静脈の先に、僕はいない
交通事故により、陰茎を失ってしまった男子高校生の視点から、性の喪失とそれに伴うアイデンティティの崩壊、愛や未来への絶望感などに焦点を当てて、描いてみました。
事故に遭ったのは、六月の終わり。
放課後、自転車で坂道を下っていた時、トラックが突然飛び出してきて――後は、目が覚めたら病院だった。
くだらない不注意の連鎖。
誰のせいとか、何が悪いとか、そういう話はとっくに終わってる。
ただ一つ、変えられない事実だけが残った。
──僕の陰茎はもう、この世に存在しない。
切断、という冷たい単語。
医者は淡々と言った。
「陰部の損傷が著しく、再接合は不可能でした」と。
頭が真っ白になった。
現実感がなかった。
ただ、手術室の白い光の下、母の泣き顔が目に焼きついて離れない。
それからの日々は、ただの「喪失」だった。
痛みは確かにあった。
けれど、それ以上に、僕を苦しめているのは、あやかの存在だった。
あやかは、ずっとそばにいてくれた。
入院中も、退院後も、変わらず僕の手を握ってくれる。
彼女は可愛い。胸が大きい。
笑うと、その谷間がわずかに揺れる。
夏になれば、シャツが汗を吸って、柔らかなラインが浮かび上がる。
遮る物のないあやかの豊満な胸を想像して、何度勃起しただろう。
欲望が、肉体の奥からせり上がってくるような、あの感覚。
──もう、それはない。
触れても、見つめても、何も起きない。身体は静かすぎて、逆にうるさい。まるで、死体みたいだとすら思うことがある。
街を歩けば、雑誌のグラビアは相変わらず胸元を強調した女の子たちで溢れている。
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脚、胸、腰、唇。
いたるところに性的な「罠」がある。
そして、それを見るたび、僕の中の「かつて存在した何か」が疼く。
──感じないのに、脳が反応してしまう。
陰茎を失うまで分からなかった。
世界がこんなにも、性の誘惑に満ち溢れていることを。
性の話題なんて、クラスで毎日のように飛び交ってた。
「昨日、彼女のアパート泊まったわ」
「ゴム忘れてマジ焦った~」
「お前、まだ童貞なん?」
そういう会話に、僕は愛想笑いで乗っかることしかできなかった。
いつか、友人たちと下ネタ話で盛り上った後、
あやかが「今度、私たちも……」と照れながら言った記憶がよみがえる。
あのとき、僕はドキドキしてた。期待して、勃起した。
そして今はもう、
一生、できない身体になった。
それが、どれほど取り返しのつかないことか。
目が覚めた時には、すでに“それ”は無かった。
痛みも、驚きも、呆然とする気持ちもあったけれど、
一番強かったのは、「まだ何もしてないのに」という悔しさだ。
誰もが経験するはずのこと。
誰もがどこかで通過していく「性の入口」。
その扉の前で、僕だけが、鍵をなくしてしまった。
あやかは可愛い、明るい、そして誰が見ても性的な魅力にあふれた女の子。
そんな彼女と、性的な交わりを経験することなく、陰茎を失ってしまった事実。
それが僕の精神に深く影を落とす。
焦燥、喪失、怒り、孤独、後悔。複雑な感情が僕を蝕んでいく。
夜。家族が寝静まった部屋の隅で、僕は布団を頭までかぶって、息を殺して泣いていた。
声を出してしまえば、母に聞こえるかもしれない。
でも、もう何日も、涙が勝手に出るようになってしまった。
自分の意思とは関係なく。
僕の思春期は、事故のあの日に終わった。
初体験を語ることもないまま、性の記憶は「空欄」のまま老いていく。
こんな未来に、生きる意味を見出せるだろうか?
誰かを愛しても、もう一線を越えることは永遠にできない。
彼女を満たすことも、子どもを持つことも、求め合うことすらできない。
愛ってなんだ?
