今より五百年余り昔のこと、越後に海竜という名の行脚僧がいた。
武家の三男として産まれた海竜は、幼き頃より寺へと預けられ、世俗を捨てた僧侶達の元で育てられた。格別経文に親しみを覚えるでもなく、学問に通じるわけでもなかったが、小器用に回る知恵と、武家の血の成せる豪胆さを併せ持つ海竜は、人心を掴む術を心得ており、小僧仲間の人気も高く、長じて経験を積めば、檀家を取りまとめる良き僧として大成するであろうと土地の者達の期待を受けていた。
しかし、海竜が年頃となると、思わぬ弱点があることが知れ渡った。女癖の悪さである。いくら女色が禁じられているとはいえ、真剣に思いあった娘との仲であれば、さほど厳格に咎められる風潮ではなかったものの、未婚の娘を三人四人と、次々に孕ませたのでは話は違う。最初の一回は若気の至りと、実家の次男が弟の不始末の面倒をみる形で娶って収めたが、二人目、三人目、許婚のいる者、喪中の寡婦、果ては尼寺の尼に至るまで、我も我もと赤子をしこまれたと訴え出られては流石に甘い顔など出来るわけもなく、責任を取るよう迫られた海竜は故郷を逃げ出し、実家からは改めて縁を切られた。
下手に居残られて血肉と怨恨を撒き散らす事態になっても困る故、むしろ土地の者は逃げてくれてほっとしたかもしれぬ。ともかく、郷を追われた海竜は、尚も下の締まりのなさを持て余し、行く先々で手頃な畑に種をばら撒いて歩いた。学んだことがあるとするなら、一つところで一度に複数を相手にするのはまずいと、宿を移るまでは一人の女で我慢したところであろうか。それとて、褒めはしかねるのだが。
海竜はそれなりに顔立ちの整った男であったので、相手の女に不自由することはなかった。これが、息を呑むほどの美貌となれば、逆に警戒心を呼び起こしたやもしれぬが、海竜は丸めた頭と相まって、むしろ朴訥とした、人をほっと油断させるきらいがあるくらいで、余計に性質が悪く、多くの女達が騙された。中には、膨れた腹を抱えて一人置き去りにされてさえ騙されたことに気づかず、機嫌よく熱い逢瀬の思い出に浸る女子(おなご)もおり、一番悩ましいことには、海竜自身に悪気がなかった。この男は、四角四面の堅苦しい常識に縛られた娘子達の人生に、僅かばかりでも花を添えてやる心持でいたのである。もちろんだからといって自分の快楽を等閑(なおざり)にするようなことは決してなかった。
そんな男であったから、瀬ヶ沼比良の村へとたどりついた時も、まず探したのは今日の宿、今日の飯、そして今日の女であった。どこの村にも、案外一人寝の寂しさを抱える女はいるもので、それはもう、見る目のない男にはとんと見えぬ世界ではあるが、とにかく托鉢を兼ねて人の噂をいくつか手繰ると、それほど苦労もなく股間の倅にも宿を見つけてやれるのが、海竜の特技であった。
しかし、この日は村に着くのが遅かった上に小雨が降り出し、さしもの海竜も、色事は諦めるよりなかった。べたべたと貼りつくような梅雨時の雨は、村の通りから人を追いやり、海竜は小走りに、手堅く寝床と食事にありつけそうな寺に駆け込んだ。
「頼もう、拙者旅の雲水であるが、今宵の宿をお頼みしたい。和尚はおられるか?」
凛と通る大声に、少し間をおいて寺住みの小僧がぱたぱたと足音を立てて駆け寄ってきた。
「これはこれは、ようこそいらっしゃいました。生憎住職様は檀家の法要にお出かけでいらっしゃいますが、どうぞ中へお入りください。芋粥でよろしければ、お出しいたしましょう」
「それはかたじけない。有難く頂戴したいが、それより先にこちらの御仏を拝ませていただくのが筋というもの。案内を頼めるだろうか」
かように、下穿きさえ緩めずにおれば、申し分のない僧侶なのである。育てた和尚の期待と無念も推し量れよう。
「かしこまりました。こちらへ」
仏前に通された海竜は、慎ましい木彫りの仏像の前で、簡素に過ぎず冗長に過ぎず、礼儀と敬意を程よく表すだけ、朗々とした声で経文を唱え上げ、それを聞いた小僧に感銘を与えた。
「お勤め、ご苦労様でございます。さぞや、名のあるお坊様とお見受けしますが、お名前はいったい?」
「これは失礼、拙者、高巻の海竜と申す者。故あって国を回り御仏の加護を祈らせて戴いてはおるが、それも一介の修行の身。決して徳を積んだ尊き身上ではござらん。そのように畏まりなさるな」
小僧の差し出した椀に礼を言って口をつけた海竜は、それからしばし、旅の四方山話に花を咲かせた。単調な宿坊暮らしの小僧には、このような他愛もない小話が、またとない娯楽であるのだ。もちろん、いくら得意分野といえど、悩ましき年頃の小僧に、生々しい色事を語ったりはしないだけの分別は持ち合わせていた。
さて、夜も更けて、宵の勤めも共に終わらせたところへ、さらに客の気配があった。ちょうど細々とした仕事に場を離れていた小僧の代わりに、海竜が出迎える。
そこには上品な喪服に身を包んだ、まだ充分に若いと呼べる女が立っていた。
「もし、お坊様。私(わたくし)、一の谷のお菊と申します。昨夜私の主人が身罷(みまか)り、お通夜のお経文をお唱えいただけないかと、お願いに参りました」
少し目元を腫らした女の愁いを帯びた佇まいには、えもいわれぬ色気が滲んでおり、海竜は自分の下帯がややきつくなるのを感じた。
「それはおいたわしい。残念ながら拙者は旅の者故、こちらの事情には明るくないが、なんでもここの和尚は檀家の法要で今夜は寺を空けておると聞く。住み込みの小僧が留守を預かっておるので、そちらへ話を取り次ごう」
「お願い致します。主人を慰めていただけるのであれば、何も御住職様でいただかなくとも構いません。ただ、こうする間に主人の霊が当てもなく彷徨うことになればと思うと、それだけが不憫で……」
目頭を押さえる女の肩に腕を回すと、海竜はゆっくりと慰めるようにさすった。
「ご心配なさるな。六道輪廻の道はあれども、そう容易く迷子(まよいご)にはならぬよう、お釈迦様も見守っていてくださる。少しこちらでお待ちなされ」
中へ戻った海竜は、風呂の用意に火を焚く小僧を見つけると、後家の話を伝えた。まだ年若い小僧は困った顔をして頭を抱える。
「一の谷? はて、そのようなところにそのような御夫人がいたものか……。しかし、弱りました。住職様は今晩はお帰りになりませんし、私などではとてもとても、仏様の御霊(みたま)をお慰めできるようなお経は唱えられません。今日のところは帰っていただくしか……」
「それはなんとも気の毒な。奥方殿はずいぶん心細い様子でおられるようだったが……差し出がましいようだけれども、拙者が和尚殿の代わりに一晩出向いて、形だけでも取り繕えば、御仏の親族も随分心安らぐと思うのだが」
小僧は目を丸くして驚いた。
「そんなことを本当にお願いしてよろしいのでしょうか?」
「無論、本式の経文は和尚殿にあげてもらうべきであろうが、拙者の拙い口でも、今夜一晩冥土の道を繋ぐ分だけくらいならば唱えられよう。形より心と拙者の師も申しておった故に」
ここで海竜に下心がなかったといえば嘘になる。しかし、この男が真剣に故人の霊を憂いていたのもまた事実。海竜は己の望みと世間の望みを上手く組み合わせるしたたかな男だったが、特別腹の底が捻くれた気性というわけではなかった。
「それではよろしくお願いします。すぐにその御夫人にご説明を……」
表へ出ようとする小僧を、海竜が引きとめた。
「いやいや、貴殿も忙しかろう。それは拙者が引き受けておく故、任せておきなさい」
小僧はそれは少し失礼ではないかと悩んだが、自分のような子供にあしらわれたのでは、その上品な夫人が逆に気を悪くするかも知れぬと思い直し、先からの海竜の立派な態度を信じて全て海竜にまかせることにした。
体よく小僧を丸め込んだ海竜は、あえて小さめの傘を借りると、眉をきりりと引き締め、頼れる男の面持ちで再び女に会い見えた。住職の代わりに己が顔を出す旨聞かせると、女は胸を撫で下ろしてほっとした顔をみせた。
「有難う御座います。なんとお礼を申し上げてよいやら……」
「なんの、仏門に仕える身としては当然のこと。国は違えど、故人の安寧を祈る為ならば、拙者なんら躊躇うこともなし。お菊殿がそのように恐縮されることはない」
三度頭を下げる相手の肩を抱くと、海竜は女を自分の胸に引き寄せた。
「さあ、しゃんと胸を張りなされ。今宵はご主人をしかと見守らねばならんのだから」
