2章へもどる
−−−−−
3
紫獣の狩りの季節が訪れた。大人になると人の背丈の二倍ほどの高さになる鋭い牙を持つ六本足の大きな獣は、群れを作って谷から丘へと移動する。そこをうまく誘い寄せ、一頭を群れから引き離して仕留めるのだ。
獲物の動きは早く、油断すればその牙にズタズタに切り裂かれる。しかし、一頭でも捕まえれば、当分は食料に困らない。『黄金』は颯爽と仲間を引き連れ、村を立った。
『暁』も紫獣の狩りは得意であったが、今回は子の大事を取って村に残るように命令された。残念な気持ちはあるが、予想していた事でもあるし、何より『暁』自身が、子を危険にさらす事を避けたかった。当然ながら、狩りに出る者に危険は伴う。しかし『暁』は、『黄金』の強さを信頼して待った。
小屋の外では『流水』と『若葉』が、毛鹿の上に乗って遊んでいた。乳を取るための去勢鹿なので、振り落とされる心配は無い。おっかなびっくりの『流水』をはげましながら、後ろから角に結んだ紐を引っ張り、『若葉』が進む向きを操る。
「オッサンより乗りやすいだろ?」
「長様と毛鹿を一緒にしちゃダメです」
『雫』は中で例の若者の様子を見ている。あれから峠は越えて回復し、命の危険は無くなったが、元の状態がひどかったのでまだ自由に動き回るには少し足りない。それでもヨタヨタと立ち上がることはできるようになっていた。ちゃんとした栄養を取っていたなら、もともとそれほど貧弱な肉体ではなかったのだ。『影』の虐待で、そう悪くない人材がダメになってしまったことを、『暁』は苦々しく思った。
彼はやはり子供が産みにくい身体になったことについてはショックを受けていたが、明らかに待遇が改善されているので、ある程度は落ち着きを取り戻していた。『若葉』がそばにいたのも大きい。「坊ちゃん、坊ちゃん」と、何かと『若葉』に話しかけて嬉しそうにしていた。
『若葉』という新しい名前の響きも気に入ったらしい。彼らの言葉よりも、かっこよく強そうに聞こえる、というのがその理由だ。『暁』が、お前は『影』になんと呼ばれていたのかと尋ねると、彼は寂しそうに、あの人はただ、クズとしか自分を呼ばなかったと、ポツリと言った。
「ゼゼップラ、と言ったな。その名の意味は何なのだ?」
「でっかい木、です。図体ばっかり大きくて、あんまり役に立たない木」
「ならば、お前の名は『大樹』だな。うむ、悪くない」
大樹、大樹、とおぼつかなく繰り返す若者の頭を『暁』はくしゃりと撫でた。
「ゆっくり休んで身体を治せ。いいな」
「…でもオレ、何の役にも立たないのに。頭悪いし、子供も産めないし、いいことなんにもないのに…」
「そうでもないぞ。お前がここにいると、私の妻が素直に言うことを聞く。ありがたい話だ」
そういって『暁』は、腹が減ったと中に入ってきた『若葉』の頭を小突く。
「今は身体を治すことを一番に考えろ。お前は私の一族になったからな。長にも認めていただいた。死ぬか逃げるかしない限りは、大事にここに置いてやる」
「良かったな、ゼゼップラ。ヘンテコなエロいキンキラばっかりだけど、ここのメシは結構うまいぞ」
『大樹』は、涙を滲ませながら、ただうんうんと頷いた。
『雫』が数種の薬草を煎じて湯に溶いていた。独特の香りが充満する。それを器に盛ると、『大樹』に飲むように差し出す。『若葉』が鼻をヒクヒクさせながら覗き込んだ。
「ん、なんかいい匂い。うまそう」
「香茶というものです。身体の血をきれいにする効果があって、飲むと病気に強くなります。『若葉』も飲んでみますか? 身体が温まりますよ」
「へ、いいの?」
喜んで自分の分が注がれるのを待つ『若葉』とは対照的に、『流水』の反応はあまり芳しくない。
「…僕あまりこのお茶は好きでないです…」
「好き嫌いはいけませんよ『流水』」
『雫』と同じ青の一族の血を引くはずの『流水』が、『雫』の好む味を好かないというのも興味深い話である。脇で様子を見ていた『暁』にも、『雫』は椀を差し出した。
「『暁』様もどうぞ」
「うむ」
妻の作る変わった風味の飲み物を飲みながら、賑やかになった我が家を眺める。
「うまい! これうまいよ。おかわりしていい?」
「そんなに一度に大量に飲むものではありませんけれど…もう少しくらいなら構いません」
どうやら、緑の一族の舌には合致したようである。この青臭さが森の暮らしを思い起こさせるのかもしれない。『若葉』も『大樹』も機嫌よく囲炉裏を囲んだ。もうすぐこの子もあの輪に加わる。『暁』は自分の腹を撫でながら、金色の髪の小さな『黄金』が、そこに座っているのを想像して、幸せに浸った。
ある日、『夕暮』が訪れた。『夕暮』は狩りが出来ないわけではないが村に残って警備をする組をまとめているので、何かと『暁』の様子も伺いに来る。殊勝な弟であった。
「兄上、水を汲んできましたので、ここに置いておきますね」
水瓶を抱えた弟がどしりと小屋に荷を降ろす。
「いつも悪いな、私が自分でやるのに」
「構いません。兄上はすでに腹に荷を抱えられているのですから、養生してください」
