願いノート(逆視点)
相沢 七海は、朝起きた瞬間に違和感を覚えた。
身体が重い。
喉が低い。
視界の位置が高い。
「……ん?」
寝ぼけたまま身体を起こす。
その瞬間、下半身に妙な感覚があった。
太ももに何かが触れている。
七海は眉をひそめながら股間へ手をやった。
布越しに、見慣れない感触がある。
「……え?」
急いで洗面所へ向かう。
鏡を見た瞬間、息が止まった。
そこにいたのは、同じ大学の朝倉悠真だった。
「……は?」
七海は震える手で顔を触る。
鏡の中の悠真も同じ動きをする。
夢じゃない。
混乱したまま、恐る恐るズボンを下ろした。
そこにあったのは、自分には存在しないはずのものだった。
おちんちん。
そして、その下にぶら下がるタマタマ。
七海は反射的にズボンを上げた。
心臓が嫌な音を立てている。
大学へ行くと、同じような人間が何人もいた。
女子の身体になった男子。
男子の身体になった女子。
講義室は混乱していた。
その中でも、“男子の身体へ入った女子たち”は特に落ち着かなかった。
「ねぇ、これほんと無理……」
そう呟いたのは、三浦 愛菜だった。
椅子へ座りながら、ずっと股間を気にしている。
「おちんちんって、なんでこんな存在感あるの……」
「わかる……」
七海も小さく頷く。
歩くたびに揺れる。
座るたび位置が気になる。
下着の中で常に意識してしまう。
特に怖かったのはタマタマだった。
「これ絶対危ないよね」
愛菜が真顔で言う。
「なんで外についてるの?」
男子たちは苦笑いしていた。
だが七海たちには、本当に怖かった。
数日後。
七海はコンビニ前で自転車を降りようとしていた。
その時だった。
股間がサドルへ強くぶつかる。
次の瞬間。
「っ――!?」
呼吸が止まった。
脚から力が抜ける。
下腹部の奥を直接殴られたみたいな激痛。
七海はその場にしゃがみ込む。
涙が出る。
数分間、本当に動けなかった。
その日の夜。
七海は大学近くのファミレスで、同じ境遇の女子たちと集まっていた。
愛菜。
牧村 由衣。
白石 美琴。
皆どこか疲れ切った顔をしている。
「……もう嫌」
最初に口を開いたのは由衣だった。
「おちんちんって、ずっと気になる……」
愛菜も頷く。
「タマタマ怖すぎる」
七海は静かに股間へ触れた。
ジーンズ越しでも存在感が分かる。
ぶら下がっている感覚。
歩くたび揺れる感覚。
そして、少しぶつけただけで死ぬほど痛む弱点。
七海は小さく呟いた。
「……怖いんだよね」
皆が静かに頷く。
愛菜がストローを弄りながら言った。
「これさ、ずっと弱点ぶら下げて生活してる感じしない?」
「分かる……」
「寝返り打つ時も怖いし」
「お風呂でも気になるし」
「あと朝起きた時のおちんちんほんと無理」
その瞬間だけ、女子たちが一斉に頷いた。
「わかる!!」
「びっくりする!」
「なんで勝手に大きくなるの!?」
すると由衣が真顔で言った。
「私、この前トイレで便座におちんちん挟んだ」
一瞬静まり返る。
「えっ」
「座る時に気づかなくて、そのまま……」
由衣は顔を青くした。
「めちゃくちゃ痛くてパニックになった」
愛菜が股間を押さえる。
「やば……」
「私もお風呂で洗う時、皮剥いて洗えって聞いたから剥いたんだけど」
美琴が顔をしかめる。
「力入れすぎて血出た」
「えぇ!?」
「ほんとに怖かった……」
女子たちは次々と共感し始めた。
「わかる、扱い方難しすぎる」
「なんでこんな繊細なの」
「怖いよね」
七海は静かに聞いていた。
皆、同じだった。
おちんちんもタマタマも、“便利なもの”ではなく、“常に壊れそうで怖いもの”として感じていた。
その時。
愛菜がぽつりと言った。
「……なくせたら安心なのにね」
テーブルが静まる。
冗談みたいな言葉だった。
でも、誰も笑わなかった。
数日後。
七海は病院の待合室にいた。
隣には愛菜もいる。
二人とも落ち着かない様子だった。
「……ほんとにやる?」
愛菜が小さく聞く。
七海は少し黙ってから頷いた。
「怖いんだもん」
愛菜も頷く。
「私も」
診察室へ呼ばれる。
説明を受ける間も、七海の頭の中には“あの痛み”が残っていた。
タマタマをぶつけた瞬間の、呼吸もできなくなる感覚。
便座へ挟んだ話。
血が出た話。
常に壊れそうな感覚。
そう考えるだけで嫌だった。
処置は行われた。
麻酔で意識がぼんやりする中、七海は手術灯を見つめていた。
そして目を覚ました時。
股間は軽くなっていた。
七海は恐る恐る布団の上から触れる。
そこにはもう、おちんちんもタマタマもなかった。