返事をしながら涙ぐむ女の上に傘をかざすと、海竜は雨の中へ進み出た。
「拙者この地には不慣れであるから、お菊殿に案内してもらわねばならぬ。道を教えていただけるか?」
「もちろんでございます。これ、この坂を西方(さいほう)に」
「では行くとしよう。濡れては身体に悪い。しっかり傘の中へ入っていてくだされ」
そう言って女の肩を抱き寄せたまま歩くことを正当化した海竜は、ふと、妙なことに気づいた。
「そういえば、お菊殿は傘を持っておらんかったというのにまったく濡れておらぬようだな」
「ああ、それは、家を出た時分にはまだ雨は降っておりませんでしたのと、その後お寺の前までは親切な村の方が傘に入れて送ってくださいましたので。ちょうどこのように」
傘を持つがっしりした手に、お菊がほっそりとした指をそっと乗せたので、海竜は嬉しく思った。やや傾けた首すじから海竜の胸元へ、急ぎ結われた黒髪の一筋がはらりとほどけ、かすかに甘い匂いが漂う。少し離れれば雨にかき消されてしまうその香りが堪能できる近さを失わないよう、海竜は念を押した。
「夜の雨だ。先は暗いし、足元は滑る。転ばないようしっかりと掴まっていただこう」
女は軽く返事をして、つないだ手に少し力を込めた。海竜はにっこりと柔和な笑みを口元に乗せると、闇の中へ踏み出したのである。
思っていたより女の屋敷は遠く、土地勘のない海竜には、しばらく歩くとどこを歩いているのやらもわからなくなった。
「これは一人では戻れぬやも知れぬな」
「ご心配なく。お帰りの際には私がお送りいたします」
「それは助かる。手間をかけて申し訳ないな。それにしても随分な山奥にお住まいだ」
「亡くなった主人は人が苦手で、村の他の方とのお付き合いを嫌がったものですから」
ならば、もうその理由はなくなったのだから、いずれ里へ降りてくることもできようと海竜は思ったが、それを後家に言うのはまだ少し早い気がした。
やがて、ぼんやりと霞がかった夜雨の向こうに、揺らめく明かりが見えてきた。
「あれにございます」
近づくとそれは、大きな屋敷の門に立てられた松明で、脂(やに)の混ざり物の具合か、青味がかった炎が、音もなく静かに爆ぜていた。
「これはご立派なお屋敷だ。ご主人殿はどのような縁(ゆかり)をお持ちの方か?」
正門の戸板に焼き付けられた、鏑矢と月をあしらった家紋を眺めながら、海竜は尋ねた。
「幾代か遡れば平の血に繋がると教えられましたが、主人との間に子は出来ませんでしたから、今となってはその血も途絶えてしまいました」
未亡人は寂しげにそう言うと、裏手の勝手口を開いて海竜を招き入れた。このような屋敷の門に、閂もかけず出入りが自由であってよいのかと少し驚いたが、よくよく考えてみればこのような場所へわざわざやってくる者も家人以外にそうはいないだろうと思えた。
「使用人も少なく、数人を残して遠方の親族へ使いにやっておりますので、ご不便をおかけしますがお許しください」
「うむ、仕方なきことであろう。こちらこそ右も左もわからぬ故、面倒をかけることを詫びねばならん」
「いえいえ、そちら様には感謝させていただくばかりでございます」
海竜が傘を畳んで水を払っている間に、お菊は手ぬぐいと水の張ったたらいを運んできた。
「今からお湯を沸かしていては間に合いませんので申し訳ございませんが……」
「いやいや、気になさるな。床を汚さんよう足の泥さえ落とせれば重畳、重畳」
女主人に足を洗わせることも良しとせず、海竜は手早く自分で足を清めた。細い指先が脛を撫で回すことを思い浮かべ、少し惜しい気もしたが、ここは断るのが嗜みである。
「では、こちらへ……」
故人の寝かされている部屋へと、長い廊下を辿って案内される。海竜は中庭の広い庭園の眺めに感嘆し、声もなかった。足音もなく静かに進む未亡人は、雨の山道を往復したばかりとは思えぬほど、疲れの片鱗も見せず、背筋を伸ばしていた。
「こちらでございます」
案内の声に呼ばれ、我に返った海竜は、開けられた襖から部屋へ入ろうとして、中の様子にぎょっとして立ち竦んだ。
顔に白布を被せられているからには、故人であろう屋敷の主人の肌蹴られた股間に、若い女がうずくまり、男根の先を口に咥えている。
おそらく小間使いであろう娘は、突然現れた客人に驚いて顔を上げた。ぱたりと音をたてて小ぶりな陰茎が倒れ、青白い肌を打った。若い娘に咥えられても勃起せぬのであるから、男が死んでいるのは間違いないようだと、あまりのことに少しずれたことを考えた海竜の隣をすり抜けて、女主人が声を張り上げた。
「何をしているのです!」
すくみ上がった娘は、おろおろとしながら脇へ置かれた手ぬぐいを拾い上げる。
「お、奥様……私はただ、旦那様の御身体をお清めしようと……」
お菊はまっすぐ娘に歩み寄ると、その顔を音高く張り飛ばした。
「出てお行きなさい!」
立ち上がった娘は、頬を押さえてばたばたと走り去る。後には襁褓(むつき)を替える赤子のように、間抜けに股を開いた男の死体と、気まずい沈黙が残される。
屋敷の主人と小間使いの間にどのような関係があったか知らぬが、死後も倅を若い娘に気にかけてもらえるほど愛されたのであれば男の本懐であろうと、埒もないことを思いつつも、海竜は同情を目の前の若後家に向けた。咳払いを一つしてから、仏の死装束を整えようという素振りを見せると、しばらく怒りに肌を赤らめ、女中を殴った手をぶるぶると震わせていたお菊も、急いでそれに倣う。
手早く陰部を覆い隠そうとしたお菊の手が、ぴたりと止まった。つい目をやると、皮を剥かれた亀頭に、唾液にまみれた歯形が見える。海竜は心の中で呻き声をあげた。なんとも強気な娘だ。他人の夫の性器に所有の証を残していくとは。剥いた包皮を戻しておけば傷は見えない。遺体の褌をはぎ取ろうという者も、まして先の皮を剥いて中を確かめようとする者もおらぬであろうから、女主人の帰宅がもう少し遅れれば誰も気づかぬところであった。
目を合わせる度胸はさしもの海竜にもなかったが、お菊の怒りは何も見ずとも感じ取れた。死んだ男の傷が治るはずもなく、この歯形は消えない。小娘の悪戯は正妻である彼女にとって最大級の侮辱であろう。長年けしからぬ所業の片棒を担ぐ側であった海竜も、間の悪い娘には肩を竦めるしかない。だが、もし娘の行動が、女主人に最大の恥辱を与えんと計算された嫌がらせであったとすれば、その蛇のような狡猾さには背筋の凍るような恐ろしさを覚える。
仏の顔は白布の下で見えぬが、男の割りにはきれいなきめの細かい肌をしていた。きっと顔立ちも悪くはないのだろう。局部は小ぶりで、勃起したところで海竜の持ち物には及ばないだろうことを見て取ってはいたが、少し、二人の美しい女を翻弄した男の生前の様子に嫉妬混じりの興味が湧いた。
海竜がわざと手間取る様を装っている間に、お菊は素早く夫の股間からぬめりを拭き取り、はしたない傷の見えぬよう包皮を巻き下ろすと、着物の裾を合わせた。
故人の前に座りなおし手を合わせた海竜の脇に、夫人が控えると、海竜は穏やかに声をかけた。
「全てはいずれ塵に帰る。人も、物も」
「……はい」
「恨み怒りの思いは心を縛り、悪い向きへ人を導く。難しかろうとも、心を静めなさい。ご主人殿の為でもあり、お菊殿自身の為でもある」
夫人は答えなかったが、海竜は返事を待たずに経文を唱え始めた。深みのある声の響きに、張り詰めていたお菊の肩から、少し力が抜けるのがわかった。
やがて涙がぽろぽろと零れだす。はじめは手巾で拭うに任せていたものの、嗚咽を押さえきれず泣き崩れるに至って、海竜はお菊に目をやった。
「……申し訳ございません」
「構わぬ。泣きなさい。夫を亡くしたとき泣かずして、いつ泣くのです」
「……お坊様は心を静めよと仰りながら、泣けと仰る。学のない私には難しゅうございます」
「何も深く考える必要はござらん。そのままの意味だ。泣きなさい。悲しみなさい。しかし、怒ってはいけない。憎んではいけない」
「悲しむばかりでは自分が惨めになっていきませぬか」
「ならば吐き出してしまうが良かろう。今この場におるのは拙者と御仏のみ。御主人に思いの丈を打ち明けて、濁った澱を冥土へ連れ去ってもらうがよい」
お菊はしばらく俯いたまま、言葉を選んでいたようだった。しかし、ひとたび口を開いて話しはじめると、激流のように棘のある言葉が流れ出た。
