10歳くらいに見えるその少年は「ネズミ」と呼ばれている。
本当の名前は、あったのだろうが、本人でさえ覚えてはいない。
10歳くらいに見えるが、本当は10歳以上かもしれない。
本当の年は彼自身にも判らないし、数は自分の両手の指の数以上は判らない。
読み書きだって当然できない。
両親はかつてはいたのだろう。
「ネズミ」は、そう思っているが、記憶には全く残ってはいない。
生きているのか、死んでいるのかも、全く判らない。
生まれ故郷もあったのだろうが、それさえも覚えていない。
とにかく、気がついたときには、ずっとこの街で暮らし、周囲の人間からは「ネズミ」と呼ばれていた。
親がここに連れてきたのか。
ここで生まれたのか。
誰かに連れて来られたのか。
それとも、自分で流れついて来たのか。
もう、そんなことは、自分自身、さっぱり判らなかった。
そして、「ネズミ」は、彼のことを指す名前ではない。
この街の浮浪児は、彼を含めて、全てひとまとめに「ネズミ」と呼ばれていた。
ここでは、便宜上、彼を「茶ネズミ」呼ぶことにしよう。
栗色の髪と瞳を持っているからだ。
顔に傷がある「ネズミ」は、「傷ネズミ」、片腕のネズミは「片腕ネズミ」といった塩梅で、身体的特徴に「ネズミ」をつけて呼ばれ、とくに身体的特徴がない者は、彼ら自身が住み着いている通りや、よく見かける場所の名前を冠して「市場ネズミ」「港ネズミ」などとと呼ばれることもある。
「ネズミ」には、本名を覚えている者もいるが、誰もその名前で呼ばない。
がりがりにやせ細った彼らは、盗みとごみあさりをし、泥水や水たまりの水をすすったりして、生きるためだけに生きていた。
飢えと乾き、汚わいと腐臭。
それが、「ネズミ」たちの世界の全てだった。
尿意をおぼえた「茶ネズミ」は、大慌てで人目を避けて物陰に駆け込む。
そして、辺りをきょろきょろ見渡しながら、尻をまくり上げてしゃがみこみ、褌を横にずらした。
実は、「茶ネズミ」は、少年ではない。
かといって、男装の少女かと言えば、そうでもない。
「茶ネズミ」の股間は、蛙のようにつるりとしており、股間にはぽつんと穴があいている。
そこから、尿がしぶきを上げてほとばしっていった。
「茶ネズミ」は、自分の裸の股間を見るのが大嫌いだった。
事情を知らない流れ者の「ネズミ」たちは、「茶ネズミ」には生まれつきチンポも球もないのだと信じている。
「茶ネズミ」の股間は、生まれつきそうだったとしか思えない状態だから。
だが、そうではない。
「茶ネズミ」には、かつてはちゃんと男性器が付いていたし、むしろ、他の同い年くらいの「ネズミ」達の中では、大きめの方だった。
付いていた頃の「茶ネズミ」は、よく、「ネズミ」仲間に、自分の物を見せびらかしていたし、飛ばしっこでも、一番遠くにまで小便を飛ばしていた。
(ああ、おいら、なんであんなドジを踏んじまったんだろう…!!)
「茶ネズミ」は、褌を整えながら、自分の股間の物を失った時のことを思い出す。
もう、幾年前のことかは忘れてしまった。
ずいぶん前のことのように感じられもするし、ついこの間のような気もする。
「茶ネズミ」は、その日、街の外れの方で催されている、一度も行ったことのない市場へと足を延ばしていた。
そこで、いつもそうやっているように、山積みの台からリンゴを一つだけ「ちょいと失敬」した。
たったそれだけだったし、いつも失敗したことなんてなかった。
だが、立ち去ろうとした刹那、店主が腕をひねり上げ、大声で叫んだ。
「ネズミを捕まえたぞ!ポルトさんを呼んでくれ!!」
店主が、茶ネズミの服を一枚残らずはぎとって轡をかませ、後ろ手に縛り上げた頃、「ポルト」らしき大男が現れる。
「…ちびのくせに、生意気なもんぶら下げてやがるなあ。」
ポルトは、そう言いながら「茶ネズミ」の股間の物を片手で睾丸ごとつまんでしごく。
これが、睾丸を体の中に逃がさないための措置だとは「茶ネズミ」の知る由ではなかった。
「もう、皮がむけるじゃねえか。」
そう言いながら、「茶ネズミ」の股間の物の付け根を、細い革紐で硬く結わえ上げてしまった。
(な、何するつもりなんだよお…!!)