「あまり甘やかされると、身体が鈍って産後まともに動けなくなる。拳闘に付き合わないか」
「お断りします。負ければ物笑いの種、勝てば長殿の怒りの種でございます。生贄は他で探してくださいませ。さあ、水でも飲んで気分を落ち着けてください」
頭を冷やせとでも言いたいのであろうか。『暁』が受け取った椀を干すのを見届けると、そそくさと退散していった『夕暮』に舌を出し、『暁』は途中まで進めていた槍の削り出しに意識を戻した。やるべきことは常に多くあり、無くなることは決してない。『雫』は『大樹』の体調をたしかめながら、小屋の掃除や料理の仕方を教えている。身体の大きな『大樹』は、『雫』の手の届かないところにも楽に手が届くし、病み上がりとはいえ単純に腕力も強い。『若葉』と『流水』は、森へ小鳥や薬草を取りに行くのが日課だ。同年代の幼子たちよりずっと優れた役に立つ子供たちである。
その時、『暁』は何やらきな臭い匂いに感づいた。何かと思いあたりを見回すが、特に変わった様子は感じられない。なんだろうか。気のせいかとも思ったが、『暁』は自分の第六感というものにもかなりの信を置いていた。小屋の中に異変が無いのを確かめると、ゆっくりと外に出る。
外に出ると、風に混じる土ぼこりの中に更なる違和感を感じた。正体を確かめるべく目を閉じて大気の匂いを嗅ぐ。何やら小屋の前で立ちすくむ『暁』を行きかう村人たちが不思議な目で見ていく。
『暁』の記憶から、何かが匂いの違和感と結びついた。
「油?」
鉄を磨く油の匂いがする。鉄は貴重な物質で、山岳地帯で主に手に入る品物だ。以前この匂いを嗅いだのは、山に砦を構える赤の一族と戦ったとき。
『暁』は見張り櫓に駆け寄ると、一気に上まで飛び上がって、山の方角を見つめた。まだ何も見えない。だが、匂いは間違いない。
「…来る」
『暁』は村の者に、警戒態勢をとるよう指示を出した。集合の笛が鳴る。何事かと村の外にいた者たちが次々に帰ってきた。『夕暮』が駆け寄る。
「いかがなされました兄上」
「山の方から鉄の匂いがする。斧か鎧か…数がかなり多い」
「鉄の斧…赤の狂戦士でございますか」
「そうでなければよいがな」
赤の一族には「性別」がある。「オス」と「メス」と「狂戦士」だ。オスは王族、腹に子を宿すことは無く、ひたすらメスを抱き続ける。メスは労働者、生まれてすぐに陰茎陰嚢を取り除かれ、子を産み世話をすることのみを命じられる。そして狂戦士、産まれた直後に陰茎を切り落とされ、陰唇を縫い合わされ、父や母となる可能性は断たれるものの、戦士として頑強な身体を鍛え上げるため、睾丸はそのまま残される。そのため気性は荒く、発散する術も持たぬため、常に狂ったような興奮状態にある。彼らは戦うためだけに生きている破壊の道具なのだ。
説得や交渉は無駄である。彼らは同属のオスの命令しか聞かぬよう調教されている。撤退の合図が出なければ、彼らは死ぬまで進軍を続けるだろう。厄介な相手だった。
ちょうど狩りの季節を狙って攻めてくるとは、手の込んだことだ。だが、たとえ『黄金』がこの場にいなくとも、この一族に敵対することがどれだけ愚かな選択かを知らしめてやらねばならない。
村の周りを囲う柵の内側に、弓と矢を用意する。木を削った矢では、鉄の鎧を貫くことは出来ないが、いくら鉄の産地とはいえ、赤の一族も全身を鉄で覆っているわけではない。頭と、胸元、そして股間の、三つの急所だけだ。赤毛の体毛に覆われた丸い腹や、関節部分、背中など、狙える場所はいくつもある。遠距離からの弓でも、重い鎧で素早い移動の出来ない狂戦士を足止めすることは充分可能だ。
『暁』の元へ『流水』と『若葉』がやってきた。ようやく森から帰ってきたようだ。
「父様! 何があったのですか?」
「まだわからんが、どうやら敵襲のようだ。おそらく山に住む赤の狂戦士。『流水』、『雫』を呼んで、怪我人の治療に備えるように伝えろ」
「父様も戦われるのですか?」
「『黄金』殿をはじめ、我らの主だった戦士たちは狩りで村を離れている。今この村で最も強い私が、ただ奥で震えているわけにはいくまい」
短く返事をして、『流水』が走っていく。『若葉』が言った。
「弓を撃つなら、隣の森からの方がうまく狙えるぜ」
『若葉』がそう言って左手の森を指差した。確かに、赤の軍勢が正面から村へ向かってくるなら横から挟み撃ちにしたほうが、相手に大打撃を与えられる。
「悪くない案だが、人手が足りんな。部隊を二つに裂いてしまうと、弓を撃ち終わって白兵戦になった後、無防備な村が直撃を受ける。一人でも多くの戦士がここを守らなければ、村を落とされてしまっては意味が無い。それに、今から敵の到着までに、うまく配置につけるとは限らない」
「オレたちならやれるぞ」
『暁』は『若葉』をまじまじと見つめた。
「一緒に戦うつもりか?」
「この村に連れてこられた緑の一族の皆を集めれば、ちょっとした小隊ぐらいの頭数はすぐにそろう。森の木の上からならここよりも高さが稼げる。オレたちだって戦士だ。接近戦じゃあんたたちにはかなわなかったかもしれないが、弓の腕なら誰にも負けない」