好いた男と引き離されて無理やり嫁がされた恨み。厳格な姑と家の体面に縛られた窮屈な生活。甘やかされて育った年下の主人は頼りなく、ふらふらと若い娘の間を遊び歩く。それでも姑が生きている間は、まだ屋敷の中にも秩序があった。姑が亡くなり、母親の目という枷を失った当主は、この世の春とばかりに羽目を外した。昼の最中(さなか)から屋敷の小間使いに手を出し、あられもない姿で、はしたない声をあげ騒ぎ立てる。そして肝心の妻は、一人夜長に捨て置いたのだ。
初夜から数年の内は、世継ぎを得んがための子作りにも興味を持ったが、妻はおろか、いかな妾も孕む素振りも見せぬうちに、故人は己が種を持たぬと気づいたらしい。堅苦しく面白味のない年上の妻を抱くより、若く淫らな娘を誑かすほうが、男の好みに合ったのだろう。気づけばお菊は、毎夜静まり返った寝室で、聞こえてくるかもしれぬわずかな物音に耳を澄ませながら、唇をかみ締める日々を送るようになっていた。
正妻としての矜持のみを足がかりに、使用人達から向けられる同情と侮蔑の視線の中を掻き分けて歩く。それはまさに毒の澱む空気の中で全身から血を流しながらの生活だった。夫から女の喜びを与えられる小間使いの勝ち誇った表情(かお)が、お菊の胸を抉った。
本当は叫び声をあげて暴れ狂い、何もかもを壊してしまいたかった。何も考えず妾共の肌を掻き毟ってやりたかった。その姿を、醜く、浅ましく、愚かで、惨めだと知っている己の意識だけがお菊を押しとめていた。
しかし、小娘の厚顔無恥は、必死で外面を取り繕おうとしているお菊の心をあっけなく打ち砕いたのだった。夫の陽根に刻み付けられた消えない痕。常識や理性を盾に築いた壁をいとも簡単に突き崩すあの振る舞い。お菊の心の中には、若い娘達が高らかに嘲笑する声が響き渡っていた。
最後に夫と並び立つのは自分だという唯一の縁(よすが)が、いとも簡単に覆される。
夫の『男』と永遠に結ばれた女。最も大事な部分に、刻み込まれた女。
「……口惜しゅうございます! 私は何の為にこれまで耐えてきたのか!」
身を投げ出して泣き伏す後家の姿は哀れを誘う。海竜は故人の見る目の無さに憤った。そこには、滾る情を豊満で清楚な身体の内に封じられた、美しく激しい女がいた。この今にも弾けそうな甘い果実を放って、乾いた褥に留め置くとは。勿体無いにも程がある。
「品のない下女などと自分を比べるのは、自らを貶めるものとわかっているのです。それでも、床に夫を招き入れることが出来たのは若い女達。女主人よと威張って見せても、夫の身体に刻まれた傷が消えるわけではありませぬ。事の道理や体面など、なんと無力であることでしょう」
海竜は泣き伏す女を優しく抱き寄せて慰めた。
「死者の傷跡を消す方法がないわけではない」
お菊は目を見開いた。
「そのようなことがお出来になりますの!?」
「むろん、あまり勧められることでもないが……」
言葉を濁した海竜の袂にお菊はすがりついた。夫への愛と若い妾への敵対心、それらが交じり合った女の瞳には、今まで伏して見せなかった炎が燃えていた。
「教えてくださいまし、後生にございます!」
海竜はお菊の肩を抱き寄せると、その首筋に鼻面を押し付け、いかにも内緒話というように、お菊の耳に囁いた。
「治らぬ傷跡を消すには、更に大きな傷を上からつけてしまえばいいのだ。あなたが」
お菊は驚いたように口元を覆い、それからその具体的な方法を想像するに至って身体を震わせる。海竜がその様子を見て意地悪く笑みを浮かべ、お菊は頬を赤らめた。
「そういえば、ちょうど拙者は東の方角を拝まねばならんことになっておる。しばらく時間がかかりそうであるな」
わざとらしく死体に背を向けて、目を閉じて数珠をじゃらじゃらと鳴らす海竜を見て、お菊は少し躊躇っていたものの、やがて心を決めたのか、夫の下へ歩み寄った。
さらさらと、衣を肌蹴る音がする。幾度か海竜の様子を窺う気配がしたので、海竜は不自然なほどにぴんと背を伸ばして目を閉じ、でたらめに入り口の襖を拝んだ。
やがて物音がしなくなったので、こっそりと振り返って見ると、お菊は先ほどの小間使いよりずっと上品な所作で、夫の股間に唇を寄せていた。局部の肉を咥えた顎に力を込めるのがわかった。生身の男であれば、痛みに悲鳴を上げて飛び上がるところである。しかし、上品な美しい女が、自ら男の性器を口に咥える様は、まさに見物であった。海竜は思わず頬を綻ばせる。
お菊が口を離すと、件の小間使いのつけた浅い型など無かったかのように、亀頭の肉を破る深い傷が、力なく垂れた陰茎の先に刻まれていた。血が流れ出さないことばかりが不思議に見える、内部の赤い身が覗いた生々しい傷だ。
力強く咬んだために、ついてしまった口紅を落とそうと、お菊が先端を拭おうとしたとき、海竜がそれを後ろから止めた。
「紅は残しておいたほうがいい」
見られておらぬと思っていたお菊は顔を真っ赤に染めたが、海竜はあえてそれを視界に入れぬ振りをして、ずいと死体の股間へ顔を乗り出し、出来栄えを確かめるように覗き込む。
「ここへ紅をつけたまま墓へ入るは、男なら誰しも羨む死に様である故に。それに……このような上等な紅ならば、小間使いごときに手に入るまい」
そう言って、いたずらめかした笑みを浮かべて、お菊と目を合わせる。高価な紅は女主人の歯形の証。それを聞いたお菊の瞳から、すっと恥ずかしがる心が消えて、彼女は力強く頷いた。
「夫はつまらぬ顔をするかもしれません。私のような年増女は、夫の好みではなかったようですから」
力なく自虐の笑みを浮かべるようでも、先ほどの悲嘆にくれる姿とは、芯にこもる輝きが違った。妾の小娘を出し抜いてやったとの思いが、自らを傷つけてみる余裕さえ与えたのだろう。
「なにを仰る。あなたは眩いばかりの美しさをお持ちではないか」
お菊は自嘲しながら首をそっと振った。
「取り澄ました顔を見せても、醜い心は隠せませんわ。頭は誇りで説き伏せても、心は怒りで押さえつけても、体の飢えは誤魔化されてはくれませぬ。私は浅ましい女です」
「肉体の欲を恥じることはない。それは誰もが求める渇き。ただ人には軽く見せぬだけの話よ。屁をひり、糞をし、尿(ゆばり)を流し、火照る身体を持て余すのは、だれもが布一枚の下に隠してやっておること。拙者も、あなたも、御主人殿も」
「御仏に仕える方でも、肉体の欲に悩まされますか?」
嘯くように尋ねたお菊の手を取った海竜は、その手を自分の胡坐の中へ導き入れ、僧衣の下から首をもたげる膨らみを握らせた。
「もちろん、この通り」
驚くお菊は目を見開くが、久方ぶりに触れる男の熱から、手を放すことが出来ない。息を呑んだお菊は、渇いた口から何とか言葉をつむぎだした。
「お坊様は、これをどうやって耐えていらっしゃいますの?」
「お釈迦様は、現身(うつしみ)に感じるものは全て幻と説いておられる。数多の僧侶達も、股間の疼きを幻と言い聞かせて取り澄ませておる。表向きはな」
海竜は、己の股間の上でお菊と手を合わせ、脈打つ塊をなぞった。
「しかし、人の子として産まれた身なれば、傍にぬくもりがあれば、肌を合わせずにはいられまい。布一枚の下では、誰もがこのように餓えておるのです。お菊殿も自分を見下しなさるな。長らく食を断った者が、一さじの粥を求めたとて、それを蔑むような愚かなことはあなたもせぬでしょう」
お菊は目を閉じ、指先に触れる剛直を、海竜とともに静かに撫でた。
「こんなにはっきりと温もりを感じますのに……私もこれを幻と言い聞かせねばなりませんの?」
「実はそれほど難しいことでもない。こつさえ押さえれば、熱を冷ますのは簡単なのだ、お菊殿。全ては幻。実体を持たぬ夢の一片(ひとひら)。目に映る色、鼻に匂う香、耳に聞く音、全ては幻」
海竜の手がお菊の肩を抱き寄せ、撫で下ろした。
「この手の熱も、全ては幻。実体を持たぬ、虚ろな温もり」
ゆっくりと、お菊の身体をまさぐった手は、包むように胸の膨らみをたどり、その輪郭をなぞる。
「これも……幻?」
「そう、全て幻」
海竜はお菊の首筋に鼻面を埋め、唇の動きをお菊の肌に伝える。耳元に吹きかけられた吐息に、お菊は身をこわばらせ、海竜の肉茎を握る手に力をこめた。そして、自分のやったことに驚いたかのように身を竦め、手を引く。
「安心なされ。どんなに強く力をこめようとも、その手に触れるは、全て幻。恐れるものなど、何もござらん」
