海の必需品ともいえる紫外線カットのクリームには、日焼け防止という意味の他に皮膚がん予防という意味もある。しかし、逆は必ずしも真ならず、紫外線カットで全ての皮膚がんは防げない。例えば石綿、例えば亜ヒ酸。これら猛毒物こそ昭和時代に取り締まられるようになったものの、他にも候補はいくらでもある。
究極の皮膚がん予防は何か? それは脱皮だ。脱皮の始まりは皮が固くなり、その間に新しい皮膚を下に準備して、最後は一気に古い殻から抜ける。人間ですら、実は傷の修復の際に瘡蓋という固い皮を作ってその下で再生を行っており、見方を変えれば部分的に脱皮していることになる。そのメカニズムを追究すれば、全身脱皮を促進する薬の開発も不可能ではない。それは皮膚がんに対する切り札とも云えよう。
そんな脱皮薬が開発されて間もない頃、その男は皮膚にシミが増えて来たことを気にしていた。まだ皮膚がんではないもの、どうにも落ち着かない。とうとう皮膚科に相談に向かったところ、医者は年齢、家族、既往症、仕事などを聞いた上で男に脱皮薬を勧めた。その際、医者が
「並だからかまわないな」
と口走ったのを聞きとがめた男が
「並って、何ですか? シミの具合ですか?」
と問い直したところ、医者は一瞬きょとんしたものの
「あ、独り言が聞こえたのか。うん、そうだよ」
と微笑んだので、男も安心して投薬を了承した。
医者はさらに続けた
「ところで、脱皮の度合いはどうしましょう?」
「度合って何です? もしかして脱皮する場所を特定できるのですか?」
「いえいえ、脱皮といえば全身に決まっていますよ。ただ、体質にも寄るのですが、脱皮の厚みが場所によって違うんです」
「…それって、もしかして、不格好な体型になるってことですか?」
「ああ、或る意味そうとも云えますね…」
口ごもる医者に男は疑惑の目を差し向ける。
「…それでですね、不格好さをさける為に、はじめから分厚く脱皮したい箇所をある程度指定できるんですよ」
「と云いますと、例えば?」
「お腹まわりとか、肩とか、膝とか、胸とか、顔とかです」
そう云われて、男は自分の体を見直した。きちんと運動して腹筋は割れている。上半身もがっしり系で満足している。そぎ落とすところなどどこにもない。運悪く、どこかの肉が余分に削られても、鍛え直せばよいだけだ。顔だって今のちょっとワイルドな感じは嫌いでもない。そもそも新薬なんて、何がどう間違えるか分からないんだから、余分な注文なぞ出来るだけ避けるのが正しい。
「いいえ、結構です。問題があっても鍛え直しますから」
「ああ、そうですか。ではこの同意書にサインをお願いしますね」
一ヶ月後、脱皮を済ませた男は医者の言葉を思い直していた。確かにお腹周りをもっと削って、高くて細い腰にすべきだった。確かに肩を削って滑らかにすべきだった。確かに膝を小さくして、尻から太ももへの丸みをつけるべきだった。確かに胸板を薄くして、ブラシャーの似合う背中にすべきだった。確かに顔を小さく丸くして女として通じるようにすべきだった。
そう、脱皮の一番分厚い部分は股間と喉で、ついでに顔の毛根は消えてしまったのである。まるで宦官のように。
ちなみに、睾丸を持たない者向けの脱皮薬は未だに発売されていない。
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裏話
出産率の低下に伴う少子化に手を焼いた政府は、太平洋戦争後のベビーブームの再現を夢想していた。それは戦死で男が減って、男の競争率があがり、それが女性たちに「出来るだけ早く手を付けて既成事実を作る」という風潮をもたらしたのだろうと結論づけた。アメリカが初めた「レディーファースト」という風習も、西部開拓で女が圧倒的に少なかったからだし、今でも女余りの地方ほど、男余りの都会よりも出産率が高い。
ということは、男を減らせば女性の出産意欲(焦り)が高まる筈だ。それが正しいかどうかは分からないが、時の政府はそう考えた。そういう訳で、脱皮薬、隠語を宦薬と呼ばれる事実上の去勢薬の使用が水面下で推奨され、同時に「皮膚がん怖い」のキャンペーンが進められたんであった。医者に科せられて任務は、相談者が子孫を残すべきような人材であるかどうを判断するというもので、或る意味、ナチスの民族浄化と同じ危険なものあったからこそ、本人の意思の確認という手続きが不可欠でもあった。上話はその例の一つ。
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投稿:2016.05.08更新:2016.05.08
皮膚がん予防
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