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<207*年>
三条浩一郎は有料老人ホームの日当たりのいいベランダでまどろんでいた。
有料老人ホームといいつつ、介護士も看護士もいない。既に築後60年という老朽化した建物の空調設備は機能を停止していたし、もっと日当たりのいい屋上は立ち入り禁止のまま数十年が経過していた。
三条は幸運なことに40数年勤務し役員にまでなった会社を引退した時若干の退職金や慰労金を手にしたことから、当時は高級老人ホームであったこの施設の入居の権利を取得し余生を送ることにしたのだ。
当時、既にほとんどの分野の業種が崩壊状態であって、生活物資からインフラや産業用機器まで海外からの「援助」という名目の粗悪製品で満ちていたが、「介護」という労働集約型事業、言い方を変えれば女性が労働の中心として活躍できる業界は、それでもかなりまともな仕事をしていた。特に三条の世代がリタイヤするころから、去勢ブームで「家族の形成」を放棄した独居老人が激増し、老人ホームの需要が急増していたのだ。この施設も200室近い大型設備だったが、三条は入居するために暫く空室を待っていたほどだった。
しかし、入居して十年ほどしたころには、居住者は激減した。当時は90代も珍しくなかったのに、今では80歳を超える入居者は三条しかいない。60歳を過ぎればちょっとした病気が命取りになった。優秀な医師がいなくなった。薬品も医療機器も足りなくなっていた。新規入居希望者も徐々に減少した。入居するほどの長生きをする人が少なくなったこと、そしてこういった施設に入るための一時金が用意できる人がほとんどいなくなってきたことなどが理由のようだ。
居住者が減少すると、スタッフも自然といなくなった。2年前についに介護士もいなくなり、全体の雑用や清掃をかねる調理の人だけになった。まだ40歳代だと思われる性別不明の人が3人、住み込みで働いていた。居住しているのも20人ほどになった。支援物資の食材を使って調理はしてくれるが、その他のサービスは全くなくなった。今度病気にかかったらそれが命取りになるだろうと三条は考えていた。
三条は長く生き過ぎたと感じていた。人生を振り返ってみた。学生時代は健全な家族にかこまれた人間らしい生活をしていた。就職して数年たった頃去勢ブームがおこり、三条も成り行きで去勢してしまった。それが人生にとってよかったのか悪かったのかわからない。確かに、当面の厳しいストレスからは解放されたが、その後は人間らしい生き方は送れずに終わってしまったような気がする。入社そうそう先輩に無理やり連れて行かれたソープランド(こんなものとうの昔に存在しなくなっているが)で女性と性交渉を始めてした。それが最初で最後だった。去勢手術をしてくれた女医さんは、結婚もできればセックスもできるといっていたが、一年もしたら性欲が消滅しそれっきりだった。男として生まれてきた人はほとんどそうなってしまった。
女性はどうしていたんだろう。福山恵理も一生独身だったはずだ。若い頃は三条に気があったんじゃないかと思っている。三条が去勢してから、福山も男性との関係を封印してしまったのだろうか。男性がほとんど去勢したことからソープランドが女性客向けに業態を変えだしたのは三条が40歳ぐらいのころだ。福山も同じ年齢だから、その頃そういう店に行って欲求不満を紛らせていたのだろうか。その福山ももう8年も前に鬼籍に入ってしまっていた。
福山よりひと世代若い小山真奈美の消息はわからなかった。自分が引退した時は涙を流して見送ってくれたものの、その数年後会社の後輩から様子を聞いたときには既に退職していた。どこでどのように暮らしているのか誰も知らなかった。健在なのかどうかすらわからなかった。家族制度が消滅し独居生活が基本になってから、組織や第一線の仕事を離れると、意識的に社会との接点を作らない限り消息はわからなくなった。独居老齢者は男女を問わず体調を崩すとそのまま孤独死を迎え、引き受けてのいない身元不明死体として共同埋葬所で処分されることが多かった。
三条は、小山を女にしてやったのは自分だと感じていた。それで小山は幸せになったはずだ。自分の人生の最後に、幸せに暮らす小山を確認してから旅立ちたかった。それも、もう不可能なことだった。