海竜は再びお菊の手をとり、自分の股座へ忍び込ませた。今度は僧衣の下へ。押し上げられて緩んだ褌の、中へ。
汗ばんで縮れた剛毛の中の、焼けつく鉄の棒。お菊は夢現に、細い指先でそれを弄った。心の求めるままに。餓えた欲のままに。
海竜の手が、お菊の胸元に滑り込んだ。吸い付くように触れる肌も、布越しとは段違いの高い熱も、全て幻と言い聞かせながら海竜は膨れた乳首を摘む。
耐え切れぬように、お菊は喘いで呼気を求めた。海竜がそれに答えるように唇を合わせて息を吹き込む。舌先で歯列をなぞると、お菊の全身からくたりと力が抜けた。もはや抗う意思もなく、幻の肉体が感じる幻の快楽に、お菊は身を任せたのだった。
肌蹴られた喪服の襦袢の間から、真っ白な肌に咲いた桃色の乳首が頭を出す。つつましく閉じられた太ももの間に艶のある茂みがあり、その下に優雅に折りたたまれた襞が隠されていた。
「美しい幻だ」
海竜の呟きに、お菊は頬を染めて目を逸らした。
「恥ずかしゅうございます」
「では、我が名を呼びなされ。海竜と」
海竜は顔をお菊の秘所へうずめて、舌で嬲った。
「ああ、海竜様! ……海竜様!」
やがて、しっとりと濡れたお菊の女陰(ほと)へ、逞しき昂ぶりが押し当てられた。お菊は震えながらも、海竜の胸へ腕を回して、正直に男を求めた。
湿った音を立てて滑り込む男根を感じて、お菊の身体が宙に浮いた。内部(なか)を満たされた幸福に、積年の孤独が溶け逝き、お菊は涙を流して悦んだ。何度も、何度も、海竜の名を呼び、それに答えて打ち付けられる力強い頑丈な腰に、脚を絡めた。やがて、お菊の中で果てた海竜の陰茎が、ずるりと引き抜かれても、股間に残る異物感は、お菊に心地よい酩酊を残した。
「これも幻でございますのね」
裸をさらした二人は、お互いの身体を確かめるように指を這わせていた。
「うむ、しかし、幸福な幻でござるな」
海竜はお菊に優しく微笑みかけた。お菊も力なく微笑み返す。
「自分がこのようなはしたない女だとは思いもしませんでしたわ。殊に夫の前で裏切るようなことを……」
目を伏せたお菊の顎を指で持ち上げ、海竜は唇を合わせた。
「裏切りではござらんよ。これは供養である故に」
わからぬように首をかしげるお菊を抱き寄せ、身を起こすと、共に裸のまま、故人の躯に向かって座り直す。
「強い未練は、故人の魂を現世に繋ぎ止める。お菊殿がご主人を慕う心が、満たされぬ愛が、強ければ強いほど、かの御仁は成仏できずに彷徨うことになるのだ。見送る者は、心安らかに故人の冥福を祈らねばならん。死者を引き戻そうとしてはいかんのだよ」
「心、安らかに……」
「拙者は僧である故に、お菊殿の絡まった心を解きほぐす手伝いをしたに過ぎぬ。これは裏切りではない。お菊殿は、拙者の身体を使って、御主人と愛を交わされたのだ。妻としての最後の勤めにな」
「だからこそ、後ろめたく思わずともよい。全てはあなたが夫を思う心故。生前、あなたが交わせなかった分の夫婦の営みを、ここで清算するのだ。足りぬと思う心が、かの御仁の御霊を縛らぬように」
海竜は再び故人の死装束を開いた。軽く被せられただけの着物が肌蹴て、口紅に彩られた陰茎が現れる。海竜はお菊の手をとって、その柔らかな肉筒を握らせた。
「これがあなたの夫だ。あなたの印のついた、あなたのものだ」
海竜がその包皮を剥いて亀頭を晒すと、弧を描く歯形の裂け目から、中の肉が見える。
「心配せずとも、この印があれば、来世の縁も見失うことはない。糸は強く結ばれておる。引いて手繰り寄せるのは今ではないのだよ。今はしばしの別れのとき。あなたの夫が無事成仏して、来世に迷わずたどり着けるよう送り出すときだ。お菊殿が現世の勤めを終えたならば、そのとき糸を手繰って御主人殿に追いつかれるが良い」
「ええ、ええ」
お菊はぽろぽろと涙を零しながら、両手に良人の性器を包み込んで頷いた。海竜はそっと後ろからお菊を抱きしめる。優しく乳房を揉みながら、海竜は言った。
「私の身体はただの道具。あなたは夫を想うと良い。あなたは夫に抱かれるのだ」
お菊は海竜の言葉に従い、夫の太腿に頬を寄せた、夫を見て、夫の匂いを嗅ぎながら、夫を呼んだ。そして、海竜の囁く言葉を、夫の声と想いながら、後ろから突き上げる海竜の男根を、夫の棹と想いながら、膣に注がれる海竜の精液を、夫の種と想いながら、過ぎ去った夫婦の営みをやり直すつもりで、夜通し愛を叫んだ。
朝が来て、お菊は村の手前まで約束通り海竜を送り届けた。頼りにならぬ小間使いの代わりに、村を回って用事を済ませねばならぬと恐縮するお菊の代わりに、海竜は住職への言付を約束した。
別れの段になって、お菊は名残惜しげに海竜の袖を引いた。
「またお会いできましょうか……」
海竜は人目につかぬようにお菊を抱き寄せて言った。
「ここの和尚殿に頼んで、伺う際には私も共をさせていただけるよう頼んでみよう。昨晩のようには行かぬかも知れぬが」
寺へ戻った海竜は、戻っていた和尚と、留守番の小僧に出迎えられた。
「お帰りなさいませ、海竜殿。ご苦労様でございました」
小僧の言葉に軽く返事をした後、寺の主に挨拶をする。鷹揚に迎えた和尚は、しかし即座に、昨晩の詳しい説明を要求した。
なにせ、小僧はろくに身元も確かめず、相手を見てもいないのである。檀家にしても、誰が亡くなったかの噂の把握すら出来ていないのは問題だった。
叱られた様子の小僧に謝りながら、海竜がお菊について語るも、和尚は小僧と同じく、誰の話やらわからぬようであった。
「一の谷のお菊? ふむ、聞き覚えのない名じゃな。亡くなられた御夫君はなんというのかね?」
まさか和尚もわからぬとは思っていなかった海竜は、はたと悩んだ。知らないからである。包皮の中まで覗いたというのに、まともに顔すら見ていない。
「はて、言われてみれば、聞いておりませんな。お菊殿が自然に振舞われるので、旧知の仲であるのかと、早合点してしまったようです。故人も、やや線の細い御仁でしたが、なんと申せばよいのやら……」
かの男の生き様に着いては、無駄に詳しく知ってしまったが、小間使いと浮気をしていたや、性器やへそ周りの様子を描写しても無駄であろうから、そういった説明はしない。
「鏑矢と三日月の家紋が屋敷の門に焼き付けてありましたな。平の血につながる名家だと聞きましたが……」
「鏑矢と月……大郷の家紋かの? あの家には大刀自(とじ)様しかおらんはずだが」
海竜は即座に否定した。他の何が食い違おうとも、故人が男であったことだけは、明らかな事実だからである。
「さすれば、この界隈に、そのような紋を抱いた屋敷は残っておらぬぞ」
「弱りました。拙者は和尚殿に今宵の読経をお頼みすると、言伝を約束してしまったのですが」
「今宵もまた、その後家殿は迎えに来ると申されたか?」
「はい、そのように」
「では、その折に確かめられよう。顔を合わせれば流石に身元も知れよう」
海竜は頭を下げて連絡の不首尾を詫びた。
「なに、仕方あるまい。土地のものにあらずば、檀家の顔ぶれなど、わかるはずもなかろうて。貴殿の責ではない故、そう恐縮なさるな。むしろこちらが礼を言わねばならぬ立場じゃ」
和尚は再び先方の様子を尋ね、海竜は脳裏にお菊の痴態を浮かべながら、それをおくびにも出さずに、取りすました顔で、拙い我流の仕業なれども、それなりに満足はしてもらえたようだと答えた。
「それは良かった。不都合ばかりでは、申し訳がたたんからの。折り悪いことが重なってしもうたが、ちょうど海竜殿に訪れて頂いたのも御仏のお導きであろうな」
「住職殿、これも何かの縁であると思えば、良ければ今宵も住職殿と共にかの屋敷を訪ねて拝ませていただきたいのであるが。もちろん、邪魔はせず、こちらの流儀の勉強に勤める故に」
和尚は従容と頷いて、それを認めた。
「よかろう。篤学の心は有らまほしきことじゃ。しかしその前に、昨晩は旅の疲れを取る暇もなく、いまだ眠ってもおらんのじゃろう。床を用意させる故に、ゆっくりと休みなされ」
和尚に温かく勧められた海竜は、その言葉に甘えてぐっすりと眠った。実際、峠の街道を抜けた後に、夜雨の山道を越えた上、夜を徹して情事に興じた訳であるから、海竜の疲労が限界に達していたのは無理もなきことである。
和尚は海竜の顔色の悪さを、単純な旅の疲れと徹夜の勤めの故に思い、倒れるように眠りについたとの、小僧の報告も、軽く受け流した。
