どうしてこんなことに・・・・
僕は人影がなくなったカイロの街を1人さまよいながらそう思った。
宿から気軽に出てきたので、身に付けているのは白の袖なしシャツ1枚に白い半ズボンのジーンズ。肌着はパンツだけ、素足にサンダル、それに小さな肩掛けバッグ。典型的なバックパッカースタイルで、一目で外国人旅行者と分かる服装だ。
学生の一人旅で、イスラエルで聖書ゆかりの地を観光してからトルコを回ってエジプトへ、つい3日前まで、ピラミッドを見たり、ラクダに乗ったり、普通のエジプト観光を楽しんでいたはずなのに、街のどこかでデモや集会が始まって、その騒ぎが大きくなりはじめたかなと思ったら、突然この有様だ。
雲ひとつない好天に誘われて街中をぶらついていたら、急にあちこちで銃声が響き、何を間違えられたのか集会を蹴散らした男たちに追いかけられた。サンダルが邪魔でうまく走れない。途中で裸足になり知らない道を逃げていくうち、5日前に見物したばかりのカイロ国立博物館の建物が見えた。
この混乱のせいか、入口には係員も警備員もいない。僕は迷わず中に飛び込んだ。
館内は非常灯だけで薄暗いが冷房だけは効いていた。
入口の方でなにやら怒鳴り声がする。言葉は通じないがここに逃げ込んだぞと言っているらしい。
これはマズいと更に奥に逃げていくと、行き止まりに昔の隣国との戦争の歴史を記録した見覚えがある大壁画が現れた。
後ろから追っ手の声が近づいてくる。銃で武装して完全に戦闘スタイルだ。これじゃ古代より現代の方が酷いじゃないか。
なんとかこの壁を越えられないかと手探りするが、非常ドアなんかあるわけない。
ふと目の前に記憶にある絵がみえた。戦争で捕まえた捕虜を去勢しているという、妙に印象に残った壁画だ。その前で、殺されるよりはいいかなどと考えたのをなぜか思い出した。
僕はもうやけっぱちになって壁画を力いっぱい押そうとした。
すると壁は動かないのに僕の身体がその壁画の中に吸い込まれるように通り抜けてしまったではないか。
まるで壁自体がバーチャルリアリティの立体画像であったかのように裏側に出ると、そこはやはり薄暗い空間であったが、博物館とは全然違う場所だと直感した。
たくさんの石の柱で支えられた神殿のようだが、古代建築にしては妙に新しい。空気が乾燥して焼け付くように暑い。
僕はわけがわからないまま、おそらく入口があるらしい光が見える方に歩きはじめた。
「止まれ」突然声がした。日本語じゃないけどさっきまでのアラビア語と違って、なぜか意味が理解できた。
「待ってくれ」僕の返事も自然に出たが、これも日本語じゃない。
知らない外国語を突然話したり聞いたりできる現象を、新約聖書では異言と言うそうだが、それなのか?。僕は薄暗がりで声の主の姿をまじまじと見た。
その男の服装は洋服でもアラビア風でもなく、エジプトに来てから一度も見たことがない長い布をまとったような服装だった。上半身は露出部分が多く、何と言うか古代エジプトの壁画にあるような、旧約聖書の出エジプト記が映画化されたときのモーゼみたいだった。
しかも今まで追っていた男たちと違って肌が褐色だ。
男は剣を抜いていて僕に突きつけて言った。
「もう逃げられないぞ、おとなしくあきらめろ」
あきらめろと言われても好きで逃げていたわけではないんだけど。
男が手で入口の方に合図を送ると、やはり褐色の肌をした数人の男が駆け寄ってきて、植物のつるで出来たような縄で、あっという間に僕を後ろ手に縛り上げた。
「捕虜が1人足らないと思ったらこんなところにいたのか」
「それにしても異国人は変わった服を着ているな」
外国人だと分かっていて捕虜?。何でこうなるのかさっぱりわからない。
肩掛け鞄は取り上げられた。
「連れて行け」
僕は剣を持った男の命令で、その部下らしい兵士たちに引き立てられ、神殿のような建物の外に連れだされた。
不思議なことに博物館に入るときは快晴だったはずなのに、なぜか空がどんより曇っている。
それよりおかしいのは街の様子だ。カイロの近代的な街並みが全部レンガ造りらしい貧弱なあばら家に一変してしまっている。
振り返ると、僕が出てきた石造りの建物だけ、ルクソールの神殿並みに立派だ。それにしてもあの近代的なビル群はどこに行ってしまたんだろう。
「こっちへ来い」
兵士の1人が僕を縛った縄を引っ張った。その方向を見ると50人ぐらいの若い男たちが、やはり後ろ手に縛られて並ばされていた。肌の色は東洋人に近く、カイロの街で見かける兵士たちより薄いぐらいだ。
彼らの服装は先ほどの兵士たちと違って、短い布に丸い穴を開けて頭から被り、身体の両側を紐で結んだ上着と、一枚の布に紐を付けて腰の左右で結んだ下着だった。色は薄汚れた白で、全体に兵士たちよりは僕の服装に似ていた。
その集団の中に連れて行かれると、先ほどの兵士たちとはまた違った外国語が聞えた。
「ベオル?。どこに行っていた?」
「いつのまにかちょっと変った服に着替えているな。どうしたんだ?」
ちょっと待ってくれ、僕はベオルとやらじゃないと言おうとしたが、そこでまた彼らの言葉が理解できていることが分かって愕然とした。これはただ事じゃない。
話から想像するとベオルという男は、今朝早く脱走したらしく、しかも彼は僕と間違えるほど似ていたらしい。
これはちょっと本当のことを言うより様子見だなと思って黙っていると、リーダーらしい男がさとすように言った。
「女にされるのが嫌で逃げ出したんだろうが、ここは敵地。どこへ逃げても無駄だ。おとなしく生き残ることを考えろ。1人でも逃げると全員が殺されるかもしれんのだぞ。幸い戻ったから助かったが」
女にされるだって?!。いったいどうなっているんだ?。僕は流石に動転して口を開いた。
「ぼ、僕はベオルじゃない!」
この言葉も日本語じゃない。でもどういうわけか彼らの言葉で自然に出た。
カイロ博物館奇談◆PART2〜不思議な俘虜たち◆はこちら
-
投稿:2011.05.01更新:2021.10.21
カイロ博物館奇談◆PART1〜逃走と捕縛◆
著者 名誉教授 様 / アクセス 22046 / ♥ 64