私はトム・アンダーソン、英国の商人、ある大学で東洋史を専攻していたが、親の事業を次ぐことになって、急遽商人になった変り種である。
実は先年仕事のため、たまたま清国(現在の中華民国)に入国し、1年ほど北京に住む機会を得たので、これ幸いと、天津、上海、南京などを旅行してきた。
今回はそのとき見かけた、興味深い東洋の風習のひとつをご紹介したいと思う。
今回お話するのは、1901年の10月の南京市での出来事。
昼下がりの街の広場に人だかりがしているので行ってみると、これから「宮刑」が行われるところだという。
宮刑といえば、男子を去勢する中国の有名な刑罰だが、私が知っていた知識では、唐の時代に廃止されたはずである。
しかし、後で調べるとこの宮刑は、明の時代になって復活していたらしい。
今回、宮刑に処せられるのは、倉庫の番人であった15歳から45歳までの8人の男である。
彼らは、その立場を利用して官品の横流しをしていたのが発覚し、絞殺刑判決を受けたが、特赦で減刑されたとのこと。
広場には8本の柱が立っている。
中国の公開処刑場によく見掛けるこの柱は、絞殺刑や凌遅処死(有名な身体を切り刻む死刑)などに使用するもので、絞殺刑では、囚人はこの柱に両脚を揃えて、腰、足首、両手を柱に縛りつけられ、首に回された紐で絞殺され、凌遅処死では素っ裸にされて縛りつけられ、全身の肉を少しづづ削ぎ取られるのである。
しかし今夏は宮刑なので、受刑者は順番に、凌遅処死と同じように柱に縄で縛りつけられ、両脚は開き加減で足首を柱の後ろで括りつけられて、背中に柱を抱いているような恰好にさせられる。
この状態で、役人がむき出しの陰茎、陰嚢全体を布で包んでいくが、性器は恐怖で縮み上がっているため、役人は性器を包むと同時に布でぎゅうぎゅう縛り上げて、充分に勃起させるのである。
ただし、性器全体を包むと言っても亀頭部分は隠さない。
これは、刑を確かに執行したことが、誰の目にも明らかになるようにするためらしい。
役人が薄くて大きい刀を持って、まず、恐怖で震えている15歳の少年に近づく。
この刀で陰茎、陰嚢とも一瞬で切り落とすのである。
もちろん麻酔はない。
刀が一閃し、張り裂けるような声が聞こえた。
少年は気絶したらしく、恐怖のときは一瞬で終わった。
刃物が振り下ろされ、血飛沫が舞い、残り7人の悲鳴が、次々と広場に響いた。
局部を真っ赤に染め、壮絶な痛みで半死半生の受刑者が柱から下ろされ、地面に仰向けに寝かされた。
性器を切断した痕には、尿道が潰れないように細い金属の栓が挿入され、医師らしき人の手で、止血と消毒が行われた。
受刑者の治療は政府が行い、3ヶ月後に傷が治ってから釈放するのだそうだ。
もちろん、宮刑は処刑の痛みだけでは済まないわけで、受刑者たちは、全ての男性としての機能を剥奪され、性交、手淫はもちろん、立小便する機能も失ったのである。
宦官を志望して、大金を払って手術小屋「小廠(チャンツ)」で自ら去勢してもらう者が多かった時代に、わざわざ刑罰として宮刑とは奇妙なように思われるが、宮刑に処されたものは、宦官の職を得ることはできず、単なる不具者になるだけだったのである。
私は、このあと北京に帰ってしまったため、宮刑の傷が癒えた3ヶ月後の8人の様子を確認することはできなかった。
ただし、北京の街中では、多くの宦官を見かけた。
清国のトイレは扉が無いので、小用のためにしゃがんだ宦官の局部を、何回でも見ることになった。
一回は、私が「大」をしていたら、通路を隔てて向かいあわせの四角い穴だけの便器に15歳ぐらいの宦官が来てしゃがみ、お互いにらめっこをするような形になった。
私は数分間、少年宦官の局部の切断痕を観察しながら、きっと南京の受刑者らもあのような身体になったのだろうなと想像することはできた。
宦官の小便はかなり前上方へ飛ぶようで、少年宦官の尿は穴を越えて通路まで跳ねていた。
実を言うと、そういえば逆に向かいの少年宦官からは、私の局部が見えていたことに思い当たった。彼はそのとき何を思っていたのだろうかと、だいぶ後になってから1人赤面した私であった。
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投稿:2003.11.02更新:2022.06.14
アンダーソン氏の中国紀行~囚人8人集団宮刑
挿絵あり 著者 名誉教授 様 / アクセス 27162 / ♥ 103