さて、海竜が目を覚ました頃には、すでに日は傾きかけていた。
気だるさの残る腰に活を入れながら、裏手の井戸を借りて水を浴びる。無頓着に服を脱いで諸肌を晒していると、通りがかった小僧に声をかけられた。
「おや、海竜殿。ずいぶんと虫に喰われた痕がありますが、はて、布団に蝨(だに)でも付いていましたか」
慌てて自分の身体を見れば、そこかしこに紅い斑点が残っている。明らかに情事の名残りであった。純朴な小僧の勘違いに、胸を撫で下ろしつつ、村に至る前の宿で喰われた痕だと説明する。
「それはそれは。私の手抜かりでなくて良かったといいたいところですが、しかし、ずいぶんおひどい様子。今日もよく眠れなかったに違いありません。お顔色もまだすぐれないようです。蓬を煎じた薬がありますので、お塗りいたしましょうか?」
苦笑しながら、一度掻いてしまっただけで今はもう見た目ほど痒くはないのだと言い添える。小僧はともかく、年経た和尚に見られては、何の痕やらすぐにばれてしまうであろうから、海竜は丁重にその申し出を断った。
代わりに空いた腹を満たす食事を所望し、その間につつましく服を着込む。誤魔化しぶりも年季の入ったことで、まことに手馴れた様子であった。
さて、夕闇も深くなり、一体お菊が顔を出すのはいつになるのかと、皆が不思議に思い出す頃、厠に立った海竜は、ぼそぼそと扉の向こうで己を呼ぶ声を聞いた。
用を足し終えて外へ出てみると、そこに立っていたのは提灯を持ったお菊である。
「おお、お菊殿、お待ちして申した。いや、お恥ずかしながら、一の谷の御方がどの方やら、拙者の伝手では和尚に伝えきれませんでな。拙者一人ではまだお屋敷の場所もおぼつかぬ故、情けなくしょぼくれておったのです」
お菊は落ち着いた様子でその手を振った。
「いえ、御住職様とは先ほどお会いしてお話をさせて頂きました。どうやら、夫の名を使わずに自分の名前だけを名乗ったせいで、皆様をいたずらに惑わせてしまった様でございます。申し訳ございません」
「それでは住職様もちゃんとお菊殿の顔は見知っておられたのですな」
「ええ、嫁入り前の名も覚えていただけたようで、そちらを先に言えと叱られてしまいました」
そう言って、お菊は穏やかに笑った。昨晩の打ちひしがれた様子とは違い、ずいぶんと落ち着いた所作を見て、海竜は喜ばしく思った。
「それでは、まいるとしようか。住職様も本堂でお待ちでしょうな」
そこでお菊は思い出したように言った。
「あら、いけませんわ。私としたことが、大事なことを伝え忘れておりました」
「どうされました?」
「その御住職様なのですが、今先ほど、別の檀家の方が参られて、急ぎの用事と出られてしまったのです」
海竜は眉をひそめて憤った。
「そんな馬鹿な。前もって約束を取り付けてあるというのに」
「いえ、なんでも地主のお館様の御用とのことですから、仕方ございませんでしょう」
「しかし、二日続けて顔も出さぬというのでは……」
「私も主人も、不満には思っておりません。どうせ本式の葬儀は山向こうの親戚筋がそろってからになるのですし、先ほど住職様にはよく労って頂きました。お経文も、海竜様にしっかりと上げていただきましたので、主人も喜んでおりましょう」
納得しがたい話ではあるが、当人に自分の仕事を喜ばれているのであれば、異も唱えられまい。続く言葉にも海竜は快く頷いた。
「それで、今宵も主人へのお経文は海竜様にお頼みしたいのですけれど……」
「うむ、元より和尚殿と共に出向く予定であった故に、そこは問題ござらん。すでに直接顔を合わせられたのであれば、こちらとしては何も言うことはない」
再び、海竜はお菊と共に山を登り、一の谷の屋敷へ向かった。
昨晩と同じように勝手口をくぐると、小柄な老人が二人を出迎えた。昨日は見なかった顔である。
「おや、奥様。御住職様は代替わりされたので?」
「いえ、そうではないのよ。御住職様は地主様のところへ行かれたので、こちらの海竜様が代わりにお経を上げて下さることになったの」
老人は顔を顰めて舌打ちした。
「まったく、地主ごときに招き手を取られるとは、この家も落ちぶれたものさね」
海竜は慌てて頭を下げた。
「申し訳ござらん。拙者のごとき若輩者では名代にもならぬのだが、誠心誠意勤めさせていただくので、今日のところはご勘弁を下され」
「まあ、海竜様。頭をお上げくださいませ。この爺はただの使用人にございます。家には良く仕えてくれましたが、古い人間で偏屈が過ぎるのですよ」
「しかし、此度の不手際は、拙者も申し訳なく思うておる故、謝罪はしておかねば。一介の使用人であれども、由緒正しき家に仕える矜持を軽んじるつもりはござらんのでな」
「ふん、改めてへいこらされるほど、こちとら出来た人間じゃございませんや。どうせ死にぞこないのされこうべですとも」
「爺や、お坊様に失礼をなさってはなりませんのよ。この家の名に傷が付くわ。さあ、大叔父様をお迎えに上がって頂戴な。明日までに帰ってこれなくなるでしょう」
「わかっておりますとも。しかし奥様、本当に大丈夫ですか? お豊まで外へ出してしまって。今晩この家に誰もいなくなってしまいますが」
「昨日だって、お豊はろくに仕事をしやしなかったわ。いてもいなくても同じよ。何度も言わせないで。お前が出ないわけにはいかないのだから、私を心配してくれるなら、早く行って、早く帰ってきて頂戴」
きびきびと言い含める姿は、流石に女主人の風格を持つ様子で、老人もそれ以上口を挟むことなく、入れ替わりに屋敷を出て行った。
「申し訳ございません。お見苦しいところを」
海竜は鷹揚に手を振った。筋の通った老人に見えればこそ、別段気にするべき人柄にも思えず、それに、見苦しいと言うなら、昨日のお豊とやらの出迎えを超えるものはない。もちろん、口に出して言わぬが礼儀であるが。
前日の通り、お菊は海竜の足を清めることを申し出たが、この度は海竜は拒まなかった。僧衣の裾をたくし上げ、嬉々として脛を女主人へ差し出す。屈みこんで足を洗うお菊の眼前に、何食わぬ顔をして、大股開きで褌の前袋を見せびらかす様子は、前夜と違った気安さを感じさせた。
「今晩は我々の他に誰もおらぬと聞いたが……」
「ええ、あの小間使いはよそへやりましたので、明日まで誰も帰ってはきませんわ。私で十分なおもてなしが出来るかはわかりませんけれど」
「こうしてお菊殿に世話を焼いていただく以上のもてなしはあるまい」
二人が交わす視線には、ねっとりとお互いの期待が含まれていた。二人とも、気づかない振りをするほど初心ではなく、薄情でもなかった。海竜はわざとらしく、痒いところを掻く振りをして褌を緩める。はらりとほどけた包みの中身が、お菊の前にこぼれ出た。
「おっと、失礼」
かといって、慌てるでもなく、隠すでもない。お菊も何事もなかったように、濡らした手拭で海竜の身体を清める作業を続けた。とても、丁寧に。
「拙者はまだ死んでおらぬ故、歯だけは立てぬように頼みますぞ」
海竜は、お菊の黒髪を撫でながら笑って言った。そして、未亡人の奉仕に目を細めた。
結局、それから帰路に着くまで、海竜が褌を締めなおすことはなかった。しかし、存外に真面目に勤めを果たしたともいえよう。お菊のひくつく豆を舌で転がす時などを除いて、この男は仏の為に念仏を唱え続けていたからである。
朝になって、再び村へ戻された海竜を待っていたのは、何故か憮然とした和尚と小僧であった。一体どこへ行っていたのかと問う二人に、一の谷の屋敷だと答えると、和尚は何故声をかけなかったと、海竜を責めた。
海竜が目を丸くして、すでに和尚は出かけた後であったではないかと答えると、和尚は昨日はずっと本堂でお菊とやらの迎えを待っていたと言う。
そんなはずはないと、海竜はお菊の言葉を繰り返し伝えたが、和尚はただ呆れたように首を振った。
「何ゆえそのような誤解が生じておるのかわからんが、詳しい話は後で聞こう。おぬし、とてつもなく酷い顔をしておるぞ。とにかく休め。今にも倒れそうじゃ」
激しい情事に体力を使い果たした自覚のあった海竜は、素直に頷いてその勧めに従った。そして、再び糸が切れるように深い眠りに落ちたのであった。
和尚が怪しみ始めたのも、当然である。げっそりと落ち窪んだ海竜の顔に、ただ事ならぬ何かを感じた和尚は、海竜から目を離さぬようにと小僧に命じた。