日本の人口はピークの1割程度にまで減少していた。医療水準の低下から平均寿命は毎年低下の一途をたどっている。もう50歳代になっているのではないだろうか。人口すら正確に把握できなくなってきているため詳細は不明だ。出生数は更に低下している。30年ほど前までは、それでも精子保存センターが機能し、特殊出生率は1人を割り込んだものの、一生の間に5人、10人くらい出産する女性もかなり存在した。今も人口受精を希望する女性はいるものの、受胎不能だったり、流産や死産になるケースがほとんどになったようだ。
精子保存センターでの保存精子の管理体制が悪化、精子の品質を維持できなくなってきたのだ。主たる原因はセンター職員の管理能力の低下だった。また最近の男の子は、養育院管理の簡素化のために、精通のはるかに前、物心つくころには睾丸とともに陰茎も切除した。したがって、新しい精子の供給が減り、古い精子、場合によっては40年も前の精子が使われることもあった。それも品質低下の要因だった。
保存状態のよい高品質の精子は繰り返し利用される傾向にある。実は、精子保存の制度ができた50年ほど前から体力頑健、頭脳明晰、容姿端麗という条件のよい男性の精子を人工受精で望む女性が多かった。本来、精子を保存した本人以外に、精子の持ち主を指定して人工受精に使うことは禁止されていたのだが、条件のよい男性の精子を希望する女性に、センター職員が融通をきかせてやって受胎した女性がかなり存在していた。当初は問題が生じなかったが、人工受精により誕生した子供が精子保存したり人工受精して妊娠したりするようになると、近親婚すなわち父親が同一という受胎が数多く発生した。更に世代が下り、精子保存状態の悪化から精子を保存した男性を指定しなくても利用できる精子が限定され、実は兄弟であったり、親子であったりする間柄での受胎が多く行なわれた。また、子供たちは家族から切り離され養育院で成長してきたことから、同じ母親から出生した兄弟姉妹であることもお互い知らなかった。そのため兄妹や姉弟間で人工受精していることもかなりあった。こうして、更に近親婚が進み血が更に濃密になってきたのだ。
母親のDNAと教育の欠如が子供の能力低下の要因と考えられてきたが、最近では繰り返されるこの近親婚によって、能力や心身に障害を持つ子供が増加してきたのだ。こうして若者たちの能力はさらに低下していった。
この養育院で生まれた子供たちは、男の子は出生後数年のうちに去勢されていた。「何で去勢が行なわれるようになったか」という60年前の記録も不明確になり、過去の事実から実行の可否を判断する能力や実行の結果がどのような結果になるか洞察する能力を著しく欠いた若い養育院の職員は、規定の流れ作業のごとく、受け入れた男の子の去勢を実行するようになった。わずかな判断力が残されている行政職員も、規定の作業として滞りなく処理している職員に対し、処理を否定し考え直させるほどの強い指導ができるような実行力はなかった。
医師も激減し、医療行為に関する知識を有する者もほとんどいない養育院では、流れ作業による去勢は二百年以上前の方法に戻っていた。麻酔薬は使われなくなり、複数の職員で押さえつけた幼児の股間を別の職員が沸騰消毒した大型のナイフで切断した。子供の激しく泣き叫ぶ声で、近隣の人たちは去勢が行なわれたことを知った。切断面は熱した油で止血消毒、尿道には閉塞予防のため細い棒を挿入した。数日間の絶食と安静ののち尿道の棒を抜き手術完了だった。3人に1人は出血多量や傷口からの感染症、尿毒症などで死亡した。手術に成功しても尿道位置の付け替えをしていないため、女性のようにしゃがんで排尿すると前方に尿が飛散するだけだった。
急激な人口減少で、国家、自治体としての体裁がとれなくなってきていた。沖縄が30年も前に米軍施設専用地区となり事実上アメリカの支配下に入ったことに加え、全国の離島はほぼ無住地となった。また、航空機や鉄道はとうに利用不可能になっていた。陸上の移動も道路の荒廃や自動車の性能悪化や不足気味の燃料も粗悪製品であったことから移動は極めて困難になった。
人口が二十万人程度まで激減していた北海道では、本土からの孤立化と寒冷地ゆえの自給生活の困難さから、事実上道民の生活は不可能となり、3年前、全北海道民の移住が行なわれた。石狩港と釧路港から出航した二隻の貨物船は一ヶ月をかけて小樽、函館、広尾、苫小牧、室蘭の各港で集まった道民を載せ本土へ向かった。東京に直行する予定だったが、燃料が不足し、一隻は銚子、もう一隻は小名浜で航行不能となり、道民は見知らぬ地方都市に生活の場を求めて散っていった。
