願いノート
大学二年の朝倉悠真は、講義帰りに駅前の歩道で一冊の黒いノートを拾った。
表紙には白い文字。
『願いノート』
「なにこれ」
隣を歩いていた友人の榊涼介が覗き込む。
「都市伝説っぽ」
悠真は適当にページをめくった。
最初のページには細かい注意書きが大量に並んでいたが、読むのも面倒で飛ばした。
“書いた願いは現実になる”
そんなことが書いてある。
「絶対嘘だろ」
「なんか書いてみろよ」
涼介に笑われ、悠真は冗談半分でペンを取った。
『もし世界が変わったら』
書いた瞬間。
ページの文字がじわりと滲んだ。
「うわ、キモ」
二人は笑って、そのまま帰った。
翌朝。
悠真は妙な違和感で目を覚ました。
身体が軽い。
髪が長い。
胸元に重みがある。
「……ん?」
寝ぼけたまま身体を起こした瞬間、胸が揺れた。
悠真は固まる。
恐る恐る視線を落とす。
自分のものじゃない膨らみ。
急いで洗面所へ向かった。
鏡を見た瞬間、息が止まる。
そこにいたのは、同じ大学の友人――白石美琴だった。
「……は?」
悠真は震える手で顔を触る。
鏡の中の美琴も同じ動きをする。
夢じゃない。
さらに恐る恐る股間へ手をやる。
いつもあるはずのおちんちんもタマタマもない。
代わりにあるのは、一筋のワレメだけ。
「っ……!?」
頭が真っ白になる。
大学へ向かうと、さらに異常だった。
講義室の空気がおかしい。
男友達が女子の姿で座っている。
逆に、男子の身体になっている女子たちもいる。
話を聞いていくうちに分かった。
サークルや同じ講義のメンバーが、ランダムに身体だけ入れ替わっていた。
混乱は数日続いた。
その中でも特に落ち着かなかったのは、“男子の身体に入った女子たち”だった。
「ねぇこれほんと落ち着かない……」
そう呟いたのは、悠真の身体へ入った相沢七海だった。
椅子へ座り直しながら、ずっと股間を気にしている。
「おちんちんってなんでこんな存在感あるの……」
周囲の女子たちも頷く。
三浦愛菜が真顔で言った。
「タマタマ怖すぎる」
男子たちが顔を上げる。
愛菜は本気で困っている顔だった。
「階段降りる時ずっと揺れるし」
「座る時もなんか怖いし」
「下着の中で位置気になるし」
それは悪口じゃない。
ただ、慣れない身体への感想だった。
数日後。
女子たちは少しずつ男子の身体へ順応し始めていた。
「筋肉あると便利〜」
「でもおちんちんだけ最後まで慣れない」
そんな会話が普通に飛び交う。
ある日。
愛菜が顔をしかめながら言った。
「この前さ、コンビニのポールに股間ぶつけたんだけど」
周囲が振り向く。
「タマタマってほんとヤバいね」
愛菜は本気で怯えていた。
「呼吸できないくらい痛かった」
「しばらく動けなかったし」
七海も頷く。
「わかる」
「タマタマって危険すぎるよね」
女子たちは、ただ体験談として話している。
だが男子たちは誰も笑えなかった。
二週間後。
講義室のドアが勢いよく開いた。
「牧村由衣!!」
叫びながら入ってきたのは中野隼人だった。
顔面蒼白。
「俺の身体に何した!?」
講義室が静まり返る。
隼人は震える手でズボンを下ろした。
そこには何もなかった。
おちんちんも。
タマタマも。
完全に消えていた。
空気が凍る。
「朝起きたらなくなってたんだよ!!」
隼人は叫ぶ。
「お前ら何したんだよ!!」
女子たちは顔を見合わせる。
だが、誰も悲鳴を上げたりはしなかった。
むしろ困ったような顔だった。
最初に口を開いたのは愛菜だった。
「……でも、タマタマ危なくない?」
静まり返る教室。
愛菜は本気で心配そうだった。
「私、ぶつけた時ほんと怖かったもん」
「なくなったなら、もう安心じゃない?」
男子たちは言葉を失う。
さらに七海も頷く。
「おちんちんも、座る時ずっと気になったし」
「なくても普通に生活できるよ?」
慰めるような口調だった。
だからこそ、怖かった。
翌朝。