「茶ネズミ」のペニスが、天を向いて屹立した時、ポルトは、「茶ネズミ」を大股開きにして、高々と抱えあげて叫んだ。
「さーあみんな!盗っ人ガキのチンボコとキンタマだ、ビンビンにおっ立ててるぞ、とくと拝んでやってくれ!!」
ポルトの力はたいしたもので、「茶ネズミ」には、抗って振りほどくことはもちろん、足を閉じることすらできない。
股間の物は、はちきれそうにじんじんと疼く。
「茶ネズミ」の顔は、恥辱と苦痛で真っ赤に染まっているが、ポルトの次の言葉で、自分には、もっとひどい苦痛と絶望が待っていることを知った。
「盗人ネズミにゃあチンボコやキンタマなんて生意気なもんはいらねえぜ、増えたら困るもんな!!立ちションも出来ねえ方が、一目で盗っ人って判って好都合だ!今からすぐにルカがぜーんぶちょん切るぞ!!」
…それから、胡椒湯で洗われて、力任せに引っ張られ切り飛ばされた物が、目の前で犬の餌にされるのは、あっという間の出来事だった。
その市場で取り扱う目玉商品が「奴隷」だということも、そこで盗みを働いた者が、盗んだ物や理由の如何を問わず去勢されるということも、「茶ネズミ」は全く知らないことだった。
手当をされた「茶ネズミ」は、両手を後ろに縛られたまま、さらに両足首も縛られて、療養所の床に放り投げられた。
商品である「奴隷」達は、皆ベッドに寝かされているが、他にも数名転がされている「ネズミ」達は「手当をされるだけでもありがたいと思え」という扱いでしかなかった。
そこにいる全員が、しくしくとすすり泣くか、うめき声をあげている。
「茶ネズミ」も、股間の傷はもちろん、下腹全体に吐き気を催す激痛が走るために、喋ることさえできなかった。
「他の街では殺されている」
「手足の骨を砕かれるのだって当たり前だ」
「利き手を切り落とされることもある」
「チンポや球がなくなるの位、それに比べれば大したことではない」
「ルカとロコは腕ききだから、絶対に殺すようなへまはしない」
「ネズミは増えない方がいい」
市場にいた大人たちの罵声が、「茶ネズミ」の頭の中をぐるぐると廻る。
「茶ネズミ」も、すすり泣くほかなかった。
傷が癒えた「茶ネズミ」の股間は、まるで生まれついてそうだったかの如くに何もなくなっていた。
朝になると、切られる前と同じ、パンパンにはちきれそうな勃起感はあるし、実際体の中に残っている部分もパンパンなのだが、股間は、かすかに膨らんでいる程度で、もちろん何も勃ってなどいない。
「ルカは、チンポの勃ち具合を見て、成長を見越したうえで、決して肉を潰さない切れ味のいい刃物で切断するので、傷跡が目立たないし、切り株もない」
「ロコは、体の大きさにあった栓で尿口をふさぐし、傷跡が早く奇麗に治る薬を調合する名人だ」ということだった。
その言葉通り、暫くは薄赤い切断面が見えていたが、日にちがたつにつれて、肌の色と紛れて、全く判らなくなってしまった。
「ネズミ」達は、去勢されても、奴隷として使われるわけではない。
それまでは、市民として暮らして、一般社会常識を身につけ、ある程度の教養さえ身につけている過去を持つ奴隷たちとは違って、素性も悪けりゃ育ちも悪いからだ。
あくまでも、他の「ネズミ」への見せしめのためであり、私的な処刑でしかない。
だから、傷が癒えると、適当なところに放り出される。
「今度やったら、手をちょん切るぞ!!」という声と共に。
だが、物乞いやごみあさりだけでは、到底生きて行けるというわけでもない。
「茶ネズミ」も、自分をスリ団の親方に売り込みに行ったことがある。
スリや置き引き、万引きは得意だったし、去勢される以前、流れ者の別の親方に使ってもらったことがあるからだ。
だが、「お前は駄目だ」と突っぱねられた。
「茶ネズミ」は言い返す。