小僧も、何がなにやらわからぬまま、海竜の枕元に控えることにしたのであった。
海竜は、己の名を呼ぶ声で目が覚めた。
声に答えて起き上がると、寺の境内からお菊の呼ぶ声がする。
「おお、お菊殿。今日は日がまだ高いが、もう迎えに来てくださったのか?」
「ええ、早くお迎えに上がれば、それだけ長く海竜様と過ごすことが出来ますもの」
頬を染めて語る寡婦に、海竜は目尻をやに下げて歩み寄った。
「それでは行くとしましょう。求められて答えぬは、男の恥でござるからな」
海竜は豪快に笑って、庭先に飛び出した。
さて、驚いたのはそれを見ていた小僧である。眠っていたと思った海竜が、突然誰もいないというのに、一人で誰かと会話を交わすようにぶつぶつと声を上げながら起き上がり、そのまま外へ飛び出してしまったからだ。
小僧はしばし呆然としていたが、慌てて海竜の後を追いかけた。海竜は脇目も振らずにどんどんと、山奥へ入り込んでいく。小僧が必死で走っても、突き放されて行くばかりであった。それでも頑張って小僧がついていくと、海竜はふらふらと森の中をさまよい、やがてふと姿を消した。
慌てて駆け寄るも、すでにどこにも痕跡はなく、探し回った小僧は、茂みの奥に寂れた墓地を見つけた。苔むした墓石が並ぶ間に足を踏み入れると、小僧の耳に声が届いた。獣のうなり声ともうめき声ともつかぬ奇怪な響きに肩を震わせながら、忍び寄った小僧がこっそりと様子をうかがうと、墓地の最奥の一番立派な墓石の前に、海竜が立っているのが見えた。声の主は他ならぬその海竜で、なにやらぶつぶつと誰かと話しているようにも見えるが、むろん相手の姿などはない。何より小僧が声をかけしぶったのは、海竜が素っ裸であったからだ。小僧にとっては丸太のように見える勃起した巨根の幹に数珠を巻きつけ、ごりごりと擦り立てながら、叫び声をあげている。寂れた墓地で腰を振りながら、滲み出た体液を撒き散らす姿は、壮観でありながら滑稽であった。あまりのことに凍りつく小僧の前で、海竜は女の名を呼びながら自らを慰め続けていた。
「おお、お菊殿、お菊殿、そんなに締め付けられては、もうもたぬ」
苦しげな吐息を漏らしつつ、大きく股を開いた海竜は、前を擦りあげるのと逆の手を股間にくぐらせて、自分の尻の穴にその指を突き入れた。ぐちゃぐちゃと中をかき回す音が離れた小僧のところにまで聞こえてくる。
「そんなところへ指を入れてはならん、お菊殿。そんなことをされては、拙者は、拙者は……うおお」
海竜の目は虚ろであった。この世のものならぬものを見ている。小僧の目には、一人愚かしく淫らな自慰にふけるようにしか写らぬが、海竜は、お菊と名乗る物の怪の類(たぐい)と、まさしく今まぐわっているつもりに違いない。
「出しますぞ、お菊殿の中に出しますぞ」
一声更に大きく吼えた海竜は、洪水のように勢い良く種汁を噴き上げた。弧を描いた白い液が、びたびたと音を立てて墓石に降りかかる。なんとも罰当たりなと、小僧は身を竦めた。
そこではじめて我に返った小僧は、海竜を正気に返して、連れ帰らねばならぬと思い立った。射精後の余韻に脱力しつつも、まだ肉筒をゆるゆる扱き続ける海竜の元へ駆け寄り、少し躊躇った後、その腕を引く。
「海竜殿、海竜殿」
呼ばれた海竜は、うつろな目をしたまま、小僧の声に答えた。
「しばし待たれよ、お菊殿。すぐにまた用立ててみせる故に」
海竜がにやりと笑って、股間の息子を振って見せたので、小僧は勢い良く海竜の面を何度か引っぱたいた。
「お目を覚ましなされ、海竜殿」
「ええい、貴様何をする。邪魔をするな」
ようやく小僧の姿を認めた海竜は、握り拳を小僧の頭に返した。頭を抱えて蹲る小僧を放って、再び女との逢瀬に戻ろうとしたが、そこではじめてこの男は、自分が見慣れた屋敷にいないことに気づいた。
「……お菊殿? お菊殿!」
女の名を呼びながら辺りを見回した海竜は、小僧を捕まえて揺さぶる。
「ええい、狸め。坊主を騙そうとはいい度胸だ。さあ術を解け、早く解け!」
「失敬な! 物の怪は私ではなく、そのお菊とやらでございます! このような山中の墓地で何をしているかと思えば、あいたたた」
痛みに涙を浮かばせた小僧は、あまりに理不尽な扱いに苦情を申し立てた。それでも海竜は本気に取らず、消えたお菊を探し続ける。
「そんな馬鹿なことがあるものか。つい先ほどまでこの腕の中に……」
そこで海竜は、目の前の墓石に釘付けになった。長らく手入れをされていない苔むした墓石に、つい最近、何度も何度も引っ掛けられた雄の精の跡。極めつけは、今出したばかりの種汁がとろりと縦断する、鏑矢に月の家紋。
海竜の顔から、すっと血の気が引いた。
寺に連れ帰された海竜は、そのまま真っ青な顔をしていた。
痛々しいものを見る目つきで様子をうかがいながら、小僧の話を聞いた和尚は、ゆっくりと言い聞かせるように、己が物の怪に誑かされていたのだと、海竜に教えた。
坊主が悪霊に騙されるなど、冗談にもならぬ話であるが、和尚は海竜に同情的であった。なぜなら、この年頃の精力に有り余った若い男は、例え仏に仕える身であっても、いや、俗世から間をおいて暮らす身であるからこそ、色の誘惑に負けてしまいやすいからだ。
和尚と海竜の関わりはほんのわずかな期間であったが、それでもこの男が立派な心持ちの、善良な僧侶であると、和尚は感じていた。
もしこれが、海竜の生まれ故郷の和尚や兄弟達、行く道すがらに種を撒いた先の関係者であったならば、はっきりいって自業自得と言い捨てたかもしれない。少なくとも、不思議には思わなかったであろう。出会う先々でことごとく女に手を出して歩くのであるから、そのうちいつかは物の怪の女に行き当たるのも、もはや必然と言えたろうからだ。
幸いにも、この村の和尚は、海竜の過去の所業を知らぬが為に、『ただ一度の若さゆえの過ち』で、前途ある有能な若者が身を滅ぼすのは不憫であると感じた。
だからこそ、和尚は厳しく海竜を叱り、そして、親身になってその身を案じ、対策を講じたのである。
海竜は、和尚の熱意に心打たれ、感動のあまり男泣きに涙を流しながら、これまでの己の生き様を反省し、真摯に悔いたのであった。
前日の様子からも、お菊の姿が海竜以外に見えていないのは明らかで、このまま放って置けば、この世ならざる者と交わりを持った海竜が衰弱して果てるのは時間の問題に思えた。海竜が真実に気づいたからといって、お菊と名乗る霊が、潔く海竜から離れるとは期待できない。和尚も、また海竜自身も、物の怪の、とりわけ女の情念の強さを甘く見るようなつもりはなかった。
和尚は海竜に、もし再びお菊から声をかけられることがあっても、決して答えてはならないと言い聞かせた。生半な同情で優柔不断な様子を見せれば、たちどころに魂ごとあの世へ引きずりこまれると、重々しく警告する。きっぱりとした拒絶のみが、己の命と、そして亡者の魂を救う方法なのだと、和尚は諭した。そして海竜も、納得してその忠告に従うことを、誓ったのである。
和尚の懸念は、海竜の全身に残る痣であった。単体では何のことはない、唇の吸い痕であり、直接命に関わる傷ではないのだが、問題は、それを付けることができたという事実である。
海竜自身の口が届かない位置にも残っているのだから、これはお菊という幽霊が残したものであると考えて差し支えないだろう。つまり、お菊は海竜に『触れることができる』ということだ。
夜な夜な若い男に幻を見せて、死ぬまで精液を搾り取るだけなのと、実際に身体に触れて肉体に痕を残すことが出来るのとは、大きく差がある。つまりお菊は、その気になれば海竜の身体に、単なる情熱的な接吻の痕以上の傷をつけることができるのだと考えられる。そして、海竜がお菊の求めに応じなかった場合、怒り狂ったお菊がその気になるのは想像に難くない。
和尚は海竜の身を守るため、その全身に魔を払う真言と、魂鎮めの経文を墨で書き記した。顔、腕、胴、脚、尻の割れ目から、包皮の裏に至るまで、隙間なく力ある言葉を書き付ける。
和尚が真剣であったから、海竜も、どんな敏感な場所を筆でくすぐられようと必死で耐えた。文字の歪みは気の歪みになり、結界の鎖を弱くしてしまうからである。和尚は海竜の全身に護りの言葉を設えると、塩と米と酒を捧げて部屋を清めた。