「今からお前に仲間をまとめて伏兵隊を率いることができるのか?」
「オレだって次期長候補だったんだ。それくらいやってみせる」
『夕暮』が二人の会話を耳にして口を挟んだ。
「悪いが、緑の民は捕虜となってまだ日が浅い。お前たちを団結させて武器を渡すわけには…」
「あんたらが負けたらオレたちは今度は山へ連れて行かれるんだろ。村はなくなったけど、オレたちの故郷はこの森だ。もう父親になれないオレたちは、ここであんたたちと一緒に生きていくしか方法が無いんだ」
「…いいだろう。緑の一族を集めろ」
「兄上!」
『暁』は『若葉』に向かって言った。
「『若葉』よ、なんとしてもお前に私の子を産ませてやりたくなったぞ。生きて戻って来い。必ず抱いてやる」
「あんたら、エロ以外に考えることはねぇのかよ。どうしようもねぇキンキラだな」
急遽緑の一族が集められ、人数分の弓矢が用意された。簡単な説明を受けた後、何かしら不満の声が上がるかと思いきや、皆アッサリと『若葉』の指示に従って隊を組む。
「いいか! 戦果を立てればそれだけ、この村でのオレたちの地位もあがる! 気合入れてこのグルグジュ様についてこい!」
すでに妊娠していて動けない者を除き、全員が長の忘れ形見に従って、あっという間に森の中へと消えていった。
やがて、土埃を上げながらこちらへ向かってくる集団が目に入った。遠くで地震のような足音がする。予想を上回る数であったが、それ以上に、圧倒的な質量を持つ存在が、その中心で異彩を放っていた。
紫色の毛皮に包まれた巨大な獣が三体、背に人を乗せて歩いてくる。
「なんと…紫獣を飼い慣らすか…」
「なるほど、子の間に捕らえ、人の命令を聞かせるのか。我らも試してみる価値はあるやも知れぬな」
絶句する仲間たちの中、一人冷静に相手の手管を分析する『暁』に『夕暮』は目を向いた。
「兄上、悠長な事を言っている場合ではございません。あのようなものが自在に操れるとなれば、押しとめることの出来ぬ脅威です」
「所詮は獣。人の言葉を知るわけでなし。毛鹿と同じよ。右や左か走れ止まれ程度でしか指示は出せまい。我ら幾度もかの生き物を捕らえ屠ったことを忘れるな。一度走り出せば奴らは曲がれんし停まれん。縦に並んで最初の突撃さえ脇にかわしてしまえば、後は槍の刺し放題よ」
不安そうな仲間たちを鼓舞するために、『暁』はあえて自信満々で言い放った。気迫で負ければ、戦う前から勝負が終わってしまう。
「しかし、それでは村の柵を打ち破られてしまいますな。守りの強みを失ったも同然。後に続く狂戦士どもに対して不利になります」
「では、我々は柵の前で迎え撃つか。あのような獣を乱戦で用いれば味方も被害をこうむる。必ず最初に獣を前に出して突進してくるはずだ。うまく獣を葬ることが出来れば、柵の後ろに引くことも出来よう」
「軽く言ってくださいますな、兄上」
『夕暮』は苦々しい顔を見せた。見るも恐ろしい怪物が目の前に現れたので、一歩前へ出てみようと言うのだ。しかし、引いてどうにかなるものではない。彼らは自分たちの村を捨てるわけには行かないのだ。
「弓の射手を一人この櫓の上へ呼べ。それから、この場所から広場の左右へ綱を張るように」
「…綱、ですか?」
「飛び降りるときのためだ。悠長に梯子をつたっていては獣を押さえ切れなかったときに踏み潰されるかもしれん。それに、今の私の身体では、そもそも梯子を降りることが出来んようだ」
『夕暮』は『暁』のせり出した腹を見つめた。
「降りることを考えずに昇ってこられたのですか」
「そう呆れたように言うな。急ぎであったのだ」
「…準備をしてまいります」
一つ大きなため息をつくと、『夕暮』はぐるぐると目を回しながら降りて行った。
赤の一族の軍は、ついに村の西方に陣を取った。少なくとも右手は森、左手は川、容易に囲まれる心配は無い。しかし、幅広く陣を展開した後、赤の勢はそこで進軍を止めた。
「何を待っているのでしょうか」
櫓に連れてこられた射手が言った。
「進軍の疲れを休めているのだろう。山の砦からかなりの距離だ。はやくに我らが接近に気づいたせいで急襲の意味も無くなっている」
「では、我々としては早く戦を始めた方が良いわけですね」
「待つだけでも緊張で体力がそがれるからな。だが、守り手としては攻め手が射程に飛び込んでこんことには…」
その瞬間、森から矢が一本、赤の陣営まで飛んだ。『夕暮』が叫ぶ。
「馬鹿な! まだ早い! 伏兵が正面から攻撃を仕掛けてどうする!」
矢はまっすぐ一頭の紫獣の目に突き刺さった。
耳を裂くような悲鳴が響き渡る。棹立ちになった紫獣は、騎手を振り落として暴れ始めた。足元にいた、赤の戦士たちが踏み潰され、いとも簡単に陣が乱れる。他の二匹の紫獣が興奮して走り出す。慌てて引きとめようとした騎手の首を、もう一本の矢が射抜いた。
おどろく赤金双方の戦士たちの前で、森の中から矢の雨が降り注ぐ。
「あの距離から、動く獣の目を正確に射抜くか…」
騎手を無くした紫獣は迷走し、残る一頭だけがこちらへ単騎で突き進んできた。後に続くはずだった狂戦士たちは、暴れる盲目の獣と降り注ぐ矢を避けるので精一杯だ。
