「なあ、いいべした。一回くらい。先ッ穂だけ。先ッ穂だけだこて。誰もこんなとこまでは来めえさ。」
「ダメよ。掟は知ってるでしょ。そういう事はダメだって。キャッ」
沢辺の岩蔭から、沢の水音に雑じって何やら男女の淫靡なやり取りが伝わって来る。
「巫女ったって、どうせもうすぐ終わるんだし、俺はもう我慢できないんだよ。」
「マア、龍ちゃんのこれ、もうこんなに猛って・・・。穢れに触れたら禊をしなきゃならないのに。しようがないわね。」
「久美ちゃんの手で、ふぅぅいい。柔らかい手で扱かれるのは、本当に・・・」
どうやら女の方が手淫で男の方を絶頂に導いてお茶を濁そうとしているらしい。暫く艶めかしいやり取りがあり、間もなく男が果てたようだ。
「嫌だわ。五尺も精を飛ばすなんて。」
言葉とは裏腹に満更でもなさそうな女。
「沢まで届くとはな。ふう、スッキリした。」
さっきとはうって変わって、サッパリした感じの男。
谷戸はもうたそがれ時だ。人家のない谷戸の上手は既に夕闇に包まれようとしている。二つの影が谷戸を下ってゆく。下手の方に点在する人家には既にラムプの明りが灯っている。二つの影は一番上手の一際みすぼらしいあばら屋の前に止まった。
「久美ちゃん、また明日。」
「龍雄さん、また明日。」
影は一つだけとなり更に谷戸を下って行った。龍雄は逡巡し、久美子を送るのを口実に、三尾家で蓄音機を聞かせて貰おうかとも考えたが、すぐに考えを改めた。三尾家の者は龍雄と久美子が仲が良いのを良く思っていない。それに、電気すら通っていない田舎の谷戸に狼藉者など居ない。谷戸の住人はすべてが顔見知りだ。この谷戸には駐在所すらないのだ。
龍雄は久美子を見送った後、引戸を開けあばら屋の中へと消えた。
「おう龍、帰ったか。」
「お父、兎獲ったんけ。晩飯は兎汁だか。」
「おめ、また三尾さんとこのお嬢ちゃんと一緒だったべや。三尾さんとこの嬢ちゃんと何してた。沢で目ぐわいしてたんじゃあるめいな。いいことしてんなえ。」
龍雄の父親は、責めるでもなく、むしろ冷やかす口調で龍雄をからかった。既に町で毛皮と交換して来た御酒を少々上がっているのだ。
「そんなんじゃねぇ。久美ちゃんは今は谷戸の巫女だこて、ほだいことさんねえべした。」
龍雄はやや顔を赧らめつつ父親に、集めて来た山菜・蕈を籠ながら渡した。ラムプの明りに、囲炉裏の煮炊きする火が、父子と背後の簔や猟銃、鉈などを赤く照らす。
父はさかづきを置きしばし、汁物の材料を煮立った鍋に無造作に入れる。自在鉤に吊るされた鍋がかすかに揺れる。
「味噌と漬物と・・・。龍、魚は採って来ねかったか?んだば、これぎりだ。」
夕餉は、玄米飯・兎汁・漬物である。これでも悪七の家の食事としては豪勢な方である。これに魚が付いたらもう御大尽である。
汁ができ食事の支度ができると、父は酒をさかづきにつぐのを已めて、夕餉を肴に徳利ごと呷った。
「この部落の者だったら子供でも知っていることだが・・・」と前置きし、酒の勢いも手伝って昔話を始めた。
昔々の事、この谷戸には、白狐と黑蛇が居た。黑蛇は事あるごとに人々を苦しめ、暴れまわっていたが、白狐が黑蛇に噛み付き、遂に殺してしまった。こうして蛇拔谷戸では以来、御狐様を祭神とした。峰の上にあるまなこ岩は、苦しみのあまり、黑蛇が落とした目玉であるという。そしてその体は、引水川となったと。尤もこれは、祭神と谷戸の地形を神話化したものであると、民俗学者は見ている。ともあれ、江戸時代の治水事業もあり、暴れ川であった引水川は、大分穏やかになり、谷戸は農耕も可能となった。
さて、江戸時代に蛇拔谷戸村と呼ばれる自然村には、奇怪な習俗があった。黑蛇祭という夏祭である。これだけであれば、何の変哲もないただの田舎の夏祭である。
奇異なのは、部落出身の少年がその殖栗と玉茎を供物として鎮守様に捧げるという義式が行われることである。幼いものでは六歳、長じたものでは十六歳との記録が残る。安政元年に十歳の男児が殖栗と玉茎を失ったのが最後となり、明治以降は、糯米で餠を搗き、それらしき形を作り神に捧げる形になったという。
また、蛇拔谷戸では、代々鎮守に仕える巫女が験を以て選ばれ、鎮守を輔佐して村を守護する力を持つとされた。験を持つ者は、必ず部落から現れ、記録では、巫女を務めた期間は最も短い場合は一年に満たず、長い場合は十年に亙る場合もあったようである。年齢も幼女と言える年齢から、大体平均すると十五歳、最高で数えで二十五歳まで様々であった。
「おめもよ、巫女さんを穢したら、鎮守様に供物を捧げなくちゃなんめえな。悪七家の名を辱めてくれるなよ。」父はかような内容を語った後再び茶化して、しししと下卑た嗤いを浮かべるのであった。
龍雄は、虎となりつつある父を無視し、自在鉤にかかる鍋に煮える兎汁に視線を落とした。自分も久美子が欲しくないわけではない。その白くしなやかな肢体や黒髪を想像し野山で自瀆をしたことも一度や二度ではない。先程も衝動が先立ちあわや巫女を穢す所であった。こんな日々がいつまで続くのか、否、よしんば久美子が巫女を辞め、思うさま交われるとしても、三尾家の家人が俺と久美子の結婚を認めてくれるであろうか。否。この部落では最も貧しい俺の家と名主より裕福な三尾家では釣り合いが取れない。どこの馬の骨とも知らぬ奴にと言われるがオチである。本気で久美子を手に入れる積りであれば、駆け落ちする他なかろう。こんな事を考えている内にまた玉茎がおえてしまい、収まるまで坐しておるしかなくなった。無理もない。龍雄は今年で十四。突き上げるような性衝動を馭する術をいまだ知らぬ若者である。
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投稿:2021.02.13更新:2021.02.13
白狐と黑蛇―巖清水
著者 雛咲美保登&長谷福利 様 / アクセス 5875 / ♥ 18