「何でなんだよ!おいら、盗みはうまいんだぜ!!前いたところの親方だって、よくおいらを褒めてくれた…!!」
「…お前は、チンポと球がないからだ。見なくったって臭いで判るぜ。ションベンくせえ。」
「そんなの理由になるもんかよ!あいつらだってないじゃんかよ!!」
「茶ネズミ」が指した「あいつら」とは、二人の姉妹だった。
「女についてねえのは当然だ。…だがな。おめえは違う。おめえは付いてたのをちょん切られた。だからだ。」
「だから、なんでそんなのが理由になるんだよ!!」
親方は、「茶ネズミ」の額を指で突っついてから、言葉を続けた。
「ヘマをしたから、チンポと球をちょん切られたんだろ?この街の奴隷市場じゃあ、それが掟だからな。おめえみてえな生まれついてのネズミが、奴隷上がりってことは考えられねえしな。大体、奴隷なら、チンポを切られてションベンをちびる癖がついてるのの後始末もちゃんと教わってるもんだ。…ヘマをする奴は使えねえ。そこから芋づる式につかまっちゃあ大変だからな。…おい、女ども。ちょーっとだけ、目をつむっててくんねえか?俺がいいって言うまでな。」
少女たちが両眼を手で覆ったのを見定めると、親方は言った。
「俺が使ってる、おめえ以外のネズミは、みーんな付いてるぜ。見せてやれ!」
ニヤニヤ笑いながら褌をずらした、10人くらいの「ネズミ」を見た、「茶ネズミ」の顔色がたちどころに変わってゆく。
彼らには、全員、「茶ネズミ」がなくした物が…
付いているのが当然の男性の象徴がぶら下がっていた。
「おい。もう眼え開けていいぞ。」
親方は、「ネズミ」達が褌を戻したのを見届けてから少女たちに言った。
「この女どももうめえもんだぞ。一度もヘマをしたことがねえ。二人で組んで、一方が囮、もう一方がくすねるんだ。それに、こいつらはもうすぐお役御免だ。娼館に勤められる年になるまで置いてやるってことになってるからな。全く、女ってのはいいもんだ。ネズミからもスリからも足を洗えて、きれいなもん着てうめえ飯が食える。…てめえたちでそう決めていやがるぜ。」
この親方は、女衒もやっているのだ。
親方は、「茶ネズミ」に、とどめの一言を付け加えるのも忘れなかった。
「おめえもこいつらと一緒に、俺がオカマとして娼館に売り込んでやろうか?尻を売りゃあ飯のタネになるぜ…カエルっ腹!!」
「そうだそうだ!チンポがねえ奴はションベンの締まりがねえから、臭くってたまんねえや!!」
「とっとと出て行け玉無し野郎!!」
「おめえ何ざ、女よりも値打ちがねえんだよ、出来そこない!!」
「娼館に勤めるんなら、おいらのチンポでもしゃぶって練習すっか?」
「ネズミ」達が、下卑た笑みを浮かべ、尻馬に乗って囃し立てる。
彼らは皆、男性器のない「茶ネズミ」よりも自分達の方が上だと、勝ち誇った態度だった。
その視線に耐えきれずに泣きながらその場を走り去った「茶ネズミ」の背中に、スリ団の「ネズミ」達の嘲笑が、容赦なく突き刺さった。
それから、「茶ネズミ」を見かけた者は、この街には誰もいない。
闇夜に紛れて、ごみをあさっているのだろうか。
この街を離れ、どこか別の街でスリやかっぱらいをしているのだろうか。
それとも…
男娼として、体を売る道を選んだのだろうか。
物乞いをしているのか、とっくの昔に、誰かにぶちのめされて殺されたのか。
腐ったものを口にしたか、流行り病にかかったかして死んでしまったのか。
それは誰にも判らないことだし、他の大多数の「ネズミ」達の末路もそれと同じようなことだった。
前作はこちら
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投稿:2011.12.06更新:2011.12.07
「ネズミ」の街
著者 真ん中 様 / アクセス 11595 / ♥ 41