「ふはははは! やってくれおるわ『若葉』め! さすがは森の民よ、豪語しただけのことはある。我らも負けてはおれんな。おい、向かってくる獣の騎手を狙って矢を放て」
『暁』は呆気にとられていた射手に弓を構えるように言った。
「し、しかし、『暁』殿、私の弓の腕ではあんな小さな動く的に当てることなど出来ませぬ」
「構わん。当てる必要など無い。むしろ当てるな。お前はただ奴を狙いさえすればよいのだ。そうすれば、奴はまずお前を始末するために、まっすぐここを目指してくる。足元の槍を構えた戦士たちを無視してな。かわすのがより容易になる。さあやれ!」
地面をグラグラと揺らしながら、巨大な獣が迫ってくる。本来ならば、前方の敵を蹴散らしながら迫ってくる手はずであったものをことごとくかわされつつ、赤の騎手は、せめて第一の使命だけでも果たすべしと、防御柵を打ち破る為に鞭を鳴らした。
狙い通り、獣はまっすぐ櫓へ突っ込んでくる。『暁』は隣で震えながら弓を構える射手を突き飛ばした。
「もう良い。綱をつたって降りよ!」
そういって自分も拳に革を巻き付け、張られた綱をつかむ。
戦士たちは、すれ違いざまに獣の腹へ、持っていた槍を次々と投げつけた。左右へ曲がることも許されず、ただ前へ走るしかない紫獣は、まっすぐ死の道を突き進む。
『暁』は、櫓の台を蹴りつけて、宙に身を躍らせた。勢いをつけて滑り降りる。ちょうど先を歩いていた若者に向かって叫んだ。
「そこの者! 私を受け止めよ!」
巨大な腹を抱えた妊婦が空を飛んでくるのを見つけた若者は、驚きに目を丸くしながら、それでも命令に忠実に待ち構える。
『暁』は衝撃とともに若者の胸板を蹴り飛ばして止まった。弾き飛ばされた若者の身体をクッションにして、ようやく着地する。反対側の綱を、射手が滑り落ちて地面に投げ出されるのを確認したころに、紫獣は、柵と物見櫓に突っ込んだ。
櫓がきしんで、広場へ横倒しになる。だが、それで完全に獣の勢いは殺され、自らが空けた柵の隙間に身を挟んで、身動きが取れなくなった。前へ駆けるばかりの獣は、後ろに数歩下がるという知恵を持たない。もはや格好の槍の的でしかなかった。
迷走していた乗り手のない紫獣も、結局はただの愚かな動物でしかなかった。統制の取れた人の集団には適わない。やがて切ない声を上げて、どうと倒れる。
暴れていた盲目の獣は、赤の狂戦士たち自身の手で打ち倒されていた。これで彼らは、最強の戦力をほとんど無駄に浪費したことになる。
しかし、解せないのは、なぜ彼らが追撃を仕掛けてこないのか、だった。いくら行軍の疲労があるとはいえ、紫獣の突撃に続いて攻め込んでいれば、無意味に獣を殺してしまうようなこともなく、少しは突破の切り口に出来たはずなのである。
『暁』の下敷きになっていた若者がうめき声を上げた。慌てて身体を動かす。
「足蹴にしてすまぬな。だが『黄金』殿の子を潰すわけにはいかんのだ。許せ」
「…いえ、ご無事で何より…」
突然、その若者が苦しみ始めた。ぶるぶると痙攣したかと思うと、ぐったりと倒れこむ。『暁』は驚き、当たり所が悪かったかと若者を抱き起こした。
「おい、大丈夫か!」
慌てて周りを見回すと、他にも数名倒れている者がいる。また一人、顔を赤く染めて、ばたりと倒れる村人が目に入った。見れば戦場の戦士たちにも、同様の状態の者が複数いるようだ。
「何事だ…」
若者の脈を取ったが、死んだというわけではないようだ。表に出ていた『夕暮』が、倒れた仲間たちを中へ運び込むように指示しながら戻ってきた。
「兄上! ご無事ですか!」
「私は無事だ! 何が起こったのかわかるか!?」
息を切らせて入ってきた『夕暮』は『暁』を見て言った。
「…兄上は水を飲まれなかったのですか?」
「水? それが一体…」
『暁』は、はっと手元の若者を見つめた。
「…毒か」
しかし、感染経路がわからない。『夕暮』は水と言っているが、戦いの場に出ていた戦士たちまで倒れていくとなれば、それは遅効性の毒であって、前もって仕掛けられていたと言うことになる。ということはつまり、それが意味するのは…
「『夕暮』よ、今のところ紫獣の脅威は去った。赤の軍勢はまだ陣形を乱したままだ。一度柵の中へ全員を呼び戻せ。体勢を立て直すのだ」
「わかりました」
「なぜお前は水が毒の感染経路だと思うのだ」
「は、それは…たまたま昨日この水筒に水を詰めてあった私の隊のものが無事であったので…赤の奴ら目が川に毒でも流したのではないかと…」
「なるほど…『夕暮』、ここはまかせた。私は『雫』を呼びにいく。青の一族であれば対処法を知っているかもしれぬ」
『暁』は『雫』の元へと走った。すでに何人もの村人が運び込まれていて、『流水』や『大樹』が、『雫』の指揮の元忙しく手当てをしている。
「『雫』! 水に毒を盛られた可能性がある!」
「ええ。クァルラでございます」
「わかるのか?」
『雫』は手に持っていた小さな桃色の花を、椀に盛った水につけた。桃色だった花びらが、一瞬で白に変わる。
