次世代多機能トイレの闇 (3)
第三章:社会の変容と倫理の問い
2055年、次世代多機能トイレは、もはや単なる排泄補助装置ではありませんでした。それは人々の生活に深く浸透し、社会のあり方、そして人間の身体に対する認識そのものを大きく変容させていました。しかし、その進化の裏側には、常に新しい倫理的な問いが突きつけられていました。
失われた「自然」と機械への依存
朝、タケシが出勤のために家を出ると、隣人の老婦人が慣れた手つきで、自宅の多機能トイレから圧縮されたおむつの塊を取り出し、指定された回収ボックスに入れるのを目にしました。彼女はもう何年も、自力で排泄することが困難な状況にありましたが、その顔に悲壮感はなく、むしろ「これで一日を快適に過ごせる」という安堵の色が浮かんでいました。
「おはようございます、タケシさん。今日も一日頑張ってね」
老婦人の明るい声に、タケシは笑顔で応えます。しかし、彼の心には常に一抹の複雑な思いがありました。次世代多機能トイレは確かに多くの人々の生活を支え、尊厳を保つ助けとなっています。しかし、同時に、その便利さゆえに、人々は自らの身体機能に対する意識を薄れさせていました。
多くの人々にとって、朝一番の腸内洗浄と膀胱洗浄は、歯磨きや洗顔と同じくらい当たり前の日課となっていました。特に第二世代の普及以降、運動不足や食生活の変化も相まって、自力での排便が困難な若年層が増加の一途を辿っていたのです。日中の尿意も、多機能トイレの利用時間が限られる公共の場では、ためらうことなくおむつに排尿する習慣が定着していました。それは、あたかも身体が機械の制御下にあるかのような、奇妙な感覚を社会全体にもたらしていました。
「本当に、これらの装置なしでは生活が難しくなってしまったんだな…」
タケシは、自分の職業が社会に貢献していることを誇りに思う一方で、その機械がもたらす人間性の変化に、静かな危機感を抱いていました。
「必要性」と「欲望」の境界線
第三世代、特に第3.1世代多機能トイレの登場は、社会に新たな論争の火種を投じました。美容外科機能、とりわけ性に関する外科処置が一般のトイレで手軽に行えるようになったことは、その「必要性」と「欲望」の境界線を曖昧にしました。
「ちょっと、見てよこれ!」
職場の休憩室で、タケシの同僚であるアキラがタブレットを差し出してきました。そこには、多機能トイレで「理想の自分」を手に入れた人々の体験談が並んでいました。手軽な小陰唇縮小手術や、性転換の処置を受けたという告白。彼らは皆、多機能トイレが「生きづらさ」から解放してくれたと熱弁していました。
「これが本当に、トイレに備わっているべき機能なのかね?」
アキラは首を傾げます。タケシも同じ疑問を抱いていました。医療機関での専門的なカウンセリングや、慎重な検討を必要とする外科処置が、街角のトイレで、まるでコンビニエンスストアのオプションを選ぶかのように手軽に行われる現状は、社会に大きな波紋を広げていました。性別の自己決定というデリケートな領域にテクノロジーが深く介入することの是非、そして、その結果として生じるであろう社会の変化について、活発な議論が交わされていました。
「これは個人の自由だって言う人もいるけど…」
アキラの言葉に、タケシは黙って頷きました。利便性を追求した結果、人間本来の身体機能が衰え、さらに個人のアイデンティティにまで機械が介入するようになった社会。タケシは、「トイレのソムリエ」として、この技術が本当に人類に幸福をもたらしているのか、その問いと向き合い続けていました。
逼迫する次世代トイレ技師の業務と「保存バック」の出現
人々の多機能トイレへの依存度が高まるにつれて、次世代トイレ技師であるタケシたちの業務は、日々増大する一方でした。彼の主な仕事は、トラックに並ぶおびただしい量の消耗品(洗浄液や美容液、おむつ、さらには外科処置用の医療キットなど)を、まるで自動販売機に缶を補充するかのように、街中の多機能トイレに補填すること。そして、使用済みおむつが圧縮された廃棄物の回収でした。