心だけじゃ、体を求め合う人たちには敵わない。
彼女が僕に「一生そばにいる」と言っても、その言葉に彼女の欲望は含まれていない。
…結局、僕は、ただの“残骸”だ。
体だけでなく、心も、恋も、未来も……全部、置いてきぼりにされた。
陰茎は僕にとって自己定義そのものだった。
「今日、うち誰もいないんだ」
放課後、あやかがそう言って、僕の手を握ってきた。
柔らかい手。優しい瞳。
声は少し震えていて、それが覚悟の表れだと、すぐにわかった。
僕は一瞬で、体の奥が冷たくなった。
彼女は、ただ僕ともっと近づきたいだけだ。
愛してくれているから。信じてくれているから。
だから今日、勇気を出して、僕を家に誘った。
なのに僕は。
ただ、怖かった。
彼女に裸を見せること。
触れられること。
確認されること。
そして――それでも「好きだよ」と言われてしまう可能性。
僕は、それすら、耐えられる自信がなかった。
彼女の部屋は、薄く甘い香りがした。
ベッドの上に座って、ぎこちなく笑う僕に、あやかはそっと寄り添ってきた。
「緊張してる?」
彼女の声は震えていた。
僕よりも不安そうで、可愛くて、儚くて。
でも、その優しさが今は刃のようで。
「……ごめん。ほんとに、ごめん」
僕はそれだけ言って、顔を伏せた。
彼女は驚いた顔をして、一瞬だけ言葉を失った。
でも、すぐに僕の背中に手を回して、そっと頭を撫でてくれた。
「大丈夫だよ。何か、ずっと悩んでるんだよね?」
僕はうなずいた。
けど、その優しさが痛かった。
彼女はそれ以上何も聞こうとしなかった。
そのあとも、しばらく他愛ない話をした。
けど、あやかの視線が時折僕の胸や手に触れるたび、
その奥にある“期待”を感じて、僕は泣きそうだった。
彼女は僕を「男」として見てくれている。
でも、僕はもう、その役割を果たせない。
「……お風呂、入ってく?」
その一言が、引き金になった。
僕の中の何かが、音を立てて崩れた。
頭の奥がカーッと熱くなり、喉が詰まる。
心臓が痛いほど早くなって、辛くて、視界が滲んで、息ができなかった。
ただ、「うん」と答えることが、できなかった。
「……あやか」
僕の声はかすれていた。
「……ごめん、帰る。今日は……無理だ」
「えっ、うん、でも……」
あやかが焦った声を出したとき、僕はもう立ち上がっていた。
部屋の扉に向かって走り出し、ドアノブに手を掛ける。
「待って!」
あやかが、必死に僕を呼び止める。
「理由を教えてほしいの。無理してるなら、言ってほしいな。私、ちゃんと聞くから」
――部屋が静寂に包まれる。
あやかが僕の言葉を待っている。
しばらくして、僕は笑った。
嘘みたいな笑顔だったと思う。
でもその笑顔の裏では、喉の奥が締まって、息が詰まりそうだった。
──今、言わなきゃ、一生言えなくなる。
でも、言った瞬間に、すべてが壊れる気がして、
僕の心臓が、音を立てて暴れる。
「実は、あの事故で……身体、ちょっとおかしくなってて」
涙をこぼしながら、喉からひねり出すように、やっと言葉にした。
目を伏せたまま、彼女の顔を見ることができなかった。
「……男じゃなくなったんだ」
あやかは目を大きく開き、口元を両手で押さえた。
「……え、それは……」
続く言葉を発そうとして、一度飲み込んだ。
「……おちんちんが……その、なくなったっていうこと?」
僕は、黙ったまま頷いた。
震える手で、ベルトを緩め、ズボンを下ろす。
あやかは何も言わず、ただ見ている。
下着に手を掛ける。
時間の感覚が狂う。
しばらくそのままだったかもしれないし、僅かな時間だったのかもしれない。
僕は、目を閉じ、秘匿していた真実を、あやかに曝け出した。
あの夜から、しばらくの間、あやかは何も言わなかった。
会ってはくれる。笑ってくれる。
でも、その笑顔の奥に、何かがあることは分かっていた。
僕は、聞けなかった。「どう思った?」なんて、聞けるわけがなかった。
その答えが、僕を完全に壊すかもしれないから。
そして、ある夜――
「今日、ちょっと、ちゃんと話がしたい」
あやかは、僕の部屋に来るなり、そう言った。
声は静かで、真っ直ぐだった。覚悟のある声。
僕は、すべてを予感した。
彼女はベッドの端に座り、手を組んで、下を向いていた。
「ずっと、考えてたの。たぶん……あの日から、ずっと」
僕は黙ってうなずいた。
「私は……あなたのこと、今でも本当に大好き。嘘じゃない」
彼女の言葉は、まっすぐ僕の胸に届いた。
僕はその言葉にすがりたかった。
全部、それだけでいいと、思いたかった。
「でも……それだけじゃ、だめだった」
次の瞬間、胸の奥がざわついた。鼓動が乱れた。嫌な汗がにじんだ。
「私ね、自分でもすごくイヤだったんだけど……どうしても、あなたとエッチしたいって、思ってしまってたの」