「間違いありません。山の土から取れる麻痺薬です。口にしてもすぐに死ぬことはございませんが、数時間後に全身が痺れるように動かなくなります」
「治せるか!?」
「症状を緩和することは出来ますが、基本的には自然に麻痺が解けるのを待つしかありません。効果が出るのが遅い分、回復にも時間がかかるのです」
「…戦いの場にとっては致命傷、だな。やはり川にまかれた、か?」
『雫』はゆっくりと首を振った。
「…おそらくそうではありません。川の上流から流した毒が、私たちの水瓶の中でこのような濃度になろうと思えば、すさまじい量の薬を長時間にわたって流し続けなければいけません。そんなことになろうものなら、私たちより先に魚や鳥が影響を受けます」
「…そうか。『雫』よ、手当ての方を頼むぞ…それから、悪いが『流水』を連れて行く。傷ついた前線の者の手当てをさせたい。『大樹』はここへ置いておく」
「わかりました」
小屋を出ると何故か表の門とは逆の方向へ向かう父に向かって、『流水』が問いかける。
「父様、なぜ母様ではなく僕なのですか? あの毒には、あまり出来ることがありません。傷の手当は母様の方が…」
「それは『流水』、私がこの村の中でお前を一番信用しているからだ」
父の言葉に思わず『流水』は立ちすくんだ。『暁』は振り返って問いかける。
「お前はこの村が好きか? 『流水』」
「…僕は他の村のことを知りません。…でも、この村は好きです」
「そうだな、お前はこの村で産まれ、この村で育った。私と同じだ」
『暁』は、『流水』を抱き上げた。
「…『流水』、私は考えている。狩りの時期、ちょうど『黄金』殿がいない時を見計らって攻めてきた赤の一族。同じ頃、都合よく我々の水瓶に毒がまかれて、川の水は汚されていない。我々の全員が毒の効果を受けているわけではないようだが、それが出始めるには時間がかかり、今、赤の一族の戦士たちは何かをずっと待っている。頭の良いお前ならわかるな?」
「…誰かが赤の一族と通じていると言うのですか?」
『暁』は家畜を囲っていた柵を開くと、前に子供たちの遊んでいた毛鹿の一頭を捕まえ、その上に『流水』を乗せた。まだその角に紐が結び付けられたままだ。『暁』は『流水』の頭をくしゃりと撫でた。
「南の丘をまっすぐ登ると、小さなオアシスが平原の中央に見えるはずだ。そこへ行きなさい。『黄金』殿が狩りから帰ってきたら、必ずそのオアシスへ一度寄る。お前はそれまでそこへ隠れているんだ」
「そんな、父様! 僕一人だけ逃げるなんて出来ません! みんな戦っているのに! 僕だって母様程じゃないけれど、少しはみんなの力になれます! 役立たずじゃありません」
泣きながら訴える息子を、『暁』は抱きしめた。
「わかっているよ『流水』。私はお前を役立たずだと思ったことは一度もない。お前がここで怪我人の介抱を手伝ってくれたなら、私はどれだけ心強いことか」
「じゃあ、どうして!」
「『流水』、お前には他にやってもらわねばならない仕事がある。『黄金』殿に、村で一体何があったのか、を嘘偽りなく伝える、と言う仕事が。これはお前にしか頼めないのだ『流水』。この村で生まれ、この村で育った、この村を愛する純粋で利発な子供。私が今心から信頼できるのは、お前だけなのだ『流水』。お前なら、私が考えていることを全部、『黄金』殿に伝えることが出来る。お前なら、正しく判断してやり遂げられる。だからお前に頼むのだ。お前は死んではいけない。このままでは、全てを赤の一族のせいにして、この村を陥れた張本人が、何の咎めも受けず生き残る可能性があるのだ『流水』。もし、私や、お前の母や、『若葉』や『大樹』、叔父の『夕暮』、お前の村の仲間たちが、ここで命を落としたら、その仇をとることが出来るのはお前しかいないのだ」
『暁』は毛鹿の手綱を取って、戦場とは逆の方向の門を開いた。
「いいか、『流水』。信じていいのは『黄金』殿だけだ。他の誰にもこのことを話すんじゃない。ただ、子供だから逃がされたとそう言うんだ。わかったな」
「父様…」
「頼むぞ、『流水』。お前の父であることは、私の誇りだ」
『暁』は毛鹿の尻を叩いた。驚いた毛鹿は、まっすぐに丘へ向けて走り出す。懸命にその背にしがみつく『流水』に後ろを振り返る余裕はなく、『暁』にも息子の小さくなっていく後姿を眺めている時間はなかった。
前線に戻ると、すでに村のほとんどの者が、力尽きて倒れていた。やはり皆が汚染された水を飲んでいたらしい。『若葉』が顔色を変えて戻ってきていた。
「『暁』のオッサン! 皆が急に身体がしびれるっつって動けなくなっちまったんだ。急いで森の奥まで撤退させたけど、ほとんど皆そこでダウンしちまって戦力としては使い物にならねぇ。そのこと伝えに戻ってきたら、こっちでも皆へばってるし、いったいどうなってるんだ?」
「水に毒が混ぜられていたようだ。飲んでから効果が出るまで時間がかかる。死にはしないが身体が動かなくなるそうだ」
「うげ…じゃあ、オレも倒れるのか?」
「いや、おそらく我々は大丈夫なのだろう。『流水』も無事だった。薬の効き目というものは、身体の小さな者ほど早く出るものだ。お前たちがまだ動けると言うことは、心配ないと言うことだ」