戸口を小僧に見張らせながら、和尚は海竜の為に念仏を唱えた。その深き慈愛に溢れた声は、怯える海竜の心を、温めて落ち着かせた。
丸一日、和尚は経文を唱え続け、その間海竜の身に異変はなかった。しかし、いつまでもそれを続けるというわけにも行かず、和尚も席を外さねばならぬときがあった。
海竜は仔犬のような目で和尚を見上げつつも、決して女の声に答えてはならぬと、改めて言い聞かされ、深く頷くのであった。
そして夜も更けた頃、海竜が胡坐をくんで瞑想をしていると、ちりちりと静かに燃えていたろうそくが、突然いっせいに掻き消えた。風でも吹いたかと空気を探っても、特に動きは感じられない。同じ部屋にいるはずの小僧は何の反応も示さないので、居眠りでもしてしまったのかと思ったが、海竜は嫌な予感がして声を出せずにいた。
すると、消えたと思ったろうそくに、再び火が灯った。音もなく静かに揺らめく、青味がかった炎である。どこか月明かりにも似たその色合いに、海竜は部屋の中がすっと冷えるような感覚を覚えた。
「海竜様」
そして声が聞こえた。お菊である。
「ようやくお会いする事が出来ました。先日は突然帰ってしまわれて、寂しく思っておりましたのですよ」
悪霊などとは信じられぬような、優しげな笑みを浮かべた喪服の後家がそこに立っていた。改めて見直せば、やはり美しい女である。しかし、真実を知った海竜の目には、お菊の身体がおぼろげに、透き通るように見えた。
海竜が小僧の座っている場所に目をやると、小僧は目を開けたまま、びくりとも動かずその場所で固まっていた。海竜はそれを見て、やはりなにかの間違いではないかと望んでいた気持ちが潰える虚しさが、胸の奥に広がるのを感じた。
「海竜様、今宵も屋敷には誰も戻らぬように計らいました。さあ、一緒においでくださいまし」
今にもうっかり応と答えてしまいそうなところを、海竜は必死に踏みとどまった。貝のように口をつぐんで、お菊の言葉を聞き流す。
「どうなさいましたの、海竜様。何か仰ってくださいな」
お菊の声には胸の痛むような悲しみが込められていた。座っている海竜の前に近づき問いかけるも、海竜の身体に触れようとすることはない。触れられないのだ。和尚の念のこもった言葉は、確かに海竜を守っていたのである。
「おお、海竜様、せめて、せめて一言、お言葉を聞かせてくださいまし」
懇願するお菊の顔が目に入らぬよう、海竜は堅くまぶたを閉じた。
「後生にございます。私は夫に相手にされず、永遠の闇を孤独に過ごしてきたのでございます。今また海竜様にお声もかけていただけないとなれば、私の胸は張り裂けてしまいます。あの苦しみはもう味わいたくございません。どうか、どうか、一声お声をくださいまし」
海竜の胸は痛んだ。お菊の孤独は海竜にも理解できたからだ。お菊は、はるか昔に世を去ったこの女は、あの山奥の屋敷の中で、冷たい褥の中で、誰にも求められず長年苦しみぬいたのだろう。その餓えた心故に、今尚現世に縛り付けられているのだ。
「あまりに酷うございます。海竜様のお手がなければ、私は何も知りませんでした。幸せも温もりも、何も知りませんでした。私にその味を教えた後で、今更また元の暗闇へ帰れとは、なんとも無碍な仕打ちにございます」
さめざめと泣き伏すお菊の声が、海竜の心を責め苛んだ。いかにもお菊の言うとおり、海竜の所業はこの女の霊に非道なものであった。それがわかっていようとも、答えるわけにはいかぬのである。きっぱりとした拒絶のみが、己の命と、そして亡者の魂を救うのだと、和尚の言葉を海竜は何度も心に言い聞かせた。
「ああ、海竜様、海竜様。私は忘れられませぬ。あなたの声、温もりを諦めることなど出来ませぬ。例え海竜様にとって、私の身体が幻であっても、私にとっては、あの幻が全てでありました。あなた様との幾度かの逢瀬が、この永劫の刻の果てに私の持つ唯一のものであったのです。どうか、どうか、今一度、お情けをくださいまし。このお菊の、最期の願いにございます」
はらりと、お菊の帯が解かれ、衣が落ちた。現れたのは、妖しげに照らし出される、成熟した女の白き裸体である。その首筋に、胸元に、股の茂みのすぐ傍に、海竜が吸いつけた痕が斑に残っている。その痕の一つ一つを、海竜はどのように残したか思い返すことが出来た。絹のような柔肌を嬲るように責め、その度にお菊が息を呑んで身を震わせた記憶が、ありありと思い浮かんだ。
お菊のほっそりとした指が、海竜の眼前でその豊満な乳房を撫でさすり、誘うようにふっくらとした乳首を摘んだ。
「ああ、海竜様、どうかお手をくださいまし」
掠れた声が何度も海竜の名を呼ぶ。海竜の身体に触れることの出来ぬお菊は、自分の身体に触れるしかなかった。
股間の茂みに忍び下りた逆の手が、恥じらいながらその襞を割り開く。躊躇いがちに頭を覗かせた陰核をこね回すと、熱のこもった鳴き声が漏れて、お菊の身が震えた。
「海竜様! 海竜様が欲しい! 海竜様の熱が欲しい! 私の中にそのお腰を突き入れて、かき回してくださいまし! おお、おお!」
繰り広げられる痴態は、扇情的で、それでいて胸を締め付けられるような物悲しいものだった。美しく気高く、上品な女が、ただ刹那の温もりを求めて自らを慰める仕草は、嫌が応にも男の欲情を誘った。
ひたすらに海竜の陽根を乞い願うお菊が、膨らみを増した海竜の股間に気づかぬわけがなかった。海竜の身体が反応したのを察したお菊は、その盛り上がりに顔を寄せ、吐息を吹きかけた。
布越しに感じる僅かな風に、ぴくりと海竜の身体が揺れる。
「私だけでは物足りませぬ。私は海竜様にも心地よくなっていただきたいのです。お声をお聞かせくださいまし。私の耳元に、吹きかけてくださったあの喘ぎ声を、今一度! 今一度!」
海竜の亀頭の先に、じわりと先走りが滲んだ。いかに性根を入れ替えた僧侶といえども、男であるからには仕方なきことである。しかし、それだけではすまなかった。
お菊は喜んだ。己の言葉に、惚れた男が劣情を催すのを認めるのは、女の誉れであるからだ。じわじわと褌に広がる染みに歓喜を促され、お菊はそこへ舌を伸ばした。
尿道を舐められて感じぬ男はいない。お菊の舌に先端を嬲られて、海竜は背筋をのけぞらせた。触れぬはずが何故、と海竜は思い悩んだ。和尚は確かに、陰茎の先まで経文を書き入れたはずである。気まずい思いをしながら筆の動きに耐えたのだから間違いない。
恐る恐る股座に視線を下ろせば、そこには勃起して濡れた亀頭が、褌にこすれて墨が落ちた様子が見えた。なればこそ、今このとき海竜の尿道周りに経文の加護はなく、お菊は海竜の魔羅の先にのみ、触れることが出来るのである。
お菊はここぞとばかりに指先で、舌で、海竜の倅の頭を責めあげた。下手に動いて、他の部分の墨が流れては困ると恐れた海竜は、身動きも出来ず、歯を食いしばって、敏感な箇所への愛撫に耐えた。しかし、溢れる我慢汁は己の意志で止めようもない。次々と流れる体液は、勃起した陰茎に書き込まれた守護の言葉を少しずつ洗い流した。
褌越しに、中身の肉筒の色形が透けて見えるほど濡れぼそっては、もうどうにもならない。粘液に浸った部分の布地を引き下ろされると、いかにもあっけなく褌が緩み、冷たい風の中へぶるりと性器が飛び出した。もう、お菊の責めをさえぎるものはない。
舌先で直に尿道をこじられると、与えられる快感も、溢れ出る体液も、今までの比ではなかった。唇こそ堅くかみ締めて、声の出ないように頑張ってはいるが、全身に吹き出る玉のような汗は、海竜に己の弱さをつきつけていた。汗で全身の墨が流れてしまわなかったのは幸か不幸か。全ては和尚の徳と慈愛の念によるが、海竜の色欲に汚れた体液だけが、理性と恩情をあざ笑うように陰部の守護を無力にせしめたのであった。
しかし、お菊にとって最も重要であり、海竜への執着の根源であったのは、まさにその部分だった。真言の鎧を解かれ、丸裸になった男根は、なす術もなくお菊に弄ばれた。もはや海竜の腰は砕けて、走り去ることすら不可能であった。局部を女に握られた以上は、男に逃げることなど適わぬが常なのである。海竜はお菊に、好きなように揉み扱かれた。それは一度海竜がお菊に差し出したもので、お菊にその喜びを教えたもので、その因果がたどり着いたところであった。
お菊が海竜の包皮を引き、海竜の顔を見上げながら亀頭を口に含む。
「ああ、海竜様。愛しい私の海竜様。これは私のものでございます。ええ、誰にも渡してなるものですか、ええ、ええ!」