情報伝達手段と港への移動手段の不足により、まだ多くの残留者がいると思われたが、把握するのは不可能だった。その移住の事実を察知したロシアは直ちに、資金・食糧・生活物資の支援と引き換えに、北海道にロシア極東軍の基地を新設することについて日本政府に同意を求めた。政府は、予想もしていなかった要望に意見の統一を図ることもできず、アメリカを始め関係各国との協議に入ることもできなくて、曖昧な回答をしていたが、ロシアは同意を得たと判断し北海道に進出した。荒廃した広大な千歳空港の跡地は整備の後ロシア空軍最大の基地となり、かつて重工業都市として開発した苫小牧港湾地区がロシア海軍の極東最大の基地となった。石狩平野は開拓使入植以来二百年の日本統治の歴史を終えロシア軍駐屯地となり、北海道全土が事実上ロシアの支配下に入った。
アメリカや中国など関係国は、関係国間協議もないままロシア軍の駐留を認めたことに不快感を示したが、アメリカは、沖縄の全域支配の実態と日本政府の当事者能力を鑑み黙認した。一方中国は、米ロと同様の便宜を日本政府へ強く求め、既に無人化していた奄美大島に軍隊を一方的に駐留させたが、政府はこれを黙認せざるを得なかった。
東北地方の寒冷地域からも温暖な地域への移住者が増加した。青森、秋田、岩手などから、荷台に人を満載したトラックが南に向け移動している光景が何度も見かけられた。無人となった集合住宅が多く存在し、海外からの支援物資が集まる東京は、こういった難民には暮らしやすい街であったが、既に人口動態の把握が困難になり、国民がどこにどのように居住状況しているかも把握がほとんどできなくなっていた。
このような危機的状況に陥る国家は、かつての北朝鮮やアフリカ諸国など世界中に散見された。こういった国は、海外からの支援物資などが支配者層に横流しされ、生活に苦しむ庶民に行き渡らず、不満の蓄積した国民の反政府運動により政権が崩壊していくのが普通であった。しかし、日本の状況は異なっていた。20年前から海外との交易や人事交流を拒否していたが、人道支援を名目とした物資の受入は極めて公明正大に行なわれていた。受入場所を横浜港と神戸港に限定し、正確性は著しく低下していたものの全国の人口統計を基準として、人口比で各都府県庁所在地に陸送あるいは航送した。各都府県は10から20のブロックに地域に分け、その中心都市に養育院や医療施設のような公共施設向け物資と一般住民向け物資に分類し陸送し、すでに山間部や辺境の地を捨て地方の中心都市に集住していた国民はその都市で配給を受けた。このように、公平性と秩序の維持を最優先にした国や自治体の施策に、住民は絶大な支持と信頼を抱き、去勢のブームに端を発したこの国の悲惨な状況を厳しく批判する者はいなかった。
異常な運命をたどりつつある日本は、対外的に門戸を閉ざし国際連合等の舞台から自然に離れていて国際社会では孤立していたが、海外の諸国は、日本の「国民の満足感」という事情を理解すると、最低限の人道支援の他の内政干渉を控える方向で各国とも一致し、事態を静観する姿勢をとることとなった。
ある日、三条は自分の体調の悪化を意識した。下腹部の鈍痛はこの2ヶ月ほど続いていたのだが、先週から食欲がなくなり下腹部は時折激しく痛んだ。今日は下腹部に痛みに加えてめまいもして、時折意識が混濁するようになった。ベッドから起き上がることはできるとは思ったが、60年前の巨大建築で施設の食堂までの迷路のような長い廊下を歩いていく気力や体力はなかった。
そもそも、医者の診察を最後に受けたのは4年も前だった。それも、X線撮影の設備もなかったことから、三条の「特に自覚症状はありません」の言葉で、「異常なし」の診断が下っていた。それ以来、体がどうなっているのかわからなかったが、三条のような高齢者が診療も投薬も受けずにこれまで生き続けられたのは奇跡としかいいようがなかった。
奇跡も永久には続かない。三条は、いよいよ人生の最後が訪れようとしていることを悟った。一度や二度食事に来なかったからといって、調理の職員が様子を見にくることもない。自分ひとりで旅立って行くのだ。
「もう日本も長いことないだろう。国が滅びるのをこの目で見ずにすんでよかった。」
三条は、おそらく二度と開くことがない目を静かに閉じた。
日本には、既に受精可能な精子はなくなっていた。
日本崩壊 終わり
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投稿:2011.01.28
日本崩壊(4)
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