「でも…オレ、皆と一緒に水飲んだぜ? 同じ奴」
「…ならば、お前にその毒は効かないのだろう。私や『流水』と同じように」
「そんな事ってあるのかよ」
「確信があるわけではないが、今は確かめている時間がない。『若葉』、これから赤の狂戦士たちが本格的に攻めてくる。正面は『夕暮』たちが食い止めるだろう。お前は、村の奥へ入り込んだ敵を、狙撃で始末してくれ。『雫』や『大樹』たちを守る、重要な仕事だ。あの二人がいなくなれば、治療の手が無くなる。他の誰が死ぬより、大きなダメージだ。わかったな?」
「『流水』はどうしたんだ?」
「『流水』には別の役目を頼んだ。重要な仕事がある」
「…そか」
『若葉』は立ち去る前にニッコリと笑った。
「あんたもちゃんと父ちゃんやってんだな。オレの親父と違って」
「…お前の父親は、結局お前をうまく守ったと思うぞ。お前は今ここでこうして、重要な任務を任される立派な戦士として生きているのだから」
「…それって、狙ってやったわけじゃないじゃんよ。…でも、感謝してるよ。親父には。オレも…きっと『流水』も。…ホントは、皆と一緒に死にたかったけど」
憂いを含んだ声の響きが、騒がしい喧騒の中に消えていった。
ついに、狂戦士団が動き始めた。まっすぐにこちらへ向かってくる。敵は少し減ってはいるが、こちらの戦力がほとんど使い物にならなくなっている現状では、かなり厳しい相手だと言わざるを得ない。
槍を構える戦士たちの間に緊張が走る。雷鳴のような足音と、野獣のごとき雄叫び、そして鉄の擦れる硬い音。迫り来る轟音の前に、『暁』はただ心を無にして待った。
「撃て!」
一斉に矢が放たれる。
「第二撃構え!」
繰り返される『夕暮』の号令。
「撃て!」
『暁』は、勇ましく指揮を取る弟を見つめた。思えば年の差は『若葉』と『流水』程であっただろうか。幼きころから無用に兄貴風を吹かせたものだ。いったいあれからどれほど時が流れたのか。
「弓を捨てよ! もう役に立たん! 槍を持て!」
機敏な動作はできなくとも、腕の力だけならば、誰にも負けはしない。『暁』は手に取った槍を目の前の赤鬼に渾身の力で投げつけた。
恐ろしい勢いで飛んだ槍が、鉄の胸当てを貫き、胸郭を串刺しにしてなぎ倒した。その威力に味方側から歓声が上がり、次々と後続の槍が飛ぶ。逆に相手側から斧も飛んできた。鉄の鋭さは、木柵の防壁をたやすく打ち破り、人身に当たれば血肉を弾き飛ばす。柵までたどりついた敵に槍を突き出す戦士たち。
鉄兜の下に表情が見えるほど近づいてみれば、抑圧された欲望に身をたぎらせて、自分にはない相手の男根を削り落としてやろうと涎を垂らした狂った野獣が笑っている。そこに何の恐怖もない。『暁』は槍の一撃でその顔面を粉砕する。鉄の前当ての裏から白い雫が音を立てて漏れ出した。死の瞬間の苦痛と興奮に射精したのだろう。
下に槍を繰り出した若者の一人が、その槍をつかまれて、柵の外側へ引っ張り出された。悲鳴を上げて地面に叩きつけられた若者に、いっせいに狂戦士たちが群がり、容赦なく斧を振るう。腕が首が脛が亀頭が千切れ飛んだ。内臓を踏み荒らした後、糞便腸を足に絡みつかせて、次の獲物を探しにやってくる。手ごわい相手だ。
だが負けてはいない!
『暁』たちは、ほぼ無傷の柵のおかげで、有利に戦闘を進めることが出来ていた。時折中へ突っ込んでくる敵には、『若葉』が容赦なく首や腹に矢を突き立てる。これならば何とかなりそうだと思った瞬間、村の建物が倒壊する音が背後で聞こえた。
何事かと振り向いた『暁』の目の前で、紫獣が悲鳴を上げる村人を踏み潰す。全身の毛から、ダラダラと滴り落ちる水滴を、獣はブルブルと身体を振って吹き飛ばした。雨が降るような音がして、あたり一面に川の水が飛ぶ。
『暁』は唇を噛んだ。
「やられた! もう一匹隠していたのか!」
獣が川をこっそり泳いでくるとは想定外であった。特攻しか知らなかった単純馬鹿の赤の一族らしからぬ周到な手口だ。やはり誰かが知恵をつけたか。
村の内部にいるものはほとんど戦えぬ者ばかり、前線で狂戦士を押さえている隊が下がっては、せっかくの優位が不意になる。
ふと『暁』は、『若葉』が騎手を狙撃しようとしているのに気づいた。
「やめろ『若葉』!」
『暁』は、獣の前に走り出た。村の中で操り手を失い、暴れられては被害が拡大するばかり。人が制御しているからこそ、そこには利用できる隙もあるのだ。
「我こそは『黄金』の一族において、至高の槍手と呼ばれた戦士『暁』! 汝、卑劣な山賊風情に、我が長より預かりしこの村を闊歩する権利はない! この私がこの手で引導を渡してくれるわ!」
突然の名乗り上げに、敵は呆気に取られた顔をするが、その姿を見た瞬間に打算と野心が彼の頭で渦を巻く。
目の前には『黄金』に次いで二番、今この場で最も強いと目される敵の英雄。そしてその姿はどう見ても鈍重な妊婦。この紫獣の力を持ってすれば、軽くひねりつぶせるのは明らか。
