カイロ博物館奇談◆PART1〜逃走と捕縛◆はこちら
カイロ博物館奇談◆PART2〜不思議な俘虜たち◆はこちら
カイロ博物館奇談◆PART3〜処刑広場にて◆はこちら
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カイロ博物館奇談◆PART7〜宦官への道◆はこちら
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私は大学教授で考古学者の作村吉治。今関空からカイロに向かうエジプト航空の機中にいる。同行しているのは私のゼミ生の馬場くんと笠松くんだ。
私の専門は中近東の古代史で、特に今のパレスチナ地方の歴史研究だったが、モーセの十戒の話などを本に書いているうちに、エジプト考古学の解説者としてマスコミにも出るようになり、世間からはいつの間にか「ピラミッドとミイラ学の作村」などと呼ばれるようになってしまっている。
ただし今回のエジプト行きは、テレビ番組出演のためではない。先日エジプトで突然勃発した革命で、たまたまエジプト旅行中だった私のゼミ生の壇義也くんが行方不明になったままなので、その消息を尋ねるのが目的だ。
カイロに着くと、独裁政権が倒れてから半年がたち、隣国に飛び火した内乱もようやく終息に向かっていることから、以前とあまり変わりない光景が見られた。ただし、日本人観光客のツアーなどはまだ再開されていないし、観光名所もまだまだ活気が戻ってはいないようだ。
私はまず、壇くんが宿泊していたというカイロ中心部のサファリ・ホテルを訪ねた。ここは1990年開業だが、駅や市場や博物館にも近く、家庭的な雰囲気から日本人バックパッカーに人気となった。
誰が決めたのか「世界三大日本人宿」とまで呼ばれたというが、確かに革命直前は宿泊客のほとんどが日本人の若者だったらしい。
ホテルのオーナーのザルカ氏によると、壇くんは革命の真っ最中に近所までと言って外出したら、その直後にホテル一帯で戦闘が始まり、それから戻ってこなかったという。
オーナーも心配になり、革命が収まってから市内の病院や遺体安置所をくまなく探したが、日本人の怪我人や犠牲者はいなかったということだ。
ザルカさんは、宿泊客は革命前の1割以下です。当時を知るお客さんは残っていませんと、話してくれた。
私はホテルを出て警察署に向かった。幸いなことに以前の発掘時の警備でお世話になったアメル氏が刑事部長に昇格していた。アメル部長の話でも壇くんの手がかりは全くないという。アメル部長と昔の発掘調査の話をしているうちに、革命の最中に私も発見にすこしかかわった博物館に展示された大壁画の前で、青年が兵士に狙撃されて死んでいたという話をしてくれた。
発見されたのは、ちょうどピラミッド付近の観光ラクダ業者がカイロ市内のデモ隊を襲った日のあとで、つまり壇くんが行方不明になった頃になる。ひょっとして壇くんではないかと思って写真を見せてもらった。
馬場くんも笠松くんも壇くんに似ていると言ったが、アメル部長によると青年は間違いなくアラブ人で、東洋人的特長は全くなかったという。
それよりも奇妙だったのは遺体の特徴で、まず服装が古代エジプト人そのもの。これだけならピラミッドあたりで写真撮影を勧める観光業者が、ラクダの襲撃に加わっていたのかなとも思うが、検視をしたところ驚くべきことが分かった。
なんとその青年はペニスを根元がらスッパリ切り落としていたそうだ。それも病院の医療ではなく明らかに素人手術で、その割には予後は良好だったそうだ。検視医の見立てでは、切断後3ヶ月ほどは経過していたらしい。
アメル部長は、今後の研究に役立つかもしれないのでと、青年が着ていた服の切れ端を渡してくれた。確かに本格的な古代の織り方だが、コスプレの服ではあまり意味がない気もする。
次に博物館を訪ねた。この博物館も革命のときには一部が略奪にあっている。かって一緒に発掘調査で汗を流したガラーナ研究員は無事で、大歓迎で迎えてくれた。久々の再会で本来なら研究の成果を語り合うところだが、今回は壇くんの捜索が主目的だ。
警察署で聞いた青年のことは、ガラーナ研究員もよく知っていて、観光業者が去勢するなんて変な話だと首をかしげていた。
それから思い出したように、去勢と言えばと長い間博物館の収蔵庫で忘れられていたミイラが、この革命の略奪騒ぎで再発見されたという話になった。しかも宦官のミイラであるという。
ガラーナ研究員の案内で、改修が終わった展示室に行くと、そのミイラが中央のガラスケースに展示されていた。ミイラを巻いてあった布は半分以上なくなっていて、晒された股間には確かに一物が全くない。
傷痕の状態から死後の儀礼的切断ではなく、青年のときに去勢されてからかなりの年齢までで生きていていたことが分かるそうだ。しかも同時に見つかった埋葬状態の資料だと、相当高位の官僚だったらしい。
ガラーナ研究員の話では、時代はラメセス2世からメルエンプタハ王の頃に生きた人で、当時宦官にされるのは外国人捕虜と決まっていたことから、捕虜の中で才能を見出されて出世したのかもしれないという。
まだ人種などは特定できていないとのことで、日本の方が検査が早いでしょうと言って、ガラーナ研究員は私に遺体から取った皮膚の一部の標本を分けてくれた。なぜか標本ばかりもらう日だ。
結局、壇くんの手がかりは得られないまま、私は再び機中の人となった。帰りは成田便。日本に近づくほど気が重くなった。
帰国後2ヶ月たった頃、私の研究室に例のサンプルの検査結果が2つ同時に届いた。1つは射殺された青年の服から取った布の放射性同位元素による年代測定結果だが、それを見て驚いた。何と3200年以上昔のものだと言うのである。
「どうなっているんだ。」
私はおもわずつぶやき、室内にいた馬場くんと笠松くんが寄ってきた。
もう1つの結果はさらに驚くべきものだった。あの宦官はミイラのDNA検査の結果、現在の東アジア人と同じ特徴を持っていると言うのだ。
「黄河文明とエジプト文明が交流・・・・まさかな。」
私は、この信じられない結果をどうホ報告したらよいのか、研究室で途方にくれていた。
(完)
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投稿:2011.09.04更新:2021.10.21
カイロ博物館奇談◆PART9(最終回)〜革命の落とし子◆
著者 名誉教授 様 / アクセス 22445 / ♥ 68