニケド様のところにいる男…お前と同い年か、ちょっと上くらいのあの栗毛の。あいつのこと、気にしてるだろ。」
その日の夕食時に、トトスが言った。
「え?兄さん。あの子、ニケド様の家で働いてるの?」
弾んだ声で問うリューリに、トトスは冷たい口調で返した。
「あれに付きまとったり、興味を持ったりするのはやめろ。これは命令だ。…あいつのことは、忘れろ!」
「なぜ…!?」
「リューリ。…あいつの腰に巻いてある、黄色い腰帯が判らないのか?あれは奴隷の印だ。奴隷に恋なんぞしちゃいかん!!」
「兄さん、なんでそんなひどいこと言うの!?」
目に涙を浮かべて反駁するリューリに、トトスはあくまでも冷たい口調で言う。
「あれに恋をしたらな…お前、絶対に後悔するぞ。とにかく、絶対にあいつだけは駄目だ!!」
「兄さんの分からず屋!奴隷だって人間じゃないの!!」
「そういう意味じゃない、リューリ、最後まで話を…!!」
リューリは、トトスの言葉を無視して居間を駆け出した。
トトスは、それを、困惑した目で見つめていた。
今日こそは声をかけよう、今日こそは親しくなろう。
リューリは、トトスがなんと言おうが、あの少年…ハルトと親しくなろうと決心していた。
腰まで伸ばした亜麻色の髪を念入りに櫛で梳いた。
爪紅草で爪を染め、香草の葉で燻した服を着た。
それから、野に咲く花を摘んで作った花束と、染め上げた革紐で編んだブレスレットを用意した。
これをプレゼントしたら、あの子は一体、どんな顔をするだろうか。
喜んで受け取ってくれるだろうか。
そうしたら…
親しく、なれるだろうか。
少年がいつも通りがかる頃合いを見計らって、リューリは街角に立った。
通りの向うから、黄色い腰帯の少年が現れる。
彼の顔は、リューリを見た瞬間から、すでにこわばっていた。
「ハルト…!!」
駆け寄るリューリを無視して、ハルトは足早に立ち去ろうとする。
リューリは、思い切って、彼の二の腕をつかみ、花束とブレスレットを押しつけた。
「私、あなたのことが、ずっと好き…」
「うるさいっ!!」
ハルトは、リューリの言葉をさえぎるように叫んだ。
「俺はお前なんか大っきらいなんだよ!!」
叫びながら、花束とブレスレットを地べたに叩きつけると、土足で踏みにじる。
彼の形相は、完全に変わっていた。
「もう二度と、俺の前にしゃしゃり出るんじゃねえぞ!声もかけるな!消えろ、消えろ!!おまえなんか消えっちまえ!!」
ハルトは、獣のようにそう吠え散らした。
彼が立ち去った後には、ずたずたに踏みつけられた、リューリの贈りものだけが無残に散らかっていた。
ベッドに泣き伏すリューリの背中に、トトスが声をかけた。
「…だから、あいつは駄目だと言ったんだよ。」
「なぜ!?なぜなの兄さん!!私の一体どこがいけなかったっていうの!?なぜあんなこと言われたの!?」
「…あいつに恋をしたこと自体が悪いことだったんだよ。」
トトスは、ゆっくりと、かんで含めるようにリューリに言った。
「お前は知らなかったんだろうけど。奴隷にはな…男の証がないんだ。」
「どういうこと…!?」
トトスは、言葉を続けた。
男の証というのは、男なら股間にぶら下げていて当たり前のものだということ。
男の証がないということは、どれほど心の中で自分が男だと思おうが、周りが男と認めないということ…立ちションもできないし、子供も作れない。女の中の味も永遠に知らないということ。
女に好かれたり、好きになったりするということそれ自体が、自分は男ではないし、男に戻れないという残酷な現実を叩きつけられることだと。
「私、そんなことなんて、全然気にしないのに…」
「お前が気にしなくたって、相手は気にしてるんだよ。お前に意識されてる。そう気付いた瞬間から、あいつは、心の中で泣き喚いてたんだ。お前が、自分を好きだと気付いた瞬間から…な。自分の心は男でも、体はもう男じゃないんだという現実と、かつて男の証を持っていたという記憶と、その両方に打ちのめされながら。」
トトスは、リューリの肩に両手を置き、言葉を続けた。
「奴隷に恋をしちゃいけないってことと、その理由を、お前に教えなかった俺も悪かった。最初にそれを教えておきさえすれば、お前とあいつに、こんな思いをさせずに済んだんだ。お前が奇麗じゃないとか、人に好かれない性格だとか、そんなことじゃないんだ。むしろ、お前が、奇麗になったり、相手に好かれるような性格になったりするための努力をすること自体が、あいつを傷つけるんだ。…あいつのことが好きなんだろ?なら、諦めてやれ、そして忘れてやれ。それが、あいつのためなんだ。俺も男だから、あいつの気持ちはよくわかる。あいつの、男としての心を、これ以上踏みにじりたくないというのなら…判ってやれ。」
「…判った。兄さん、ごめんなさい。私、あの子の気持ちなんか、全然考えてなかった。」
顔を上げ、振り返ったリューリは、そう言いながら、こっくりと頷いた。
その頃、ハルトもまた、奴隷小屋の片隅で泣きじゃくっていた。
石畳を叩きながら、声を張り上げて。
男だった頃のことを思い出しながら。
男の印を誇り、大切にしていたことを。
それを、付け根から斬り落とされた時のことを思い出しながら。
ルカやロコとその父のことも恨んでいない。ニケド様の要求を呑まざるを得なかった自分の父親のことを憎んでいるわけでもない。
こうするより他には全く道がないことくらい、もう判り切っていた。
恨んでも憎んでも、仕方がないことだと。
ただ…
その、「こうするより他のない道」のために、自分の男の印を永久に失う羽目となったこと、そして、皆がそれを当然だと思っていることが悔しくて悲しくてたまらなかった。
実は、ハルトの方が、先にリューリに恋心を抱いてしまっていた。
それがために、「こうするより他のない道」のことを思い出してしまった。
(女なんか、好きにならなきゃよかった…!!)
好きになりさえしなければ、何もかも思い出さずに済んだのに。
好きになりさえしなければ、相手を傷つけずに済んだのに、と。
未練をふっ切りたいがために、相手に対してひどいことを言った自分が、情けなくてたまらなかった。
あんなこと、言いたくなんかなかった。
贈り物を受け取って、「ありがとう」って、笑ってお礼を言いたかった。
「俺もお前の事が好きだ」って言いたかった。
あの子と手をつなぎたかった、抱きしめたかたった…
でも、自分には、もうそういうことを望む資格さえすら、男の印もろとも永遠に失ってしまったのだ。
それが、現実なのだ。
ハルトは、自分自身に、そう言い聞かせ続けた。
再び顔を上げたハルトもまた、あの子のことはもう忘れようと心に決めた。
二人の間に芽生えた淡い恋は、こうして、はかなく散ったのだった。
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投稿:2011.01.08更新:2011.01.15
初恋
著者 真ん中 様 / アクセス 15957 / ♥ 71