この獣の上に乗り操っていたのは、単純に殺し壊すだけを求める狂戦士ではなかった。権力闘争の渦巻く社会の中で名を挙げ、一人でも多くのメスに己が種を孕まさんとする、ただのオスであったのだ。
彼の頭の中で、後方を撹乱し、前線を破壊する、という当初の目的が、敵の大将の首を取り、手柄を立てることに上書きされた。
『暁』の思惑通り、敵は『暁』を追って獣を操り、わざわざ川を渡ってまで忍び込んできた村の中から、自ら飛び出していったのである。
絶妙な間合いを取りながら、『暁』は獣の気を引いて後退していった。森の中へ隠れても、獣の足の一振りで、大きな木がなぎ倒される。顔色を変えて逃げ惑う敵を追い詰める狩りを、この騎手は楽しんでしまっていた。
『暁』の身体は無意識に動いていた。槍を細かく突き、払う。獣の気を引き、後一歩のところまでおびき寄せ、下がる。子を身ごもる前はいつもやっていたことだ。少なくとも、この場にいる者の中では『暁』が最も経験と力を持っているはずだった。ただ違うのは、今ここには誘い込む罠が無いこと、このまま当てもなく下がり続けても、いずれは力尽きて最終的には死を覚悟しなければならないということだった。
獣を牽制しながら森の奥へと駆ける。思っていた以上に身体の動きが鈍っていた。腹の重みに息が切れる。母体の異変に気づいたのか、腹の子が再びどん、と蹴る。
『暁』の脳裏に赤子の鳴き声が響いた。せめてこの子は産んでおきたかった。
余計な事を考えたのがいけなかったのか、暁の構えた槍は獣に弾き飛ばされ、いよいよ獣は突進の様子を見せた。
今の『暁』の身体では、獣の突撃をかわす事は出来そうにない。
しかし、構わない。村からは充分離れた。
悪いなお前たち。『暁』は家族を思った。生意気に大口を叩いておきながら、どうやら彼らを守る責任を果たすことが出来そうにない。
それでも、突進してくる獣の前に素手で拳を固めた『暁』の前で、赤の騎手の顔面に矢が突き刺さった。
そして、空から金色の光が舞い降りた。
『黄金』の巨体が獣の牙と『暁』の間に割り込み、すさまじい力で殺気立った紫獣を押し止める。
『暁』は血しぶきが飛ぶのを見た。獣の牙が『黄金』の脚をえぐったのだ。自分の見ているものが理解できない。何故『黄金』がここにいるのか、狩りの為に村を離れたのではなかったのか。
『黄金』は腕の力だけで獣の上に飛び乗り、堅い頭骨を渾身の力で殴りつけた。何度も、何度も、繰り返し。獣が首を振るたび、赤いしぶきが宙を舞った。それはもはや獣のものか『黄金』のものかもわからず、あたり一面を真紅に染めた。
「父様!」
倒れこんだ『暁』の隣に『若葉』と『流水』が飛び降りてきて、『暁』の身体を引っ張る。呆然としながら、『暁』はフラフラと引きずられた。
やがて、脳震盪を起こした獣の足元がふらつき、ついにどうと倒れても、『黄金』は殴るのを止めなかった。
そこには完全に頭を粉砕された獣が横たわっており、『暁』は自分がまだ生きていることを信じられない思いでようやく認識した。
そして、『暁』は自分の代わりに『黄金』がその身を投げ出したことにようやく思い当たった。急いで肉塊の中に埋もれた『黄金』の元へ駆け寄る。
割れた骨片で砕けた拳を、『暁』は身を守る為に着けていた服を引き裂いて包んだ。最大の傷は脚だ。とりあえず縛ってはみたものの、一向に出血の止まる様子はない。
「『流水』…傷口を…」
「父様は大丈夫なのですか?」
「私は問題ない。早く『黄金』殿を」
『若葉』が『流水』のために、弓の弦や矢筒の革など、止血に使えそうなものを次々と差し出す。
『暁』はただ、震えながら、何日も見ていなかった血塗れの夫の姿を信じられない思いでながめた。
「どうしてこんなことに…」
布に包まれた血みどろの拳がポンポンと『暁』の肩を叩く。
「…怪我はないか?」
「怪我をしているのはあなたの方だ!」
「…間に合ってよかった。走ったかいがあった」
「なぜ、あなたがここに…」
「私は早く帰りたかったのだ。だからさっさと狩りをすませて戻ってきた。村へ帰れば驚くぞ。肉がたくさんある。どれだけお主が褒めてくれるかと上機嫌で帰ってくれば、お主の息子が泣いて出迎えるではないか。それで全力で走った。私はこれほど速く自分が走れるとは思っていなかった。村で『若葉』に会えたのは幸いであったな。お主が森の中へ獣を連れて行ったと聞いて、いつぞやのように案内役を頼んだのよ」
気づけば『暁』の目からはボロボロと涙がこぼれていた。
「泣くな、『暁』、村はもう大丈夫だ。『夕暮』がよく持ちこたえておった上に、後から『影』らも私の後を追いかけて戻ってきておる。赤の山猿どもには渡さんよ。私の村を守ってくれてありがとう」
正直なところ、『暁』の頭の中からは、今の村の状況などすっぽりと抜け落ちていた。ただ、目の前の惨状に動転するばかりで何も考えられなかった。
「…お主が無事でよかった」
「一族の長が無事でなくてどうしますか!」
『黄金』は団子になった手で『暁』の腹を撫でる。
「お主と子が死ねば、きっと私も死にたくなる。お主のいない人生は、寂しい」
言葉を失った『暁』に、『流水』が涙目で訴えた。