そして最近、彼の業務に新たな項目が加わりました。それは、多機能トイレから排出される**「保存バック」の回収です。この保存バックは銀色のパックで、通常中身は見えません。しかし、柔らかい素材でできているため、タケシは持ち上げると、特殊な液の中で保存された固形物をわずかに感じることができました。美容外科処置の際に除去された組織や、診断で得られた特殊な生体サンプルなどが収められているそれらは、業務アプリから指示され、通常48時間以内**に回収する必要のある、非常にデリケートな「ゴミ」でした。
タケシは、アプリから次々と指示される「保存バック」の回収にうんざりしていました。街中の多機能トイレは、「簡単なステップで包茎治療!」といった派手な装飾で覆われ、まるで美容クリニックの看板のようでした。そんな場所から、人間の身体の一部が詰まった保存バックを回収する日々は、彼にとって精神的に重いものでした。
同僚たちは、時折、回収した保存バックを手でもんだり触ったりして、「これは包皮」「これは小陰唇」「これは精巣」などと、不気味な暇つぶしをしていました。その日も、別の回収ポイントで作業を進めていると、今まで見たこともない特大サイズの保存バックが出てきました。同僚はそれを見て、「何だこれ…」と呟き、ゆっくりとバックを持ち上げました。銀色のパックの向こうに、液体の中の異様な固形物の存在を感じた同僚は、目を丸くしてタケシに顔を向け、「もしかして…おちんちん丸ごとかも…」と不気味な声で言いました。
タケシは、それ以上見る気も、触る気もしませんでした。彼らの無神経な言葉と、目の前の異常な「ゴミ」が、タケシの心をさらに締め付けました。彼らは、人間が機械の恩恵を受ける中で、何か大切なものを見失っているのではないかと感じていました。
廃棄物処理装置の異常と避けられない作業
重い気持ちを抱えながら、タケシは会社に戻りました。しかし、会社の入り口に近づくと、いつになく騒がしい人だかりができているのが目に入りました。近づいてみると、社の廃棄物処理装置の前に、何人もの社員が立ち尽くしていました。
「どうしたんですか?」
タケシが尋ねると、ベテランの先輩技師が苦い顔で答えました。
「また、廃棄物処理装置が故障したんだ。しかも今回は、完全に停止してしまって。回収してきた保存バックが山積みになってしまっている」
彼らの足元には、回収を待つ大量の保存バックが、銀色の山をなしていました。特大サイズのバックもいくつか混じっており、その異様な存在感が場の空気を一層重くしていました。
通常であれば、これらの保存バックは装置によって自動的に焼却処理されるはずでした。しかし、故障のためそれは不可能になり、タケシたちは別の施設に送る必要がありました。そして、そのために最も骨の折れる作業が待っていました。それは、一つ一つの保存バックを開封し、中身を専用のドラム缶に入れなければならないということでした。
タケシたちは防護服を身につけ、作業に取り掛かりました。重いドラム缶の横に立ち、タケシは意を決して最初の銀色のバックを手に取りました。ハサミで注意深くパックを開封すると、鼻を突く独特の薬品の匂いが立ち込めます。彼は保存液と個体をザルで分別していきました。ザルに流れ落ちてくるのは、おびただしい量の包皮、目を凝らさなければ判別できないような細かいカス。「これは精管かも…」同僚の独り言が耳に障ります。他にも、ビラビラとした小陰唇や、皮膚の破片、そして、時折精巣や、先の特大バックから出てきたような大きな陰茎までもが、次々とザルに流れてきました。
なぜ人々はこれほど簡単に自分の体を切り裂くのか。そして、なぜ自分は、こんなにも非人間的な仕事に加担しているのか。タケシは、その光景を目にするたびに、酷く悔やみました。この技術の未来が、人間にとって真に豊かなものとなるために、何ができるのかを考え続けていました。彼の「トイレのソムリエ」としての使命は、単に機械を維持管理することに留まらず、人間と機械が共存する未来のあり方を問い続けることにあるのかもしれません。