これは中世死罪考という論文からの拾い物です。
1207年(承元元年)の承元の法難(浄土宗の開祖法然の弟子である法本坊行空と安楽坊遵西が、女犯の咎で処刑された話についての記述です。
はたして日本で宮刑はあったのでしょうか。
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安楽と住蓮は死罪に処せられたというが、しかし.そうではないとみられる史料がある。歴代の天皇紀の抄出というべき「皇帝紀抄」に「源空上人鰻畔配流土佐国、依専修念仏事也、近日件門弟等、充満世間、寄事於念仏、密通貴賎、井人妻、可然人 々女、不拘制法、日新之問、搦取上人等、或被切羅、或被禁其身、女人等又有沙汰、且専修念仏子細、諸宗殊欝 申之故也、」と記されているように、死罪ではなく「切レ羅(摩羅)」つまり宮刑であったという説がここになりたつのである。
安楽と住蓮の処刑問題について、かつて喜田貞吉博士は、事件が女犯よりおこったことであって、僧を還俗もさせずそのままにして死罪に処すということはあるべからざることであるから、羅を切るという宮刑が正しいという羅切説をとっている。
一方、辻善之助博士は「宮刑といふことは、我国にては曾て聞かぬ刑罰であり、且つその記事はた父皇帝紀抄のみに見ゆることであるから、甚だ疑はしい」と述べ、さらに羅の字は頸字の誤写であろうとし、「この二字の草体は酷似して居る、その書き方によっては殆ど区別のつかぬまで似て居る」とみ、刎首の刑に処したものであるという斬首説をとっている。
安楽と住蓮の処刑は、右にみてきたように斬首説と羅切説の二説がある。羅切説のよりどころとなっている皇帝(紀抄)の記事についてふれられた論考に、滝川政次郎博士の「日本の宮刑(羅切)について」がある。博士は 羅を切られたのは、貴賎の人妻及び然るべき人々の娘を姦淫した源空上人の門弟共であった。故にこの場合「羅切」なる刑罰は、姦淫罪の反映刑として科せられているのであって、中国古代における宮刑と同様である。
「羅切」が刑罰として行われたことを示す史料は、管見の及ぶ限りにおいては、この皇帝紀抄の記事が唯一のもので あるが、このような事が、突発的に唯一回行われたものとは到底考えられない。(中略)換言すれば、源平時代の 京都の士庶の問には、強姦、姦通等の犯罪に対し、私刑として羅切を科すことが、一般に行われていたのではあるまいか。
専修念仏の徒を搦め取った検非違使は、この民間における慣行に従って、貴賎の人妻、娘を姦淫した 源空の門弟等の羅を切断したものと推察するのは、私一個の独断ではないと思う。と述べ、羅切説をとっている。
ここで先学の説に導かれながらいささか私見を述べることにしたい。先ず斬首説をとる辻博士の見解について、「皇帝紀抄」は編年体史であるためそれなりの史料批判が必要であるが、「羅切」の記事が「皇帝紀抄」のみにみられることへの博士の疑問は理解できる。
しかし、羅の字が頸字の誤写とする考え方には疑問をもつ。「皇帝紀抄」をよくみると、「被〆切レ頸」という言い表わし方は他の箇所にはみられず、斬首することをすべて「被二斬首一」と記しているところからみて、「被レ切レ頸」とする博士の説はなりたたないものとみる。ただ「被切羅」を「被二切羅」「切られ」と読むのではあるまいかという説もあるが、これはこじつけ的で妥当性を欠く。
わたくしは斬首説には否定的であるが、一方羅切説はどうか。安楽と住蓮は「法然上人絵伝」に「建永二年二月九日、住蓮安楽を庭上にめされて、罪科せらる二」とあるように、おそらくは検非違使庁の庭上で取り調べが行われたもので、安楽はその場で 安楽、見有修行起瞑毒、方便破壊競生怨、如此生盲闘提輩、穀滅頓教永沈倫、超過大地微塵劫、未可得離三途身 (19) の文を講しける、というように、善導の釈文を読みあげたといわれる。この安楽の剛腹な態度に検非違使庁の役人等は心証を損ねたものであろう。この点は日蓮の場合と似ている。取り調べに際し厳しい拷問が行われ、その様子は「非筆端之所及」であった。
その審理の結果は流罪と決まったものと考えられる。安楽等も法然と同様還俗させられたかどうかは詳らかではない。
念仏僧の逮捕や拷問等に対して、法然掩護者である元関白兼実は、念仏僧の救解のため有力者の間に奔走をつづけ尽力している。しかし、元関白とはいえ今は権力の座から退けられており、その上安楽等の事件で専修念仏弾圧によい口実をあたえてしまったので、救済運動も奏功しなかった。
ところで、その後安楽等は配流の途中で、近因が女犯間題であったことから、護送中の役人等によって内密に羅切されたものではあるまいか。
「法然上人絵伝」には、安楽を六条川原で斬首に処したと伝えているが、ことによると六条川原の刑場で夜分宮刑に処せられたのではなかろうか。なお、安楽等の女犯の件が事実であったか、あるいは冤罪であったかはここでは問題としないが、ただ、「法然上人絵伝」に 建永元年十二月九日、後鳥羽院熊野山の臨幸ありき、そのころ上人の門徒住蓮・安楽等のともから、東山鹿谷にして別時念仏をはしめ、六時礼讃をつとむ、さたまれるふし拍子なく、をのく哀歎悲喜の音曲をなすさまめつらしくたうとかりけれは、聴衆おほくあつまりて発心する人もあまたきこえしなかに、御所の御留守の女房出家の事ありける、とあるように、専修念仏僧が唱えた善導の六時礼讃の哀調は、女人にとくに深い感銘をあたえたようである。
その中心的人物が安楽と住蓮であったため、諸宗衰微の張本として二人は南都北嶺から指名されていたのである。
安楽等に対する宮刑は、日蓮の場合と同様私刑的性格のもので、その行為により結局は死にいたったものであろう。それ故世間では死罪に処せられたという取沙汰が行われ、「世の中に、つびを念仏者のある時は、妙法まらぞ頸を引き切る」というような落首まで出てぎているのである。
安楽等の事件は、公家の裁判においては流罪に処すことが決定事項であったものとみる。安楽等の宮刑は、その近因が女犯であったため、制裁的であり私刑的性格のものであったと理解できよう。
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日本での宮刑については、このほか、『日本書紀』にある「官者」という言葉には宦官の意味もあることから、雄略天皇の頃には少なくとも一時的には行われていたのではないかとする説があります。
また、この事件の100年以上のちの『建武式目』には、「宮」についての記述があり、その方法は『後太平記』によると、「男はヘノコを裂き(陰茎や陰嚢を切取る)」、「女は膣口を縫い潰して塞ぐ」と記されています。
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投稿:2022.01.16更新:2022.02.23
日本の宮刑(皇帝紀抄から安楽と住蓮の羅切刑)
著者 Scavenger's daughter 様 / アクセス 15315 / ♥ 159