声が震えていた。彼女は泣きそうだった。
エッチしたいという言葉。今の僕にとってあまりにも残酷な言葉だった。
僕も、もう、涙をこらえられそうになかった。
「でも、その気持ちが……あなたを苦しめてるってわかったとき、すごく怖くなった。私、ただ好きなだけなのに、あなたを壊してたのかなって」
彼女の言葉に、うつむきながら僕は何度もうなずいた。
彼女が悪いわけじゃない。
それはずっと、わかってた。
「だけど、やっぱり……私の中には、どうしても“触れたい”って感情があって、あなたと“ひとつになりたい”って……そういう気持ちが、消えなかった」
彼女は、膝の上で手を握り締めていた。
「それが……あなたとは出来ないって、おちんちんがないってわかったとき……すごく、苦しかった」
僕は、何も言えなかった。
僕がそれをどうこうできるわけじゃない。
ただただ、自分の“無力”と“事実”が、僕と彼女を傷つけている。
呼吸が苦しい。辛い。
「最低だよね、私……こんなことで悩んで。あなたは、私よりもずっとずっと、比べ物にならないくらい苦しんでる筈なのに」
「違う」
僕は殆ど声にならない声で、絞り出すように言った。
「でも……このまま付き合っていくのは……やっぱり、私には、無理かもしれない」
その瞬間、心臓の音が止まったように感じた。
「あなたのことは、今でも好き。好きだけど……男と女として、一緒に未来を想像することが……できない」
僕は、黙ってうなずいた。
頬は濡れていたが、もう新たな涙は出なかった。
出なかったからこそ、心の奥が冷えていくのが分かった。
「この先、ずっと『したい』って思うたびに、それを我慢して、それがあなたを苦しめて……私も、自分を責めて……そんな未来が、怖い」
彼女は泣いていた。
僕のために泣いていた。
「あなたにとっても、私じゃない誰かが……おちんちんが無くてもいいって、言ってくれる誰かが……」
僕は、そっと立ち上がって、窓を開けた。
夜風が部屋に流れ込んだ。
「もう、いいよ。わかってた。……でも、言ってくれてありがとう」
その言葉が、震えながら口から出た瞬間、また一つ僕の中の何かが崩れた。
「ねえ、お願い。お願いだから、私のこと、嫌いにならないで……」
僕は答えなかった。ただ、遠くの夜景を眺めていた。
彼女の声は、もう届いていなかった。
恋というものが、こんなふうに終わるとは、思わなかった。
あやかと別れてから、時間の感覚が消えた。
朝は、勝手に明るくなるだけで、僕が起きる必要なんてない。
夜は、勝手に暗くなるだけで、眠る理由もない。
学校は休んだ。
スマホも見ない。
誰とも話さない。
僕がこの世に存在してる理由が、どこにも見つからなかった。
ベッドの上に横たわったまま、天井を見つめていると、思考のほうが先に死んでいく。
食欲もない。
でも、性欲だけは消えてくれない。
意識のどこかがまだ「欲しい」と叫んでいる。
この体はもう、“それ”を持っていないのに。
あやかと一度もセックスできなかった事実は、ずっとずっと、おそらく死ぬまで、僕を苦しめ続ける。
夜になると、夢を見た。
あやかの夢。
手をつないで、笑って、僕の名を呼ぶ夢。
でも、どこかで毎回、彼女の顔が別人になる。
肌を重ねようとした瞬間、目を覚ます。
ベッドの中で、空白の股間を触ってみる。
何もない。ただ、少し硬くなった傷跡が、皮膚の下に存在するだけ。
興奮しても、快楽には届かない。
それでも、夢に反応した脳が、過去の名残で“疼く”。
何もできないのに、いや、何も出来ない今だからこそ、狂おしいほど強く、求めてしまう。
洗面所の鏡に映った自分の顔は、変わっていなかった。
昔と同じ顔。目、鼻、口、全部そこにあるのに――
見ている僕だけが、もうまるで別人のようだった。
股間にぶら下がっていた肉の棒。
ただそれが無くなっただけで、世界の何もかもが残酷になった。
SNSを開いたら、誰かがあやかと映っている写真を上げていた。
彼女は、笑っていた。
目を細めて、何かに寄り添っていた。
誰といるかは、わからなかった。けど、想像するのは簡単だった。
「きっと今、誰かに抱かれてるんだろうな」
声に出したとき、喉の奥がひりついた。
笑おうとして、笑えなかった。
羨ましいとか、嫉妬とか、そんな感情じゃなかった。
ただ、「それをできる誰かがいる」という事実が、自分の存在を否定していた。
僕は、何も残っていない。
誰にも触れられず、誰も触れられない。
この体は、もう交われない。
僕の人生は、あの事故で止まった。
それでも、他人の人生は続いている。
性を持ち、愛を交わし、未来をつくる人たちが、今日も当たり前のように甘い快楽を享受して、生きている。
ただ一人、僕だけが、過去という部屋に閉じ込められたまま。