「僕の手には負えません。母様なら縫えるかもしれませんが、僕には血管の位置がわかりません。血を止めるためには、焼くぐらいしか…」
「ならそうしなさい」
「でも、一度焼いてしまうと、村へ帰っても縫うことが出来ません。もう歩けなくなるかも…」
「しかし、このまま血が止まらないと、村に帰る前に『黄金』殿は死んでしまう。そうだな?」
『流水』は頷いた。
「では急ぎなさい。私も手伝おう」
『若葉』が素早く火を点して、『流水』が刀を炙る。そして『暁』が『黄金』の身体を支えた。
『流水』は焼けた刃を押し付ける前にまた、少しためらった。それを見た『黄金』が声をかける。
「続けるがいい『流水』。私はお主を信じておる。お主は暗闇でも見事に薬草を見つけ出すことが出来たではないか。さあ、私を村まで連れ帰っておくれ」
少年は頷いて、長の内股に、赤く熱された刃を突き当てた。肉の焦げる匂いがあたりに漂う。『黄金』の身体がビクリと痙攣したが、『暁』が必死に押さえ込む。今『流水』の手元が狂えば大変なことになるからだ。
「これはたまらん…子供らよ、小便を漏らすが笑うなよ、もう我慢できん…」
全身から汗を流しながら『黄金』が言うが早いか、緩んだ膀胱から蛇のように垂れたペニスをつたってジョボジョボと尿が溢れ出た。
「冗談を言っている場合ではありません、『黄金』殿」
「冗談ではないぞ、怪我の痛みに失禁するなど、長にあるまじき醜態…むぅっ…」
『流水』が顔を上げた。
「大きな出血は止まりました。まだ血が滲んでいますが、このくらいなら、急いで村へ運んで、母様に手当てをしてもらったほうがいいと思います」
「よくやった『流水』。おい『若葉』、『黄金』殿を運ぶための人手をここへ呼んで来てくれ」
「ここへくるときに、獣の足跡をたどるように言っておいたから、もうすぐみんな…」
『若葉』の言葉が終わらないうちに、『夕暮』の声がした。
「兄上! 無事か! ややっ、これは…」
やってきた『夕暮』に村の様子を聞くと、戻ってきた一族の主戦力たちが、赤の戦士たちを一掃したらしい。撤退した赤の軍を、今『影』の隊の者が追撃しているとの事だった。
『夕暮』は、重傷の『黄金』を見て、ショックを受けていた。無理もないが、今は足を止めている場合ではない。『夕暮』は笛を吹き鳴らして村人達を呼んだ。
頭部をほとんど失った肉塊を見て彼らは目を剥いていた。
「…なんと、長殿は素手で紫獣を殴り殺してしまわれたのか…」
獣の死骸を取り囲む人々に、『黄金』を村まで運ぶように指示を出す。そこへ『影』も姿を現した。血だまりの中に立つ『暁』達を見て、眉をひそめる。
「生きていたのか『暁』。敵に村が落とされかけたというからには、お前は死んだものと思っていたぞ」
嫌味な言葉に唇を噛むが、今はそれどころではない。
「『影』よ、『黄金』殿を村に運んでもらえぬか。私がついていきたいが、逆に足手まといになる。私は遅れて後を追う故…」
『影』は冷めた様子で言った。
「運ぶだけなら誰でも出来よう。私は赤猿どもを殲滅する手はずを整えるとしよう。長がおらんのだ。私がやるしかあるまい…おい、お前達、そこの紫獣を解体しておけ。肉が腐るからな」
「な、今はそんな場合では…」
「捨て置くのは勿体無かろう。せっかくここに大物がいるのだ。さすが『黄金』殿、一人で成獣をしとめてしまうとは。いやはや感服しきり」
話にならぬと『暁』は『夕暮』に、無事に『黄金』が村へたどりつくように気を配るよう命じた。なにやら青ざめた顔の『夕暮』が、小さく震えているのが少し気にかかったが、『暁』にはどうしようもない。やがて、その他の雑多な考えと共に押し流され、ただ『黄金』の無事を祈る気持ちだけが残った。
連日の治療と看護に『雫』も疲れを隠せなかった。運び込まれた『黄金』の傷を見て、さすがに顔色を変え、村の仲間を呼び集めて、急いで傷の洗浄を始める。
『暁』が村にたどり着いても、まだ手術は終わっていなかった。血にまみれた妻と、切り刻まれる夫を見ながら、何も出来ることがない。『暁』はずるずると座り込んで、立てなくなった。
夜が来ても、松明の明かりの中、『雫』は縫合を続けた。赤い月の赤い夜。おどろおどろしい不吉な色だ。真夜中ごろにようやく『雫』が針を置き、『暁』の前に膝をついた。
「私に出来ることはここまでです。後は長様の体力だけが頼み。たとえ命が助かっても、元の通りに走れるようになるとは思えませんが…」
「ご苦労だった『雫』。もう休んでくれ」
「この薬を、三刻毎にお飲みにならせてください。傷の腐敗を防ぎます。状態が急変したときはお呼びくださいませ」
「わかった。ありがとう『雫』。お前と『流水』がいて本当に良かった。お前たちは私の宝だ」
『雫』は頭を下げて仮眠を取りに戻った。休めるときに休まなくてはいけないことを彼は知っている。『黄金』は眠っているようだった。空は、血のように赤い。
−−−−−
つづく
-
投稿:2011.04.01更新:2011.04.01
黄金の太陽−3
著者 自称清純派 様 / アクセス 7093 / ♥ 5