悠真は元の身体へ戻っていた。
「戻った……!」
涙が出そうになる。
だが次の瞬間。
股間へ触れた手が止まる。
ない。
おちんちんも。
タマタマも。
何も。
ツルツルの平らな皮膚だけ。
悠真は声も出なかった。
大学へ行くと、同じような男子が何人も青ざめていた。
「俺もない……」
「全部消えてる……」
男子たちは震えている。
だが女子たちは、本当に励ますつもりで話しかけてくる。
「最初は違和感あると思うけど、慣れるよ?」
そう言ったのは美琴だった。
「私たち元からおちんちんもタマタマもないし」
「なくても普通に生活できるから」
愛菜も真顔で続ける。
「タマタマない方が安全だよ」
「もう股間ぶつけて苦しまなくていいじゃん」
悪意はない。
本気で、男子たちを安心させようとしている。
その時。
七海が悠真の隣へ来る。
そして優しく微笑んだ。
「朝倉くんの身体、ちゃんと病院で綺麗にしてもらったから安心して」
悠真の呼吸が止まる。
七海は安心させるように続けた。
「おちんちんもタマタマも、ずっと辛そうだったし」
「これでもう、痛い思いしなくて済むよ?」
その日から、大学の空気は変わった。
男子たちは皆、どこか上の空だった。
講義中も、食堂でも、誰も以前みたいに騒がない。
悠真も同じだった。
歩くたび、股間の軽さを意識してしまう。
トイレへ行くたびに現実を突きつけられる。
シャワーを浴びる時、視線を下へ向けることすら怖かった。
だが女子たちは違った。
もちろん最初は気まずそうにしていた。
けれど、それは“男子が可哀想だから”ではなく、“どう声をかければいいか分からない”という感じだった。
昼休み。
学食で悠真がぼんやり座っていると、三浦愛菜が向かいへ腰掛けた。
「ちゃんと食べてる?」
悠真は返事をしない。
愛菜は少し困ったように笑う。
「まだ慣れない?」
その言葉だけで、悠真の胸が重くなる。
愛菜は悪気なく続けた。
「でも本当に、タマタマなくなったのは安心じゃない?」
悠真の箸が止まる。
愛菜は真剣だった。
「私さ、男の身体の時ずっと怖かったんだよね」
「階段とか、自転車とか、ちょっとしたことで痛くなりそうで」
「あと寝返り打つだけでも気になるし」
それは男子を傷つけたい言葉じゃない。
本当に、“危ないものがなくなって安心した”という感覚だった。
だから悠真は怒鳴ることもできない。
数日後。
大学では、同じように身体が変わって戻った男子たちが集まり始めていた。
皆、どこか疲れ切った顔をしている。
「……俺、彼女に“なくても困らないよ”って言われた」
誰かが呟く。
別の男子が乾いた笑いを漏らす。
「俺なんか、“軽くなってよかったじゃん”って」
誰も笑えなかった。
その時。
教室のドアが開く。
入ってきたのは白石美琴だった。
空気が張り詰める。
だが美琴は気づかない。
普通に近づいてくる。
「朝倉くん」
悠真は顔を上げない。
美琴は少し迷ったあと、小さく言った。
「……ごめんね」
教室が静まる。
男子たちが一斉に美琴を見る。
だが次の言葉で、空気が止まった。
「でも、最初はみんな怖かったと思う」
美琴は静かに続ける。
「男の身体って、思ってたよりずっと不便だったし」
「おちんちんもずっと気になるし」
「タマタマも怖かった」
男子たちの顔が強張る。
美琴は、本当に“分かり合おう”としていた。
「だから、“普通の身体”に戻してあげたかったんだと思う」
その瞬間。
悠真は初めて理解した。
女子たちは、自分たちが“奪った”とは思っていない。
“治した”。
“元に戻した”。
本気でそう思っている。
だからこそ、誰も罪悪感を持っていない。
美琴は安心させるように微笑む。
「大丈夫だよ」
「最初は変な感じするけど、そのうち慣れるから」
「私たちも最初、ワレメ違和感あったし」
男子たちは誰一人、言葉を返せなかった。
窓の外では、夏の風が静かにカーテンを揺らしていた。