平らだった。
何もぶら下がっていない。
何も揺れない。
七海はゆっくり息を吐く。
「……安心する」
隣のベッドでは愛菜もぼんやり笑っていた。
「なんか、やっと落ち着く……」
由衣も小さく呟く。
「怖くない……」
それは、女子たちにとって“喪失”ではなかった。
ずっと怖かったものがなくなった感覚だった。
翌朝。
七海は自分の身体へ戻っていた。
長い髪。
柔らかい胸。
高い声。
七海は安心して息を吐く。
その時、スマホが鳴った。
朝倉悠真からだった。
電話へ出る。
だが聞こえてきた声は震えていた。
「……ないんだけど」
「え?」
「おちんちんも、タマタマも……ない」
七海は黙る。
しばらくして、小さく言った。
「……でも、その方が安心じゃない?」
電話の向こうが静まる。
七海は続ける。
「私、タマタマ本当に怖かったんだ」
「ぶつけた時、呼吸できないくらい痛かったし」
「おちんちんもずっと邪魔だったし」
それは慰めのつもりだった。
本当に。
「だから、なくなったならもう安心かなって……」
だが悠真は、何も答えなかった。
電話を切ったあと。
七海は、しばらくスマホを見つめたまま動けなかった。
自分は間違ったことをしたのだろうか。
そう考えようとしても、不思議と実感が湧かなかった。
だって、本当に怖かったからだ。
おちんちんも。
タマタマも。
常に壊れそうで、少しぶつけるだけで激痛が走る。
七海にとっては、“なくなって安心したもの”だった。
大学へ向かう途中、女子たちのグループチャットが騒がしくなっていた。
『戻ってた!!』
『やっと元の身体!!』
『安心したぁ……』
だが、その中へ愛菜がメッセージを送る。
『……悠真くんたち、大丈夫かな』
チャットが静かになる。
少しして、美琴が返信した。
『でも、なくても生きていけるよね?』
『私たち元からないし』
『うん……』
七海は画面を見ながら、小さく息を吐いた。
やっぱり、自分たちの感覚と男子たちの感覚は違う。
でも、どう違うのかまでは分からなかった。
大学へ着く。
講義室の空気は重かった。
男子たちは皆、顔色が悪い。
悠真も机へ突っ伏したまま動かない。
七海は少し迷ったあと、隣へ座った。
「……朝倉くん」
悠真はゆっくり顔を上げる。
目の下には酷い隈ができていた。
七海は言葉を探す。
でも出てくるのは、自分の本音ばかりだった。
「……その、最初は違和感あると思うけど」
悠真は何も言わない。
七海は続ける。
「でも、タマタマなくなったの、私は安心したんだ」
「もうぶつけても痛くないし」
「おちんちんもずっと邪魔だったし……」
その瞬間。
悠真の表情が僅かに歪んだ。
七海はそこで初めて、自分の言葉が慰めになっていないことに気づく。
でも、どう言えばいいのか分からなかった。
昼休み。
男子たちが固まって話していた。
「俺、鏡見るたび吐きそうになる」
「風呂入るのもしんどい」
「勝手に取られたんだぞ……」
その声を聞いて、七海は胸がざわつく。
“取られた”。
その感覚が、七海たちには薄かった。
自分たちにとっては、“怖いものをなくした”感覚の方が強かったからだ。
その時。
愛菜が男子たちへ向かって言った。
「でもさ……」
全員が振り向く。
愛菜は本当に励ますつもりだった。
「私たちも最初ワレメ怖かったし」
「慣れたら普通になると思うよ?」
男子たちの空気がさらに重くなる。
愛菜は困った顔をする。
悪意はない。
本当に、ないのだ。
その日の帰り道。
七海は一人で歩きながら、自分の下腹部へそっと触れた。
当然そこには何もない。
自分の身体だ。
慣れ親しんだ身体。
でもふと、あの“何もついていない感覚”を思い出す。
男子の身体で、処置後に目覚めた時の感覚。
軽かった。
安心した。
怖くなかった。
あの感覚を思い出しながら、七海は小さく呟いた。
「……やっぱり、あっち怖かったな」
数日後。
大学では、男子と女子の間に妙な壁ができていた。
以前みたいに気軽に騒げない。
男子たちはどこか怯えたように女子を見るし、女子たちもどう接すればいいのか分からなくなっていた。
七海も、その空気を感じていた。
講義中。
前の席では、悠真たち男子グループが小声で話している。
「もう銭湯とか無理だわ……」
「わかる」
「視線気になる」
七海はその言葉に少し驚く。
“なくなったこと”より、“周囲の目”を気にしているように見えたからだ。
その時、隣の愛菜が小さく呟いた。
「そんなに嫌なのかな……」
七海も小さく頷く。