ねっとりと肉筒に舌を絡めていたお菊は、物足りなくなったのか、尿道の穴を爪で引っかいたり、余った皮の皺に歯を立てたりしはじめた。与えられる小さな痛みは、男として耐えられぬものではないが、さりとて無視できるものでもない。その痛みは、快感と隣りあわせであったが故に、なおのこと海竜の陰茎に芯を持たせた。
与えられる痛みが悦びになり得ることを知らぬ海竜ではない。だからこそ、この先に待ち構える運命に、海竜は恐れおののきながら、局部の先から涙を垂れ流した。
お菊は戯れにそれを舌で掬い取る。海竜の味を確かめるように舌の上で転がし、顔をほころばせる。時には音を立てて、尿道の奥から垂れる前の汁を吸い上げる。海竜の亀頭は、勃起のためだけではなく、赤く腫れ上がっていた。並みの男であれば、このように急所の薄皮が剥けてしまっては、股座を押さえて泣き喚いたであろう。よほどの色事師でなければ、そこまで己の倅を酷使はしないものである。
海竜はその赤剥けの陰茎を見ていた。己の男根を見ていた。その亀頭をお菊が微笑みながらくわえ込み、その張り詰めた局部の皮膚へ、白い歯を突き立てるのを、ただ見ていた。
ぷつりと音を立てて皮が破れ、そこから血があふれ出す。海竜は、痺れるような痛みを感じた。目から入る光景と、身体に伝わる感覚が上手くかみ合わなかったのだが、それでも自分の大事なところに、歯形をつけられていることは理解できた。
「これで海竜様も、私のものでございます」
うっとりと目を細めながら、お菊は溢れる血を啜った。これで海竜も、お菊の夫とおそろいである。海竜は心の中で力なく自嘲するしか出来なかった。死体であった亭主とは違って、生身の海竜の歯形は、浅く加減されたのがわかる。しかし、血液のこぼれる傷口は、死体のものより重篤に見えた。
それでも海竜は萎えなかった。雄々しくそそり立っていた。お菊は嬉しそうにそれを撫でさすると、その上にまたがって、ゆっくりと腰を下ろし始めたのである。
胡坐をかいたところにのりかかる為、お菊の秘所は大きく海竜の前に開かれていた。なにせ、お菊は海竜の陰部にしか触れることが出来ないのだ。腰ばかりを前に突き出すような姿勢は、己の息子が愛液に溢れた膣の中へずぶずぶと飲み込まれていく様子を、存分に見せびらかせた。
お菊は喜びの喘ぎを上げながら、海竜の陰嚢をつかんで、睾丸を揉んだ。海竜が、教えたとおりに、である。もちろん、海竜自身が己の感じるところを伝え仕込んだのだった。
亀頭の傷口が引きつれ、海竜は痛みを感じた。それでも、勃起した棒筒を包み込むこの肉は、幽霊のものとは思えぬほど温かく、そして柔らかいのだった。
しかし、海竜が目をこらすと、お菊の体内に包まれて絞られる己の息子の様子が、外から透けるのである。露を零して震える愚かな男の証が、お菊の胎の中を前後するのが見えていた。
海竜は己の情けなさに泣いた。泣きながら、僅かに腰を震わせ、お菊の中へ、焦らされた末の多量の精を解き放ったのであった。
膨らむ亀頭の先で尿道が広がり、びゅるびゅると白濁が吐き出されて、膣と子宮の形に広がっていくのを、海竜は呆然と眺めた。お菊もまた、自分の体内に、愛する男の種が満たされていくのを、声を震わせて喘ぎながら見つめている。
長い射精が終り、海竜の陰茎が萎えると、ずるりと音を立てて性器が抜けた。お菊は目に涙を滲ませながら、それを見ていた。
結局、海竜は、射精し気をやる最後の瞬間まで、一つも声を上げなかったのである。今までお菊が味わってきた、二人で言葉を重ねてきた深い愛の交わりとは、いかにもかけ離れた虚しさがそこへ残った。
それは、お菊に、ただ義務的にお菊の中へ排泄するだけの、夫との冷たい交わりを思い出させた。
「……悔しい」
お菊は泣いた。ぽろぽろと涙を流し、せめて海竜の胸に取りすがろうとしたが、お菊は海竜の身体に触れることは出来ない。お菊が縋れる温もりは、ただ、股間に力なく垂れる陰茎にしか無かったのである。
お菊は海竜の魔羅を握りしめ、声を上げてむせび泣いた。お菊は、気の狂わんばかりの長い時間の果てに、ようやく手に入れたささやかな愛が潰えたことを、その身体で思い知ったのだった。
「悔しい……ああ、恨めしい……海竜様、あなたが憎い」
幾度もお菊を悦ばせた硬さは、もうその部分には宿っていなかった。
お菊は、かっと目を見開いて、海竜の男根の付け根に爪を立てた。あまりの痛みに、海竜の身体が跳ね、首筋に太く血管が浮かび上がる。
「誰にも……誰にも渡してなるものですか……」
お菊は、ばりばりと局部の肉に爪先を食い込ませた。悲鳴でもいい。罵倒でもいい。命乞いでも、呪いの言葉でもいい。なんとか海竜に一声上げさせてやろうと、お菊は必死になった。
恐ろしいほどの力で、ぶちりと海竜の陰茎が、その股間から抉り取られた。その睾丸が、陰嚢ごと引きちぎられた。幾多の女を股にかけた男の証は、いまこのお菊の手に、縮んだ肉片となって奪い取られたのである。
海竜の受けた痛みは、正気を失うほどであった。絶叫を上げて、髪を掻き毟り、暴れまわらずにはいられないほどの痛みであった。
しかし、海竜が口を開いて漏らしたのは、絶叫でも、罵倒でもなかった。
抉り取った己の陰茎を、宝のように抱え、頬を寄せて涙を流すお菊を見て、海竜が言わずにおれなかったのは、呪詛の言葉ではなかったのだった。
「南無阿弥陀仏……」
驚いて海竜と眼を合わせたお菊は、相手の瞳の中に、最も見たくなかったものを見た。
憐憫である。
一片の温もりを求めて、永遠の刻を孤独にさまよう虚ろな幻に、思い余って惚れた男を傷つけずにはいられなかった哀れな女に、価値を失った汚い肉片にすがるやるせない魂に向けた、静かな憐憫である。
「おおお……」
お菊は首を振った。ただ怯え、弱りきった、無力な女の、消えそびれた魂。それを自分で認めることは、例えようもなく、つらい、つらい事であった。
お菊は頭を抱え、くるりとその場を駆け出し、
「おおおおお!」
痛ましい悲鳴を夜空に響き渡らせながら、霞のごとく霧散して消えた。
一片の静寂の後に、それを破ったのは、今まで息の一つもしていなかった小僧であった。
「……今の恐ろしい声は一体? かっ、海竜殿!」
目の前で、静かに座禅を組んでいただけのはずの海竜が、突然下腹を肌蹴て、どくどくと股から血を流しているのを見て、小僧は慌てて人を呼び寄せ、助けを求めた。
駆けつけた和尚はその惨状に目を丸くしたものの、急いで医者を呼びつけ、海竜の手当てに当たらせた。
その間、抱き寄せた和尚に、海竜は力なく呟いたのである。
「声をかけずにはいられなかったのです。ただあの哀れな魂の平穏を祈らずにはいられなかったのです。己の魂など、どうでも良いとさえ思えました」
頷く和尚に、海竜は言った。
「元よりそれだけの覚悟があったならば、もっと早くに声をかけてやれたのです。ただこの情けない男が臆病であったばかりに、かの方にはすまないことをしました。それだけが悔やまれます」
誰もが死ぬかと思った大傷であったが、海竜は生きながらえた。それもお菊の魂が、人の命を奪うような悪意を持った霊ではなく、ただ人肌に飢えた寂しい女だった故であろうと、海竜は後に語っている。
海竜はその村に腰を落ち着け、和尚の下で修行を積み、やがて山奥の、人里離れた墓場の隣に小さな庵を構え、そこで古き時代に孤独に苦しんだ霊を弔いながら晩年を過ごした。
もとより、海竜は僧侶としての素養高く、人望厚く、何が欠点かといえば、下のだらしなさだけであったのだから、その問題の種を失った後は、誰はばかることなく徳の高い僧と賞賛を浴びた。
抉られた男根と睾丸は、寺のどこを探しても見つからなかった。海竜はそれをお菊に渡したことを別段惜しむ様子も無かったという。
いつしか、この村の中で、早くに夫を亡くした妻の寝所へ、若い男たちが順番に訪れる風習が出来た。海竜が生きた頃には無かった習慣であるようだが、ではいつごろ広まったのかと尋ねても、はっきりとしない。
だが、孤独にさまよう哀れな女の為に、祈りを捧げながら交わらねばならぬと、若者達は言い聞かされているようだ。
お菊が一体どうなったのか、知る者は、ない。
-
投稿:2012.08.31更新:2012.08.31
後家参り
著者 自称清純派 様 / アクセス 10462 / ♥ 3