正直、まだ実感できない。
おちんちんやタマタマがあった時の不安や怖さの方が、自分たちには強く残っていたからだ。
講義後。
七海は廊下で偶然、悠真と二人きりになった。
少し気まずい沈黙。
先に口を開いたのは悠真だった。
「……七海ってさ」
「うん」
「本当に、なくなって安心したの?」
七海は少し考える。
そして素直に頷いた。
「うん」
悠真が視線を落とす。
七海は慌てて続けた。
「ごめん、傷つけたいわけじゃなくて……」
「ただ、私には怖かったんだ」
「おちんちんもタマタマも、自分の身体じゃない感じがずっとして」
「タマタマなんて、ぶつけた時ほんと泣きそうだったし」
悠真は静かに聞いていた。
七海はさらに続ける。
「処置のあと、何もなくなった時……正直、ほっとしたの」
「軽かったし」
「やっと安心して歩けるって思った」
そこまで言ってから、七海はようやく気づく。
今自分が話していることは、“悠真が失ったものを褒めている”のと同じなのだと。
悠真は少しだけ苦笑した。
「そっか」
その笑い方が、逆に苦しかった。
その夜。
女子たちのグループ通話では、また同じ話題になっていた。
『男子たち、かなり落ち込んでるね……』
『でも、そんな大事なものだったんだね』
『私ほんと怖かったから、感覚わかんないや』
愛菜がぽつりと言う。
『私、昨日夢見たんだ』
『また男の身体になってる夢』
『起きた瞬間、おちんちんとタマタマついてないか確認しちゃった』
通話の向こうで、何人かが「あー……」と共感する。
七海も同じだった。
もう一度あの身体になるのは、正直怖い。
その時、美琴が静かに言った。
『でもさ』
『男子たちからしたら、“身体の一部を勝手になくされた”って感覚なんだよね』
通話が静まる。
今まで女子たちは、“怖いものをなくした”感覚で話していた。
でも男子側は違う。
“自分の一部を奪われた”。
そう感じている。
その違いを、七海は初めて少しだけ理解した。
ベッドへ横になりながら、自分の下腹部へそっと触れる。
当然、そこには何もない。
自分の身体だ。
安心する。
でも同時に、悠真の青ざめた顔が頭から離れなかった。
翌週。
大学の空気は、さらにぎこちなくなっていた。
男子たちは以前より静かになり、女子たちも不用意に身体の話をしなくなった。
けれど完全に避けられる話題でもなかった。
昼休み。
相沢 七海は学食で一人座っていた。
そこへ、悠真がトレーを持ってやって来る。
「……隣、いい?」
七海は少し驚きながら頷いた。
気まずい沈黙。
味噌汁の湯気だけがゆっくり上がる。
先に口を開いたのは悠真だった。
「最近さ」
「うん」
「変な感じなんだよね」
七海は静かに聞く。
悠真は視線を落としたまま続けた。
「前まで普通だったことが、全部変わって」
「風呂入る時も、着替える時も」
「毎回、“ない”って確認しちゃう」
その声は、怒っているというより、疲れ切っているようだった。
七海は胸が重くなる。
悠真は少し苦笑する。
「変だよな」
「自分でも、そんなに大事だったんだって思う」
七海は小さく首を振った。
「……変じゃないと思う」
悠真が少し驚いた顔をする。
七海はゆっくり言葉を探した。
「私たち、怖かったんだよね」
「男の身体」
「でも朝倉くんたちは、ずっとその身体で生きてきたんだもんね」
悠真は黙ったまま聞いている。
七海は続けた。
「私たちにとっては、“安心した”感覚だった」
「でも朝倉くんたちには、“失った”感覚なんだよね」
初めて、はっきり言葉にした。
悠真はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……やっと分かってくれた」
その笑顔は弱々しかった。
七海の胸が痛む。
その日の帰り道。
七海は一人で駅まで歩いていた。
夕方の風が少し涼しい。
ふと、あの日のことを思い出す。
病院の白い天井。
処置後、目覚めた瞬間の“軽さ”。
あの時、自分は確かに安心していた。
怖いものがなくなったと思った。
でも。
それは“誰かの大事なもの”だった。
七海は足を止める。
そして小さく呟いた。
「……ちゃんと考えてなかったな」
スマホが震える。
愛菜からのメッセージだった。
『男子たちと、少し話せた』
『やっぱり私たち、感覚違いすぎたね』
七海は画面を見つめながら、小さく「うん」と返した。
完全に分かり合えるわけじゃない。
でも、自分たちは“怖かった側”で。
男子たちは“失った側”だった。
その違いだけは、ようやく理解でき始めていた。